第137話 副都脱出
「ふざけるな! そのような暴挙を許すものか! おいっ、あの怪しい女を捕らえるのだ! 王太子妃の名を騙る不届者だぞ、早くせよ!」
貴族将校が、声を裏返しながら絶叫する。もはや不敬の罪を鳴らされても避け難い、この上はメフランギスを偽物と言い張り、捕らえて闇に葬るしか道はないと思い定めているのだ。
だが、配下の兵士たちの動きは鈍い。もちろん上官たる将校の言葉は絶対だが、どうもメフランギスの言い分が、正しいように思われてしまうのだ。
「ええい、この不忠者ども、重罪を覚悟せよ! 勇気ある者だけでも俺に続け! 女を捕らえれば恩賞を授けるぞ!」
恩賞に釣られたものか、あるいは本当に「勇気ある者」なのか、貴族将校に続いて十数人の兵士が剣を抜き、一歩踏み出した。
「女神アナーヒターよ、我を守り給え!」
メフランギスの実によく通る声が響き渡ったその時、邸の周囲を旋回していた砂の竜が一体、群れを離れた。それは抜剣した貴族将校に向けて一直線に飛び、取り巻きの兵士もろとも一撃の体当たりで吹っ飛ばした。将校は大の字になって気を失っているが、よく見ればその足先がぴくぴくと震えている。死んではいないようだ。
「その眼で、この奇蹟を見ましたか。私達には女神アナーヒターがついているのです。女神様は義にもとる第三軍団首脳の行いに、怒りの鉄槌を下さんとしておられます!」
「アナーヒター女神だってよ」
「そういや、街の酒場で『女神が降臨した』って話、さんざん聞いたな」
「俺も聞いた。不思議な黒髪の娘を依代にしているとか……」
兵士達が、ここのところ副都の民の口に膾炙している噂を思い出したタイミングを計らって、メフランギスがゆっくり、恭しくフェレを前面に押し出す。
「え? あの娘に、女神が依っているのか?」
「噂の通り、不思議な色合いの黒髪の娘だが」
「なかなか美しいが、にこりともしないな……」
そう、フェレは安定の無表情でたたずんでいる。しかし兵士達のざわめきなど意にも介していないその態度は、人界のあれこれを超越した、いかにも神の領域に属する者らしい振る舞いと見えなくもない。そして抜けるように白い肌と色の薄い唇が、まるでいにしえの神を象った彫像であるかのように兵の眼に映ってしまうのも、ファリドの思惑通りである。
そこに、砂の竜を操って十数人の兵を一瞬で打ち倒した絶対的で暴力的な力……もともとアナーヒター信仰が強く残っている平民階級の兵士達がコロっとだまされても、無理なきことであろう。すでに数十人が左手の指をそろえて額に当てる、アナーヒター神に向ける祈りのポーズをとって、ひざまずいている。
フェレがすらりとシャムシールを抜いて眼前にかざすと、邸宅を囲んでいた十数体の竜が吸い寄せられるように一斉に彼女の頭上に集い、複雑な軌道を描いて舞い飛んでみせる。
「おお、女神様!」「アナーヒター様……」「なんと尊い……」
兵士達は魂を抜かれたように呆然として、それを見上げ……やがて、女神の名を呼ぶ声が、街路に満ちた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
兵士達は口々に女神を讃え、もはや逆らう者はいない。
そこにイマーン将軍がその姿を見せ、メフランギスの主張がさらに信憑性を帯びる。もちろんここで彼女たちが騒ぎを起こしている間に、闇働きを旨とするリリとフーリ、そしてアフシンが邸宅から救出したのである。
「皆の者、心配掛けた。儂は不覚にもクーシャーども不忠の貴族に囚われ、王太子殿下をお守りすることができなんだ。これからはせめてもの罪滅ぼしに、王太子殿下の遺志を継ぎしメフランギス妃とアミール殿下に忠誠を尽くす所存だ」
敬愛する老将軍が痛恨の表情を浮かべつつゆっくりと心情を吐露する姿に、兵士達は静まり返っていたが……やがて口々に声を上げ始める。
「悪いのはクーシャー達だ、ハメられた将軍は悪くねえ!」
「そうだ!」
「俺は将軍と一緒にメフランギス様をお守りするぞ!」
「女神に導かれて戦うことこそ、我が望み!」
その場にいる二百名ばかりの兵は、そのまま黙っていれば皆将軍とともに脱営しかねない流れになってきた。ファリドが素早くメフランギスに耳打ちし、彼女は再びよく通る声を張り上げる。
「ありがとう、皆さんの気持ちは受け取りました。そこに無様に倒れている貴族将校の部下の方々は、私たちと一緒に参りましょう。ですが、残る二部隊の方は第三軍団に残って、真実を……上層部が行った非道を伝えて欲しいのです」
貴族の部下であった兵士は百名ばかり。残る百名の間に不満の声が広がるが、平民将校二人が、なんとかなだめる。この二人とて将軍と共に行くことを望んでいるのだが、さすがにたたき上げのベテランである、自分達に期待されている役割を、理解しているのだ。
「まあ、隊長がそう言うならよぅ……」
「その代わり、思いっきり噂を広めてやるか!」
何とか兵たちの興奮を収め、老将軍が馬上の人となる。百名の兵士が粛々と従い、副都の城門を堂々と出てゆく。
もちろん一般兵たちには、将軍が権力を失ってしまったことなど知らされていないのだから、指揮官直々の郊外巡察にしか見えない一行だ。門衛もただただ敬礼して見送るだけである。将校の中には顔色を変える者もいるが、手の出しようも、追捕の兵を向けようもない。
「もはや儂の軍人人生は終わったと思っておったが、若者たちが解き放ってくれたか。ならば残り少ないこの生命、彼らの為に、使わずばなるまい」
馬上でぐっと背筋を伸ばす、老将軍であった。
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