第175話 前線へ

 怒りに赤くなったり青くなったりしている小物感を満載した国王の面前から退出すると、ファリドは深い深いため息をついた。


「これではテーベの侵攻がなくてもこの国の命数は、長くないかも知れないなあ」


「……燃やしてやろうかと思った」


 フェレが物騒な台詞を吐く。滅多なことでは怒らない彼女がこんなことを言うのは、ひとえに愛する男を貶された故である。やろうと思えば出来てしまうだけに、その言葉は冗談に聞こえない。


「ごめんなさい、軍師様、フェレちゃん。部族軍の皆さんにもお詫びしないといけないわね。わが父ながらあの無知ぶりと度量の無さは、庇いようもないわ。いえ父王だけではなく、王族も、高位貴族も……長年の平和とイスファハンの寛容に甘え、すっかり弛み切ってしまったようだわ」


 いつも活力に溢れている青い眼だが、今日は力が無い。思い入れある実家の危機に駆けつけたつもりが、あまりの守り甲斐のない親兄弟に、さすがに呆れている……たった今彼女をモスルに繋ぎ止めているのは、将たちとの友愛のみなのだ。


 とは言え、一応は同盟国として助力を約したのだ。何か眼に見えるような役に立って、早いところ帰るに如くはないと、割り切るファリドである。


「それで、戦況は……メフランギス様がここにいると言うことは、切迫した状況は去ったのですよね」


「父王は『防ぎ止めている』と言ったけれど……正面からの戦では連戦連敗、すでに国土の四分の一は彼らの手に落ちているわ。私が指揮をとってカヴァ渓谷にかかる吊り橋を全て落としたから、彼らの主力であるラクダ騎兵を足止めできているだけ、お寒い状況ね。なんとか主力を叩かないと、王都が陥ちるのも、時間の問題なの」


「その状況で、よくあのような言葉が吐けるものですね」


 ファリドは呆れる。フェレとシャープールは黙然として聞いているが、その怒りは、口に出さない分、余計に大きい。


「私も、モスルはこのままじゃいずれ滅びの道をたどると思う。なんとかしたいけれど……王家の人材は多かれ少なかれ、父と似た考えよ」


———この頭が腐った国をどうすべきか。王室の考え方が変わらぬならば、頭をすげ替えるか。いやいっそ一気に併呑し、イスファハンの一部にする方が……


 そこまで考えて、はっと我に帰るファリド。


———そう言えば俺は、国政などから早く離れて、領地で平穏な暮らしを送りたいと願っていたのではなかったか。いつの間に大陸全体のことなんか心配しているんだ。ままよ、まずは眼前の課題を片付けよう。


 急に考え込んだ彼に気遣わしげな視線を向けたフェレに小さな微笑を向けると、ファリドは意識して明るい声を出した。


「よし、まずは渓谷の向こうにいるという、ラクダ騎兵どもを潰すぞ」


 近所の小川に釣りに行くぞとでも言うように気楽な調子で宣言したファリドに、驚きの眼をむくメフランギスとシャープール。フェレ一人だけは、絶対の信頼をラピスラズリの瞳に浮かべ、ゆっくり一つうなずいたのであったが。


◇◇◇◇◇◇◇◇


 目の前には、まるで神が大地を引き裂いたかのような、深く険しい渓谷がある。幅は僅か三十メートルばかりであるが、底に流れる河を見下ろせば気が遠くなるほどの高さ。覗き込んだマルヤムは爪が食い込むかと思えるほど強く、フェレの腕にしがみついている。フェレ自身は、安定の無表情だ。


「フェレ母さん、どうしてこんなに深い谷が出来たの?」


 いつしかマルヤムは、この新たな育て親を「フェレ母さん」と呼ぶ習慣がついていた。呼ばれたフェレはその無表情を崩し、目尻を柔らかく下げて口を開く。


「……そう言うことは、リドに聞くべき」


 丸投げ感満載だが、こういう信頼には、悪い気がしない。


「昔は、俺たちが立っている高さに、河が流れていたんだろうな。だけど流れる水っていうのは、毎日少しずつ、少しずつだけど、地面を削っていくのさ。そして何十年……このくらいの深さになると何百年も、ひょっとして千年もかけて、大地に渓谷を刻んだんだろうね」


「何百年かあ……私、おばあちゃんになっちゃう」


 そう、魔族の血が混じっているマルヤムにとって何百年という時間は「おばあちゃんになる」程度なのだ。もちろんフェレもファリドも、そんな未来には生きていまい。そんなことを思い浮かべ、ファリドはこの突然できた「娘」に、優しい視線を向ける。そしてフェレは、娘の背中から、包み込むように腕を回し、ぎゅうっと抱き締める。 


「悪い人間たちは、あれ?」


 無邪気にマルヤムが指さす対岸に、万を超す大軍が集結している。彼らは急ピッチで木材を運び、土壁を盛り……一大拠点を建造しようとしているのだ。そして次は渓谷に吊り橋を掛けようとしてくるのだろう。常ならばそんな呑気な作業をモスル軍が許すはずもないが、対岸の拠点から数千の兵が矢を放ってくれば、妨害工作をすることが難しくなる。通常戦で連勝し、兵力が圧倒的優位にあることをフルに利用した、力攻めである。


「そうだな、あそこにいるのは敵だから、戦わないといけない。だけどマルヤム、覚えておくんだ。悪い人間ってのは、敵の中にいるとは限らない、味方だと思っている奴らの中に、本当に悪い奴が潜んでいることが、ままあるんだよ」


 ファリドの言葉に、フェレが深くうなずく。マルヤムは可愛らしく首を傾げつつ、


「うん、わかった!」


 そう、やたらと元気に答えた。

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