第147話 静かなる侵食
陽が完全に落ちた頃には濃霧が平原を埋め尽くし、視界はほぼゼロである。
敵軍がそこかしこで赤々と焚く篝火の光が霧の粒子で散乱され、なにやら幻想的な眺めをもたらしているが、その灯りは視界を稼ぐのに何の役にも立っていない。篝火は夜の「黒い闇」を照らすには有効であっても、濃霧がもたらす「白い闇」には無力なのだから。
その中を、何も障害が存在しないかのように音もなくするすると、滑らかに進む集団がいる。無論ファリドと、その一行である。
フェレの粒子をコントロールする力は、平原全体を濃霧で埋めつつ、自らの周囲だけあたかも「繭」のように霧を排除して普通の夜闇に変えることができる。そうなれば夜目の利くアフシンが先導し、足元の確かなところを選んで進めるのだ。そして他の者は魔族が背中にぶら下げた、ホタル程度の淡い光を放つ魔道具を目印に、ただついてゆけば良い。
そして、ぼんやりと闇の中に浮かび上がる篝火の赤い光が徐々に近づく。それは、敵の宿営ポイントがそこにあるということ。意識して進む速度を落とし、音をたてぬよう近づいていく。
やがて歩哨を務めているらしい二人の兵が、霧の無い「繭」に不意に取り込まれる。兵が驚きの声を上げる前に、イマーンがにこやかに笑って前面に出てその顔をさらす。もちろん老将軍の顔を知らぬ兵がいるわけもなく、彼らは肩の力を抜いた。
「将軍、お会いできて光栄であります! ですが……ご病気療養中ということではありませんでしたでしょうか?」
「うむ、面倒な事情があってな。極秘任務で裏の仕事をしておるのだ、そなたらの指揮官のもとに連れて行ってはくれぬか?」
「ははっ!」
そして、案内された隊長の天幕で、老将軍はクーシャーの裏切りと、これまでの事情を明かす。平民階級の小隊長は義憤に燃えて将軍に味方することを約束し、中隊長のもとへ案内する。
中隊長は、貴族階級の子弟である。小隊長らとは違い今回の「病気療養」の真相を、うっすらとは知っているのだ。
もちろんクーデターまがいの行為を是とはしないものの、抗命した場合に自身と実家へ下されるであろう迫害を思うと、手をこまねくしかなかったのだ。将軍が裏事情を告げて味方に付くよう誘っても、彼は実家の母や当主たる兄の安全を思い、決断できなかった。
その時、逡巡する彼の耳に、溌溂とした女性の声が響く。
「貴方はラーバル子爵家の三男だったわね。ご家族は王都に?」
「い、いえ。領地に戻っていたところに今回の騒ぎが起きたもので」
思わず反射的に答えてしまったが、自分の実家を知っているということは、貴族に連なる女性なのだろう。しかしなぜ、こんな戦場のど真ん中に女が……そういぶかりつつ、自分を見つめるその女性の容貌にふと眼をやった彼は、あり得ない現実に背筋を震わせた。中隊長は、この高貴な顔を、良く知っていたのだ。
「メ……メフランギス妃殿下! なにゆえこのようなところに!」
あとは、とんとん拍子だった。メフランギスがその澄んだ青い瞳を怒りに燃やしつつ王太子カイヴァーンの末路を語れば、眠っていた中隊長の騎士精神もようやくながら目覚めざるを得ない。十五分後には彼の配下である小隊長が全員召集され、三十分後には中隊全員が老将軍に向け忠誠の誓いを捧げていた。
そしてノブレス・オブリージュに燃える中隊長は自ら所属する大隊長の天幕に乗り込み、緊急招集された中隊長たちの前で熱弁をふるった。王太子殿下を害し、老将軍から不当な手段で権力を奪い、兵たちを欺いて権力を私しようとするクーシャーを、許すべからずと。中隊長の中からも「然り」という声が上がる。
だが老将軍は眉間に皺を寄せている。彼は、黙然として演説を聞いているこの大隊長が、クーシャーの信頼篤い上位貴族であることを知っていたのだ。そして将軍の懸念は、間もなく現実のものとなる。
「こ奴らを殺せ」
「は? いや、イマーン将軍は我々の総司令官であられ……それにメフランギス妃殿下に手を掛けるなど我々には……」
「お前らの上官は私だ、もう一度命ずる、こ奴らを殺せ!」
中隊長たちは凍り付いたように固まって……互いに眼くばせを送り始めた。そして一人が意を決し立ち上がろうとした瞬間、先に動いたのはファリドであった。低い姿勢のまま大隊長の懐に飛び込み、斬り上げるようにシャムシールを振るう。
しかし大隊長は、腕に覚えのある者のようであった。腰の中剣を眼にも止まらぬ速度で抜いて、如何にもたやすいことと言った風情でファリドの斬撃を受け止める。返す剣で一撃二撃と打ち込み、あっという間にファリドを追い詰めていく。
「お前がアミールの元で『軍師』とか僭称している平民のペテン師だな! 小知恵が回るようだが剣の腕はその程度か。私が成敗してやる、高貴な者の刃にかかることを光栄に思って死ね!」
この大隊長、精神は腐りきっているが剣術は鍛え抜いた本物のようであった。数合刃を合わせただけで自己の優位を確信したらしく、その口許には嘲るような笑みが浮かんでいる。そして彼は、必殺の一撃を送り込むべく中剣を振りかぶった。
「リドっ!」
フェレの悲痛な声が天幕の内に響いたその時、大隊長の表情が一瞬ピリリと歪み、振り下ろす剣が、ほんのわずか遅れた。それはゼロコンマ数秒の隙であったが、ファリドが横に飛んで避けるには必要十分な時間だった。そして必殺の一振りを躱した彼の前には、がら空きの胴体がさらされており……彼はそれを、十分な余裕をもって薙いだ。
「貴様! 大隊長を!」「捕えよ!」
天幕の中は騒然となったが、それを抑えるように低く力のある声が響いた。
「静まれ! この男は不忠反乱の徒を成敗したのみ。それは総司令官たる儂、イマーンが命じたものだ。貴官らには異存ありや!」
長年最前線で戦い続けたことで培われた、理屈ではなく逆らい難い威厳が、老将軍の声にはこもっている。中隊長達は一斉に、頭を垂れた。
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