第186話 モスル侵攻
国境を越えイスファハンに入ったところに、第三軍団長ミラード率いる一万五千の部隊が控えていた。シャープールの率いる速度特化部隊とは異なり、重装歩兵や攻城兵器まで揃えた、敵国を占領するための本格的部隊編成である。もちろん補給体制も、それに合わせ分厚い。
「お待ちしておりました、メフランギス妃殿下。御下知を頂き次第、すぐにでもモスルに向け侵攻できます」
「こ、このように迅速に準備を整えて待っているとは……」
「そこが『軍師』の周到なるところと言えますな。彼はこの時あることを予測し、編成を終えておくよう指示を残してモスルへ向かったのです。そして三日前に早馬で出陣要請がありました故、ようやく出番かと喜び勇んでここまで参った次第」
「さすが『軍師』……しかし、さすがにモスルに侵攻するとなれば政治案件だ、アミール陛下のご裁可を頂くことが必要ではないだろうか……」
ためらうメフランギスに、ミラードが無言で一通の書状を手渡す。肉厚の上質紙に流麗な書体で簡潔に記された内容を一瞥して、彼女が息を飲む。
「若しモスルの統治が正しく行われていないと国王特使ファリド卿が判断せし場合には、即時モスルとの盟約を破棄し、これを武力によって奪取併合することを予め認める。平定後の現地総督は、前王太子妃メフランギスを充てるものとす」
「こ、こんな具体的に。まさか……」
だがその書状には、まごうかたなき国王御璽がはっきりと捺されている。
「さすがは『軍師』というべきでしょうかな。ファリド卿は王都を出る際に、権力機構の腐敗激しいモスルを立て直せない場合には、滅ぼしても構わないという御諚を賜っていたのです」
長年の同盟関係を重視していたお人好しのアミールも、隣国の統治機能不全には悩んでいたのである。結局のところ彼は隣国の命脈を永らえさせるか否かの重要判断を、信頼する義兄の手にゆだねたのだ。その絶大な判断権を握っていた義兄……ファリドに対し出自や爵位ばかり見て軽視し、無礼の限りを尽くしたモスル王は、死刑執行書に自らサインしたようなものであったのだ。
「まあ、おそらく我々が侵攻せずとも、同盟を破棄するだけでいずれあの国は滅ぼされるでしょう。だが東西交易の要である『胡椒の道』を他国に押さえられては、はなはだまずい。南側の砂漠地域はテーベにくれてやるとしても、街道沿いの豊かな領土は、速やかに制圧しましょう……まあこれも、『軍師』が出征前に言っていた台詞なのですが」
軍団長ミラードが、メフランギスに促す。出征前にここまでの事態を予測し、予めその準備をしていたかつての部下に対し、ミラード自身も驚くとともに、その成長にわずかながらでも手を貸した自分を、誇らしく思っている。
だがその「軍師」も、自らがテーベに囚われる未来までは、予想しえなかったろう。「女神」と共にある限りむざむざ刑死したりはしないと思いたいが、砂漠の彼方に連行されれば、イスファハンに帰還することは、簡単なことではなくなる。
前途ある若者の不運にひととき暗澹たる思いを抱く彼だが、思い直して前を向く。まずは「軍師」が残した戦略を可能な限り迅速かつ完璧に実現することが、武人として自分がやるべきことなのだと。そして、その戦果をより大きくすることで、国にとっての英雄である彼らを取り戻す交渉材料を、少しでも多く用意できるだろうと。
彼が見つめる高貴な女性も、同じ思いを共有したのであろう。きゅっとあごを上げ、ただでさえ派手に大きい眼をかっと見開いて、大きく息を一つ吸ったかと思うと、落ち着いたトーンで、しかし驚くほどの声量で、命を下した。
「状況はわかりました。陛下の御意志、そして『軍師』の指示に従って、我々は即時モスルに侵攻し、王都を占領します。ミラード将軍、全軍の指揮を。シャープール将軍、遠征帰還直後でお疲れと思いますが、貴方の騎兵隊が頼りです、もうひと踏ん張りお願いします。そして私は、部族軍騎兵隊と共に、陣頭に立つでしょう!」
柔らかくウェーブする栗色の髪が、あたかも炎のようにぶわっとふくらみ、青い瞳からは視るものを射貫くような鋭い光が。陣頭に立つなど危ないと諫めようとした将軍たちも、言葉を飲み込まざるを得ない、圧倒的な見えざる力。本営の将兵たちは皆無言のまま、この派手系カリスマ妃に対し、膝を折った。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「聞くがよい! モスル王室は我が国が与えた長年の友誼に甘え、我らが誇る部族軍の勇士を侮り、挙げたる功を盗み、隣国の妃たる私自身をも死地に送り込んだ。あげくの果てに我らが英雄『軍師』と『女神』を、テーベの手に差し出すという愚行を為したのだ!」
「そうだ!」「許せねえ!」「あいつらは屑だ!」「俺たちの誇りを守れ!」
拡声の魔術に乗せてメフランギスが呼びかければ、部族軍はもとより、ミラード配下の正規軍からも、怒りや憤りの声が上がる。
「そして、恥ずかしながら我が生家であるモスル王室は、腐り切っている。信義を守らず賄賂が横行し、一部の大貴族のみ肥え太り民は搾取されているのだ。そして、王室の豪奢な生活のツケで民生も軍事も予算不足に悩まされている。軍の弱体化は目を覆わんばかり……先日までの戦でも、勝利を挙げたは我が部族軍のみ、モスル軍は連戦連敗であった」
トーンを抑えつつも、深い怒りをにじませて実家たるモスル王室の罪をあげつらう彼女の演説に、兵士たちも静まり返り、最後の言葉を待つ。
「もはや、現モスル国には『胡椒の道』の守護者としての資格も、実力もない! 我々はモスルに対して宣戦し、一気に彼らを叩きつぶす。それが、我々の英雄を取り戻す、第一歩となるのだ! 我々はここ一年の戦いで、二人の英雄に頼り切ってきた。その借りを返すべき時がきたのだ、者ども、進め!」
静寂の後、ざわめきが起こり、あちこちで雄叫びが上がり、やがてそれはあたかも地響きのように、赤茶けた平原に響きわたった。三万のイスファハン軍はこの瞬間、確かに一体になっていたのだ。
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