第173話 フェレはお母さん
「うわあ、高い!」
少女にしてはやや低いその声が、初めての経験に弾んでいる。今まで三都を一歩たりとも出たことがなかった半魔族の少女……マルヤムは、フェレのお腹にしっかり抱え込まれるような形で、モスルに向けて騎馬の旅を始めたのだ。
これからテーベと戦を交えようと言うのに、呑気に子供を連れていくことに関しては、ファリドとフェレで何回も話し合って決めたことだ。ちなみに子育ての苦手なアフシンは、その意思決定に全く、関与していない。
フェレはこの小さな新しい家族を、一時でも手放すことを肯じなかった。マルヤムを自らの子とする宣言をした後は、まるで産まれたばかりの仔を守る母犬であるかのようにがっしりと胸に抱え込み、それから二晩は一緒のベッドで、ぴったりと身を寄せ合って眠っていたのである。
彼らが泊まっていた宿は、かつてファリドとフェレが初めて同じベッドで寝た……色っぽい意味でなくまさに文字通り眠っただけだったのだが……思い出の場所だ。マルヤムを拾う前の一泊目にはその懐かしい記憶を共有しつつ、熱い一夜を過ごした二人。当然ファリドは残る二泊もその続きを期待していたわけなのだが……突然の母性に目覚めたフェレに部屋を追い出され、寂しく独り寝する羽目になっていた。
最初は心細気な風情であったマルヤムも、舐めまわさんばかりに迫ってくるフェレの溺愛に、すっかり心を開いてしまっている。無理もない、ここ二年間というもの愛に飢えていたであろう彼女の前に、見返りなど求めぬ無償の愛を惜しみなく与える存在が、突如現れたのだ。懐くなと言うほうが難しいであろう。もちろんファリドも好ましくは思われているであろうが、マルヤムが無意識に掴んでしまうのは、フェレがまとうジャケットの裾である。
そんなこんなで、フェレはこの先の遠征にもマルヤムを連れていくと決めてかかっている。常識人のファリドはもちろんそれをためらい、なんとか子供を戦に巻き込まなくて済むような手段を用意しようとしたが……結局のところ、忌避されるべき魔族の血を引く少女を安心して預けられるところなど、一日や二日で見つかるはずもなかったのだ。さすれば連れて行くしかない、そもそも最強の護衛である祖父アフシンが傍にいるのだから、子育てはせずともせめて彼女の身は守ってくれるだろうというのが、諦めの心境に達したファリドの結論である。
幸いなことに、彼が率いる部族軍の将兵がマルヤムを見る視線は、実に優しいものだ。もともと部族の多くは、女子供まで含めた一族全員で安住の地を求めつつ放浪し戦った歴史を持っている。愛し子を抱きつつ敵を屠ることは、彼らにとって決して奇異なことではない。
「いやはや、女神が子を抱く姿は、まさに慈母の姿そのもの。神々しくも、微笑ましくあるな」
部族軍の将たるシャープールが口にする言葉通り、部族兵たちがフェレを仰ぐ眼に信仰の色がいや増していることに気付いて、苦笑いするしかないファリドである。
軍事行動の際にはいつも安定の仏頂面をさらしていたはずの彼女が、マルヤムの前ではへにゃりと頬を緩めて目尻を下げ、わずかに口角など上げて見せるのだ。ファリドか妹アレフくらいにしか見せていなかった「女神」のレアな表情を眼にした部族の者たちが、陶然として見とれてしまうのも、無理ないことだろう。
「我々としては『女神』と『軍師』の子を、早く見せてもらいたかったのだがな。あの可愛がりようでは、夜のあれこれは遠のいてしまったのではないか?」
「夜の事情は、放っておいてくれ」
「まあ、お主らは子作りの前に、華やかに婚姻の式を挙げねばならぬわけだしな。そのへんの計画は、どうなっているのだ?」
シャープールにからかわれ、曖昧に笑うしかないファリドである。彼とて早くフェレと正式に婚姻の契約を交わし、堂々と愛の結晶を儲け、領地で平和で無為な生活を送りたい気持ちで一杯なのだ。だが義弟にして国王たるアミールの期待と、望まずして得てしまった「軍師」の名声、そして一向に定まらぬこの大陸の趨勢が、それを許してくれない。
「結婚式か。この戦から帰ったら……」
口にしかけて、慌てて言葉を飲み込むファリド。古今東西、戦地に赴く前にこの手の台詞を吐いた男が、無事に帰ってきたためしはない。ファリドは縁起や迷信を信じるタイプではないが、やはり不吉なジンクスは避けたいのである。
「まあ、あんな可愛い娘ができたんだ。とりあえずはあの子を守っていくさ。モスルの王室を守ることになんぞ意欲はわかないが、子供のためとなれば話は別だ。うちの娘のためにも勇戦を頼むぞ、シャープール殿?」
「承知した。我も三人の娘を辺境に残しておる。あれらを飢えさせぬよう、精々戦果を上げるとしようか」
そう言って、シャープールとファリドは笑いあった。明後日には着くであろうモスルの戦況に、不安を感じながら。
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