第185話 言ったとおりでしょ
そして数日後、ちょうどファリド達がここに来て八日目の午後のこと。モスルとの交渉から帰ってきたラージフが、驚いた様子を隠さずファリドに告げた。
「モスルが突然、当方の要求を全部吞み申したのでござる。ファリド殿の言われた通り……一体これは、どういう魔術でござるのか?」
そう、あれほど領土の線引きでぐずっていたモスルの代表団が、カヴァ渓谷以南の領域をすべてテーベに割譲するという条件をあっさり呑み、条約書にサインするやいなや逃げるように部隊を撤退させているのだという。それも「一週間か、ひょっとすると十日」というファリドの予言通りなのだ。
「……ん? リドも、『魔術』を使うようになったの?」
「いや、そういう領域は、フェレにお任せだよ」
ラージフの「魔術」という言葉に反応するフェレだが、この「魔術」は彼女の操るそれとは、まったく異質のものである。
「拙者は冗談を言っているのではござらぬ。強欲かつ狡猾極まるモスルの屑どもが、あんなにあっさりと譲歩するとは。それも、相手が折れてくるタイミングをこれほど正確に言い当てるなど、まさに『魔術』と言わずして、なんと言えばよいのでござろうか?」
心底驚き、敬服しているらしいラージフの言葉に少し頬を緩め、ファリドが口を開く。
「そうですね。モスルの王室は皆、信義をわきまえない貪欲かつ吝嗇な者たち。まともな外交交渉で、彼らを譲歩させることはできません」
「だが、奴らは譲った。その理由が知りたいのでござる」
「彼らが強気でいられたのは、拠って立つ足場が安泰だと信じていたからです」
「拠って立つ足場とは?」
ラージフの表情に、不審げな色が浮かぶ。
「彼らの場合、モスルと言う国の存在がそれです。彼らは、多少テーベにあちこちを削られたとて、すでに数百年続いてきたモスルと言う国の存在が失われることはないという根拠のない確信を持っている。だからテーベに対しても、イスファハンに対してもあれほど傲慢に振舞えるのです」
「むっ? では、まさかファリド殿は……」
「ええ。私の使った戦術は『魔術』などではありませんよ。彼らが頼り切っているモスルと言う『国家の存在』を、揺さぶってやっただけのことです」
「だとすると、今モスルはどうなっていると……」
「はい。もはや彼らの信ずる『モスル』は、ほとんど死に体でしょう。おそらく……新たな主が支配する『モスル』が生まれているのでは、ないでしょうかね」
静かに、だが自信をもって言い切るこの若き「軍師」の平凡な容姿が、ラージフの眼には巨人のように映った。自分たち旧き軍師の時代が、終わったのだという思いとともに。
◇◇◇◇◇◇◇◇
それは、一週間ほど前のこと。
シャープール率いる部族軍騎馬隊に護られ、悄然としてイスファハンに戻るメフランギスは、「女神」と「軍師」が自身の身代わりにテーベに連行されたことに対する衝撃と負い目から、未だ立ち直れずにいた。この日も、昼の大休止で深いため息をついている。
「妃殿下、どうかお気を強く持たれよ。あの二人なら、簡単に害される者たちではござらぬゆえ」
だが、もちろん簡単に戻って来られるわけでもない。慰めの言葉を口にするシャープールが、脳裏に浮かぶ不吉な予想を、ぐっと飲み込む。メフランギスもそれをわかっているのだろう、感謝の想いを込めて力なく微笑むものの、その表情から憂いのもやが晴れることはない。
「もうすぐ国境ですね。何らイスファハンの役に立てなかった私だけがのうのうと戻り、鬼神の如く活躍した二人が、敵の虜に……」
そう言って眉間に指を当てるメフランギスの姿に、シャープールが暫時思案の末、意を決したように言葉を発した。
「妃殿下、ここに『軍師』より預かりし書状がございます。本当は国境を越えてからお渡ししろと厳命されておったのですが……」
快活が売りであったはずの派手系元王太子妃が、海より深く落ち込む姿を見ていられなかったシャープールなのだ。もともと部族は男社会、女に腹いっぱい喰わせ、泣かせないことが男の役目だというシンプルな価値観で生きている者たちである。妃の憔悴を見て、手を差し伸べずにはいられない……こうして指定したより早く「軍師の書状」を渡してしまうことも、ファリドは想定していたのだが。
メフランギスが、奪い取らんが如き勢いで、書状を受け取り、震える手でそれを披く。そこには、モスル王室の愚かさに見切りをつけたファリドが、大陸の新たな秩序をつくるための手順が、丁寧に記されていた。そして、彼女自身へのメッセージも。
「メフランギス殿下。自らに厳しい貴女は、おそらくご自分を責めておいででしょう。ですが、それは無用、いやむしろ有害です。貴女は生まれながらにして大国を率いる素質をお持ちの方、その資質を民のために活かすことこそ、殿下の義務なのです。モスルの民は貴女の存在を渇望しています、どうか彼らを、導いて下さい」
派手な美貌が歪み、アクアマリンのように澄んだ青い眼から、こらえ切れず透明な雫があふれ出す。そして最後に、少しラフな字体で、短い追伸が。
「何より、貴女が活き活きとしていないと、フェレが笑ってくれませんので。俺にとって、それが一番大切なことなのですよ。そこんところ、義弟のためによろしくお願いします」
これまで固くこわばっていたメフランギスの頬が緩み、その口から、明るい笑い声が漏れだす。泣いたり笑ったり忙しく変転する妃の姿を、ただ茫然と見守るしかない哀れなシャープールであった。
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