第119話 誤解すんなよ?
その夜。並んで横たわったベッドの中で、ファリドとフェレがリリの訓練について、ぽつぽつと話していた。昨夜のような熱いあれこれは抜きで、純粋に一緒に添い寝しているだけの二人である。
「……リリの悩みは、私も経験したこと。だから、放っておけなくて」
「そうか。フェレは、いくつくらいの時だった?」
「……十六を境に、急に身体が思うように動かなくなった。だから仕方なく、威力特化の身体強化で戦うように変えた」
「あの訓練は戦闘能力を維持するには有効だと思うが、それは回避の技術を磨くだけのことだ。基本的な敏捷性が失われていくことを止めるのは難しいと思うんだが」
「……うん。身体が変化していく以上、難しいと思う」
そう口にしたフェレが、寝返りを打ってファリドの眼を見つめる。その視線は真剣味を帯びている。
「……リリだって、本当は無理なことをわかっている。だけど抗わずにはいられないんだ。今まで自分の価値を支えていた能力が失われるのは、とても怖いことだから」
―――ああ、そうか。フェレがリリに共感するのは、やっぱりそこか。
「……私だって、そうだもの。今、まわりにいるみんなは、私を褒めてくれている。それは、私が変わった魔術を使えるから。でも、もし私から魔術が失われたらどうなるんだろうって、時々考える。その時、みんなや……リドは、私を見捨てないだろうかって」
フェレの瞳が、言い知れぬ不安に揺らいでいる。
そう、女神とも称されるほどの高難度魔術にフェレが次々と立ち向かい、そして実現していくのは、皆に認めてもらいたいがため。いや、いまやたった一人、ファリドに認めて欲しいがためなのだ。
ギルドで見向きもされなかったフェレの魔術にファリドだけが注目して磨き上げ、そしてせっせと彼女の背中を押し、ついにこの国随一の魔術師に育て上げた。この規格外の魔力なかりせば、愛するこの男と縁を結ぶこともなかったであろう。
底辺冒険者を長年続けた末にすっかり自信喪失してしまっていた彼女は、自らの価値はこの魔術だけだと、思い定めている。自らが魔術を失うときは、この男を失う時……何かと直情的で思考回路の単純なフェレがそう考えてしまうことは、無理のないことだ。その瞳に涙の膜がかかり、揺らぎはさらに大きくなっていく。
眼の前にいる女がこれほど動揺しているのは、自分を失うことを恐れるがため……それを思えば、愛しさがこみ上げる。大きな衝動に突き動かされたファリドは、フェレの肩をがしっと掴み、彼女の視線を真っ直ぐに受け止めた。
「そうだな。フェレにこんなすごい魔術の才能がなかったら、俺たちがここにこうして一緒にいることは、なかったのかも知れない。だけど、もう俺はフェレのすべてを愛してしまったんだ。魔術なんて、俺の好きなフェレの、ほんの一部分なんだよ。たとえたった今魔術が使えなくなったって、俺は……いなくなったりしないさ。ずっと二人で、生きていこう」
黒歴史になりかねないクサい台詞だが、この瞬間には必要な言葉だ。一気にしゃべり切ったファリドが恐る恐るフェレの反応を窺えば、揺れるラピスラズリの瞳から透明な雫が溢れ出し、その喉から、低い嗚咽が洩れ出る。
「……う、うっく、リド、リド……うん、一緒に、一緒に生きてく……」
どうやら対応は間違えなかったようだと、彼は安堵のため息をつく。フェレはそのまま頭をこてんと寄せ、ファリドの胸を熱く濡らした。
◇◇◇◇◇◇◇◇
翌朝、今まで以上にべったりと、まるで仔犬のようにファリドに懐きまくるフェレを見て、妹アレフは頬を染め、母ハスティは小さなため息をつき、父ダリュシュと義弟アミールは、何やら物言いたげな生暖かい笑みを、ファリドに投げてくる。
「うん、まあ年中仏頂面が平常運転の義姉さんと言えど、れっきとした若い女性だからなあ、絆を深める手段は、結局ひとつだよね」
「うむ、フェレはその手のことに関心がないのかと疑っていたが、ここまで飼いならすとは……さすがは婿殿なのである」
「兄さんは『夜の軍師』でもあるんだなあ、尊敬するよ」
何やらあらぬ誤解を招いてしまっているのだが、何を言ってもこの男どもは聞く耳を持つまい。女性陣も口には出さぬが、同じようなことを考えているようだ。もはや弁解をする気力も失って、深くため息をつくファリドである。
あきらめたファリドは、せめて朝食後のお茶をゆっくりと楽しむことにする。もちろん、フェレも一緒である。これまでなら茶を淹れる役目はフェレが務めるのだが、先日からは侍女を自任するリリが、主人と見定めたフェレの意をさっさと酌んで、すでにポットに湯を注いでいる。
午後のお茶ならミルクたっぷりのチャイでこってりとたしなむのが常道だが、まだ朝である。リリが淹れるのは西方風の、甘くないストレート紅茶だ。もっともフェレのカップには、蜂蜜がそっと添えられていたりするのだが。
「フェレ様、今日も午前の鍛錬にお付き合いいただけるでしょうか? お身体がつらくなければ、ですけれど」
「……うん。私は元気だけど、調子悪く見えるかな?」
フェレの答えに微笑んで一礼すると、リリはファリドに意味ありげな視線を向ける。
「ファリド様、あまりご無理をさせてはいけませんよ? フェレ様はまだ、お慣れになっておられないのですからね……」
―――リリ、お前もなのか!
結局この屋敷にいる者すべてから、覚えたての猿扱いされていることをようやく理解したファリドであった。
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