第196話 戦の香り

「東の戦が終結したばかりだが、西方が騒がしいのだ」


「西と言うと……カルタゴか?」


「そうだ」


 テーベの西方には二つの小国を挟んで、その向こうに商業王国カルタゴがある。海上貿易で得た巨利を裏付けとする豊かな財政は、農業を基本とするテーベのそれを凌駕する。


「潜ませている諜報から知らせがあった。最精鋭たる戦象部隊が東国境に向け出発し、軍船が港に集結していると。近々東……すなわちテーベに向かって軍事行動を起こす可能性が極めて高いのだ」


「戦象か……厄介だな」


 カルタゴ軍の主力は、海上では帆走と櫂を併用する独自のガレー船艦隊、そして陸上では戦象部隊である。魔獣を除けば最大最強の動物である象の体高と重量を活かし、ひたすら前進して敵軍を分断し、押し潰す。正面からぶつかればイスファハンの重装騎兵も、そしてテーベの誇るラクダ騎兵部隊すら、蹴散らされるであろう。


「常套手段としては、我々のラクダ部隊の速度を利用して突撃をかわして取り囲み、長槍を何本もぶち込んでやれば、いい勝負になるのだが……」


 ムザッハルが言葉を濁す。そう、テーベが頼りとするその精鋭部隊を一回の戦いで一万騎強も失わせたのは、目の前にいるファリドとフェレなのだから。


「残っているラクダ騎兵はどのくらいなんだ?」


 ファリドが、少しためらいつつ問う。主力部隊の兵力は軍事の最高機密に属する事項だ、仮想敵国の人間である彼に対し簡単に与えて良い情報ではないのだが……ムザッハルは、何の抵抗もなく答えた。


「およそ九千騎というところだ。戦象が数百騎程度なら何とか防げようが、どうも今回動いた部隊はほぼ全力出撃に近いらしく、二千だそうだ。とても敵し得ない」


 率直に自軍の不利を口にするこの皇子を、ファリドも見直しつつある。一度信頼すると決めたら徹底的に信じ、その言を素直に求める姿勢は、集団の指導者として、好ましいものだ。感情に流されやすそうなところが、若さゆえの欠点なのであろうが。


「二千か……そんな数の象に突っ込まれたら、正面からは止めようがないな」


「ああ、だから迷っているのだ」


「迷うとは、何をだ?」


 皇子が語り始める。そもそもテーベ軍の指揮権は二分されており、東はムザッハル、西は第一皇子アスランに軍権が委ねられている。だが今回カルタゴ侵攻にあたり、ムザッハルを総指揮官にすることをアスランが提案したというのだ。


「今回の戦は、絶対に負けられぬ。モスルを屈せしめたムザッハルの武勇なかりせば、カルタゴを止められぬとアスラン兄が申すのだ。父帝も心を動かされた様子で、俺の判断に任すとのことでな……どうすべきか、俺もわからぬのだ」


 それを聞いただけで、ファリドにはことの凡そが理解できてしまった。


 次期皇位を確実にするためにはもちろん武勲が欲しい。その状況でもあえてライバルたる弟を出陣させようとするアスランは、今回カルタゴに勝てる可能性はないと判断しているのだ。ムザッハルを褒め殺しして本来自らがやるべき指揮官を押し付け、敗戦の責任も取らせる。モスルの領土を奪い取り国内での評判上がる弟を「下げる」絶好の機会と考えているのだろう。


 ムザッハルも愚かではない。兄アスランの思惑など承知していながら、テーベ帝室の遺伝子ともいうべき武断の気質をもっとも色濃く継ぐ彼は、自らの力をこの困難な戦で振るってみたいという欲望に、衝き動かされているのだ。そしてそんな弟の気質を知っているからこそ、アスランも無理筋な指揮官交代を企図したのであろう。


 ファリドは、ため息をつく。これ以上ムザッハルの気持ちを聞けば、彼とフェレはカルタゴとの戦に巻き込まれ、つかの間の安息は、終わりを迎えてしまう。フェレはまた人を殺すことに己の力を使い、そのラピスラズリの瞳は哀しみに曇るだろう。


 そんな想いを抱いて向けた視線を、フェレが真っ直ぐに見返し、ゆっくりとうなずいた。ファリドは少しの驚きを抱きつつも、ある決意を固めてムザッハルに問い返す。


「わかった。じゃあ、ムザッハルはどうしたいのだ?」


「今回ばかりは戦力差が明らかだ。兄が逃げたのも無理ないと思えるくらい不利だってことは、さすがに脳筋の俺にだって、わかっているんだ。だが、それを承知で、俺は戦いたい。奴らがテーベの豊饒な大地を狙っているというのなら、俺の手で叩き潰し、民を守りたいのだ」


 ほとばしるように想いを吐き出すムザッハル。その苦しげな表情の意味はもちろん理解できる。一時のパッションで指揮官を引き受けて敗れれば、もともと貴族の支持基盤が乏しい彼が皇位につく可能性は、限りなくゼロに近づくだろう。その大きなリスクを冒してでも、戦いの先頭に立ちたいと望むこの覇気は、不快なものではない。


 そして、ムザッハルの後方からもう一人の皇子が現われた。


「『軍師』殿、そして『女神』殿。どうか、兄さんを助けてくれないでしょうか。他国の重鎮であるあなた方にこんなことをお願いするのは筋違いだとわかっております。ですがこの国のためには、アスラン兄に皇位を渡すわけにはいかない。ムザッハル兄さんに、誰にも文句を言わせぬ功が必要なのです」


 真剣な眼でファリドを見つめるハディード。ファリドは大きなため息をついて、二人の皇子に向かって眼を細めた。


 どうやらファリドの長期休暇は、終わりを告げたようであった。

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