第131話 殉死

 書状を読み終えたファリドは、深くため息をついた。


―――はぁ~っ。どんどん逃げ道をふさがれていくんだなあ。


 彼の望みは、ひたすらに自分を慕うフェレの手を取り、寄り添い静かに平和に暮らしていくこと、ただそれだけである。なのに、この国の状況がそれを、許してくれない。あげくの果てには王太子の「遺言」とでも言うべき書面でとどめを刺されてしまった。もちろん「家族」たるアミールが現在陥っている苦境を救うにやぶさかではないが、彼が国を率いる際の補佐なんていうのは、金輪際ご勘弁願いたいというのが、ファリドの気持ちである。


 まあ、まだ時間はある。彼の手に覇権を取り戻すまでの間に、有能で信頼できる補佐役を見つけてあげればいいだろう、と思考を無理に切り替えるファリドである。


 なんとかそう割り切って傍らを見れば、不安に揺らめくラピスラズリの瞳がそこにあった。上目遣いで仔犬のようにファリドを見上げる姿に、たまらない愛しさを覚える。


「うん? どうしたんだフェレ? この書状なら心配ない、王太子殿下が『アミールをよろしく』ってお願いしてきただけだから」


 本当はもっと重たい意味を持つ書状であるのだが、フェレには気楽に噛み砕いて伝えておいた方がいいだろう。彼女であれば、頼まれずとも「家族」のためにならためらわず命を張るであろうから。


「……うん、そこは心配してない。どうするべきかは、リドが考えてくれる」


―――おい、やっぱり丸投げか!


「じゃあ、何が心配なんだ?」


「……メフランギス様が」


「あ……そうだな」


 王太子妃メフランギスは、先ほどの天幕から、まったく出てくる気配がない。彼女宛の手紙は、とうに読み終えているであろう。隣国同士の政略結婚で結ばれた縁であったが、王太子夫妻の熱愛ぶりはつとに有名であったのだ。ほんの先ほど自ら命を絶った夫の消息を知って、悲しみが浅かろうはずはない。さきほどは、気丈にも感情の揺れを見せていなかったのだが……。


「お力落としのことだろうな。俺たちではお慰めのしようもないが」


「……『力落とし』で済めば、いいんだけど」


 いつもになく気遣わし気な視線を天幕に向けるフェレに、ファリドは不審を抱く。


「どういうことだ?」


「……メフランギス様の母国モスルの王族には、夫が死ぬと妻も殉死する習慣があると聞いてる」


「何だとっ!」


 ファリドが迂闊であったとは、誰にも言えないだろう。彼は確かに本の虫、数多くの書物を読み漁って「軍師」と呼ばれるにふさわしい知識を身につけているが、それは自分が生き残るに必要なものだけなのだ。異国の貴族の習慣など冒険者生活にも従軍にも何の役にも立たぬこと、彼が学ぶべき対象から外したのは当然のことであったのだ。ギリギリながら上流階級の隅っこに引っかかっていたフェレがそれを知っていたことは、この場合奇跡だった。


 ファリドは血相を変えて王太子妃の天幕へ走る。入口で押し止めようとするフーリを突き飛ばさんばかりに押しのけ、一気に中へ飛び込むと、そこには何やら濁った緑の液体が満たされたグラスを物憂げに見つめる、メフランギスの姿があった。


「王太子妃!」「メフランギス様!」


 ファリドと、半瞬遅れて飛び込んできたフェレが制止の声を上げると、はっとしたようにメフランギスがグラスを急いで口に運ぼうとする。


「不敬、お許しを!」


 間に合わぬと見たファリドが、冒険者時代からの習慣で袖に仕込んだ小刀を素早く投擲する。慌てて投じたゆえ狙いに自信のなかったそれが運よくグラスに当たり、妃の手から弾き飛ばしたのを見て、ファリドは小さな安堵のため息をつく。いくら命を救うためとはいえ、王太子妃の身体に刃を突き立てたとあっては、さすがにいろいろとマズいであろうから。


「メフランギス様っ!」


 護衛兼侍女のフーリが一瞬のうちにファリド達を追い越して、まだ呆然としているメフランギスを抱き締める。


「いけません、死んではなりません!」


「あれだけ深く、私だけを愛してくれた夫が死んだの。妃として、後を追うのは自然なこと、止めないで」


「イスファハン王国の民は、メフランギス様を深く深く敬愛しています。そして私も、その一人です」


「でも……」


 なおも妃への想いを言い募ろうとするフーリを制して、ファリドが一歩前に出る。


「王太子妃様。貴女の母国では夫に殉ずる死が美徳なのかもしれない、それを否定する気はありません。ですが、今はこの国の民のため、こらえてもらえませんか。イスファハン王国は今大きく割れて、しばらくは権力の混乱が続くでしょう。民に敬愛される貴女が、新しい支配者を支持するって形が、戦を長引かせないためには必要なんですよ」


 聞く者によっては、ことが終わったら死んでもいいともとれる不敬な言辞だが、ファリドも真剣である。情に訴えても勝ち目は少ない、この理知的な妃の理性部分に訴え、とにかく今死ぬことを、止めねばならないのだ。


 王太子妃の青く澄んだ眼が鋭くファリドを射抜き、流麗な眉が不安定に揺れている。一分ほども二人のにらみ合いが続いたであろうか、やがてメフランギスが諦めたように肩を落とすのを見て、彼は大きく息を吐いた。

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