第172話 うちの子
子供とリリを連れて宿の部屋に引きこもったフェレが、なかなか出て来ない。リリだけが湯を満たした桶や手拭いを持って何回か出入りしている。さすがに心配になってドアをノックすれば、少しだけ開いた扉からリリが顔を出す。
「まだダメだそうです」
理由すら説明してくれない塩対応である。間もなくリリだけがせわし気に出てくるのを見て、思わずファリドが声を掛ける。
「どこへ行くんだ?」
「フェレ様の命で少々買い物に」
「買い物だったら俺が行ってくるんだけど」
「いえ、失礼ながらおそらくファリド様では、役に立たないかと」
仮にも主人に対し、飛びっきり不愛想な言葉を投げて走り去る姿を、ぼうっと見送るしかないファリド。さすがに兄オーランが、フォローを入れる。
「いつものことながら妹の不調法、申し訳ない。あれはフェレ様の命となると、途端に融通が利かなくなる悪癖があって……」
まあそれも忠誠心の表れと言えぬこともないと、こういう場面に慣れてしまったファリドが諦めのため息をつく。もう一度部屋のドアをノックして見ても「……入っちゃダメ」とぶっきらぼうな一言が返ってくるのみ。リリの塩対応ぶりが、フェレにも移ってしまったかのようである。
やがてリリが大きな袋を両手に抱えつつ戻ってくるや、また部屋にこもって何やらごそごそ。そしてさすがに待ちくたびれ、酒でも飲むかという雰囲気になった頃、ようやく扉が開いて出てきた子供の姿に、ファリドは息をのんだ。
それはまぎれもなく、美しい少女であった。先程までの汚れ方と痛めつけられ方を見て、勝手に男の子だろうと独り決めしていたファリドは、その変身ぶりに眼をみはる。
ボサボサ伸び放題だった黒髪はボブに切り揃えられ、前髪も眉上で綺麗にカットされている。あらわになった瞳の色は、まさに黄金色。黙って立っているだけでも、その眼に惹き込まれそうな錯覚を覚えてしまう。すっきりとした鼻梁に、美しい円弧を描くあごの線。血色の薄い唇が残念だが、その形は流れるように眼を奪う。子供らしい可愛さというよりも、クールな美貌と言った言葉が似合っている。そして髪がきちんと梳られたことで、山羊に似た銀色の角が、はっきりとその存在を主張している。
そして、ボロ雑巾のようだった衣服も、さっぱりとしたこげ茶色のワンピースに着かえさせられている。地味な配色ではあるが、艶の戻った黒髪と抜けるように白い肌には、よく似合う。
「……どう?」
「む、む……」
フェレの問いは、祖父たるアフシンに向けられたものであったが……水を向けられた本人は、何やら口ごもるだけ。普段のおどけたような態度はどこへやら、汗をかきつつ固まっている。
「……この子をアフシンに任せるのは、なにかと良くない。私たちで育てる」
露骨にほっとした表情になるアフシンを、リリが睨む。だがフェレの言う「私たち」がフェレとリリなのか、それともファリドとなのか……曖昧な言い方が、何とも不気味である。
―――まあ、いいか。こんな可愛い娘が俺たちの子っていうのも、いいかも知れん。
フェレに関しては何かと許容範囲が広くなるファリド。かくして彼らは結婚式も行わぬうちに、子持ちになってしまったのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
そのクールそうな外見から想像つかないほどの勢いで、羊肉山盛りのピラフをがっつく半魔族の娘。その姿を目尻を下げた優しい眼で眺めていたフェレが、甘く仕上げたチャイのカップを娘の前に滑らせると、娘は目を輝かせてそれを一気に飲み干す。
「すさまじいまでの食いっぷりだな、まあ子供はこうじゃないとな」
そう言いつつ、まだ食い足りなそうな表情を浮かべている半魔族娘のために、フルーツの大盛を追加オーダーするファリドである。食べ盛りの年頃なのにずっと空きっ腹を抱えさせられていたこの娘に、食いたいだけ食わせてやりたい気持ちはあるが、こってりしたものばかりでは体調を崩すことになる。これ以上の肉は、また明日だ。
いきなり子持ちになったファリド一行は、宿の近くにある大衆食堂で、揃って夕食を摂っていた。ラム肉の串焼きからしたたる脂が炭火に落ち、そこから上がる濃厚な香りが部屋一杯に立ち込める、気の置けない空間だ。ファリドとフェレ、そしてアフシンは串焼きを頬張りながらマナ酒をたしなみ、オーランとリリはこんなところでも役目を忘れず、周囲に眼を配りつつささっと飯をかきこみ、酒はもちろん口にしない。
「なあマルヤム、何かやってみたいことって、あるのか?」
どうやらお腹が落ち着いたらしい娘に、ファリドがこれからの希望を尋ねる。彼女の名前がマルヤムということも先ほどようやく知ったばかりだが、もしこの娘に目指すものがあるならば、出来るだけかなえてやりたいと思う彼である。
「うん、むぐっ、お腹いっぱいご飯が食べられて、満足だよ……」
「まあ、今はまだわからないか。しばらくまわりの大人たちを見て、ゆっくり考えるといい」
―――そう、焦ることはないのだ、まだこんなに幼いのだから。
ファリドはいかにも子供らしいマルヤムに、頬を緩ませる。フェレもいつの間にか、同じ表情をしているようだ。まだ戸惑っている風情のアフシンとは対照的に、若い二人はすでにこの半魔族を、自分の娘として受け入れてしまったようであった。
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