第140話 不思議な雲

 数十人の弓兵達が、将軍に向かって一斉に矢を放つ。


 彼らも将軍の演説に動揺しているのだが、衝撃的なその内容を、完全に信じたわけではない。そこに直接の上官から命がくだれば、矢を射る以外の選択肢はないのである。


 だが、彼らは眼を疑った。将軍に十分狙いを定めて放ったはずの矢は途中まで想定した射線を描いたものの、崖の手前で一気に上方にそれて、一本たりとも命中するものがなかったのだ。


「何だ、あれは? 魔術なのか?」

「いや、二本や三本の矢なら念動魔術で動かせるであろうが、数十の矢を逸らすなど、突風でもなければ……」

「風の音など、聞こえないじゃないか!」

「じゃあ、何だって言うんだ?」


◇◇◇◇◇◇◇◇


 兵が「突風」と思い付きで口にしたことは、あながち間違っていなかった。将軍を守った魔術は、フェレが得意とする「烈風」を、さらに磨き上げたものなのだ。


 守るべき対象の前で強烈な風を吹かせ、飛来する矢の狙いを外す。ここまでは「烈風」と同じである。しかし、ただ風を吹かせただけでは轟々たる風鳴りで敵に備えが知れてしまうし、うるさすぎてこちらで何を叫ぼうが、風の向こう側には届かないだろう。


 そこで、ファリドは「静かな烈風ができないか」と考えた。


 風が鳴るのは流れる空気が乱れて渦を巻くからだ。もし空気を乱さず、層状のまま動かすことができれば、音は出ないのではないか。もちろん自然現象の突風に、空気を乱さないものなどあり得ない。しかしフェレは空気を「粒」レベルで認識し、統一した動きをさせることができる……だからまわりの空気を乱さず、あたかも空気の「板」を動かすように、音のしない突風を作り出せるのではないかと。


 ファリドのとんでもない難度のオーダーを、フェレは平然として受け止めた。


「……うん。リドができるというなら、私は……できる」


 自然現象を科学的に学んでいないフェレの反応は、鉄板の安定ぶりである。そしてその無茶振りとしか言えぬ要求を、愛する男に褒めてもらいたいがため、初回のトライであっさりと実現して見せたのだ。


 ファリドは内心の驚きを隠して、この規格外の魔術に「風の壁」と命名したのであった。


◇◇◇◇◇◇◇◇


 不思議な見えない力に守られたイマーンが、言葉を継ぐ。兵士達にはこの老将軍の姿が、さっきより大きく見えてしまっている。もちろん、未知の力に対する畏怖の心がそうさせているのだが。


「もう一度言おう。反逆に手を染めた諸君の上官を捨て、儂とミラードと共に、王太子殿下の遺志を実現しようぞ。我々は王太子殿下の残された書状も持っている、殿下は王位継承権を、第三王子アミール殿下に託されると明記された」


 おおっという声が、兵士達から漏れる。少年の頃より軍務にいそしみ、一般兵と寝食を共にし、剣を握れば屈指の遣い手であるアミールは、平民出身の軍人達から広く支持を集めているのだ。


「それは……ありだな」

「アミール殿下なら、俺たちの気持ちも理解してくれそうだ」

「王太子殿下の遺言とあらば、是非もなし」


 好意的な声が上がるのを聞いた指揮官たちは、頭に血を上らせる。


「愚か者! そんな書状など偽物に決まっておる! すでに王都にてキルス陛下が即位されているのだ。イスファハンに王は一人のみ、アミールも反逆者だ!」


 それを聞いた老将軍は眉を一瞬寄せたものの、すぐに平静の表情を取り戻して、ゆっくりと威厳を漂わせた声音で宣言した。


「諸君らの指揮官は骨の髄まで逆族になり下がったようだ。よかろう、無駄な血は流したくないがやむを得ぬ。アナーヒター女神の手で、神罰を下して頂こう」


 そう口にするや、老将軍は隣に立つフェレの手を恭しく取り、自らは一歩引いて彼女を前面に押し出した。


「ん? あれが噂にあった『アナーヒターの依代』って娘か?」

「なかなか綺麗だが、ずいぶんな仏頂面だな」

「いやいや、あのクールな感じがたまらん、いっぺん踏まれてみたい……」


 やや危ない感想も含め、また兵士達がざわめき始める。フェレは安定の無表情を保ったまま、いつもの通りシャムシールをゆっくり抜き放って、その切っ先を指揮官達に向ける。


「むっ、何を……あ、あれは何だ?」


 それは、白い雲のような塊であった。庶民の家が四軒入るくらいの直径をもつ楕円球で、ふわふわと漂いながらも、意志を持っているかのように指揮官を目指してかなりの速度で近づいてゆく。


 思わず後ずさりするが逃れられるものでもない、二人の高級指揮官を含む首脳陣のまわりは、完全にこの不思議な雲の塊に覆われた。雲は不自然なまでに濃く、周囲は全く見通せない。


「なんだこれは? 雲でも霧でもないぞ」

「確かに、湿り気が全くないではないか。ごほごほっ……ん? もしやこれは、粉か?」


 視界を奪われた指揮官が、その異様な雲の正体に気付き始めた頃、崖の上ではファリドが短弓を引き絞り……はらりと放った。彼が撃った矢の先端には、なぜか火が灯されている。


 火矢が奇妙な雲に届いた瞬間、真っ赤な閃光と、周囲を揺るがす轟音が響いた。


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