第108話 雷光の魔術

 ファリドは、部族軍を率いて戻ってきたシャープールと、固い握手を交わす。


 傍らでは盟主たるアミールが、第一軍団に最初に背いたマシュハド族の長に何やら熱く言葉を掛けつつ、ハグを仕掛けている。王族に抱きつかれた族長は、かなり混乱気味だ。


 さすがは人たらしのアミールだと、ファリドは感心する。あの開けっ広げで無防備な姿に、警戒していた者もついつい心を許してしまうのだ。ほんのわずかの間にマシュハド族だけでなく、同じく転向したラシュート族やゴルガン族の長からも、笑い声が漏れている。


 確かに、ほとんど反則ともいえる暴虐的魔術を放ったフェレを除けば、マシュハド族はじめ第一軍団から離反した部族軍が、この会戦における戦功第一であると言えるだろう。彼らの造反が重装騎馬隊の足を効果的に止めたことで、フェレの魔術が最大の効果をもって発揮されたのであるから。


「おお、軍師殿! 貴殿の下知通りに動いたつもりであったが、いかがだったかな?」


 フィルーズという名の、マシュハド族長が握手を求めてくる。ファリドも感謝の意を込めて、彼の手を両手でがっしりと握り込む。


「まさに完璧。重装騎馬の足だけ止めて無駄な交戦はせず、転じて軽装騎馬を崩す……俺の考えたこと以上の切れた動き、感服するしかない。お陰でフェレの魔術は、狙いをつける必要もなかったからな」


「そうだ! あの魔術……いや奇跡と言わねばならぬか。凄いものだった、いや凄いなんて言葉では陳腐だな、驚いて言葉もでなんだ。あの魔術の威力なかりせば、重装騎馬との戦いで我々にもかなりの被害が出ただろう。辺境にて待つ、部族の女どもを泣かせずに済んだ。娘さん……いや、女神様と呼ばねばならぬな。ありがとう、心からお礼申し上げる」


 右手を左肩に当て、深く礼をするフィルーズの姿に眼を丸くしつつも、その白い頬を桜色に染めるフェレ。言葉を紡ぐのは下手な彼女だが、喜びがすぐ可愛らしく顔色に現れるのだ。無理もない、ファリドと出会うまでの八年間は、邪魔にされ貶されることはあれど、感謝されることなど、ついぞなかったのだから。


「口下手で済まない。だがフェレも、族長の言葉を十分嬉しく思っているから」


 ファリドのフォローに、フィルーズも口許を緩める。


「うむ、お顔を見ていればわかろうというもの。女神の化身であるというのに、実に控えめで、可愛らしいお方であられるな。しかしそれにしても、数え切れぬほどの稲妻を、あの限られた一帯にだけ撃ち込む業は、初めて見た。どのような仕組みの魔術なのであろうか?」


「いやまあ……それは、企業秘密というかな……」


「おお、これは失礼した、それは勿論だろう。あのような素晴らしい術を間近に見、そして勝利をもたらして頂いたこと、我々にはそれで十分だ……うむ、軍師殿、また戦勝の宴の席でな」


 一礼して去るフィルーズを見送りつつ、ファリドは胸の中でつぶやく。


―――そう、俺だってこれほど凄いことができるなんて、思っていなかったんだよ。


◇◇◇◇◇◇◇◇


 それは、ザーヘダーン砦に向け赤茶けた平原を逃避行していた時分にさかのぼる。


 「雲寄せ」の術に慣熟し、かなり自由に遠方の雲を呼べるようになったフェレに、つい欲を出したファリドはいくつかの課題を与えた。


「なあフェレ。ちょっといくつか、試してみたいことがあるんだが……」


「……ん、いいよ」


 まずは、その白い雲を暗灰色になるまで、上空で圧縮すること。


「……んっ……」


 それは、あっさり成功した。水の微粒子が独立を保てなくなった雲は、大量の雨を降らせる。


「これはありがたい術だな。好きな時に雨を降らせることが出来るなんて……メフリーズの領地に帰ったら使いたくなるかもなあ。干ばつ被害がなくなるぜ」


「……そうだね。農業に……雨は大事」


 古代の昔から、雨乞いには巫女の祈りがつきものだが、それはもしかしてこのようなものであったのではないかと言う突飛な考えが脳裏に浮かび、慌てて打ち消すファリドである。ほんの数週間の後に、この業を兵士達に見せつけて巫女どころか女神扱いされてしまうことなど、想像もしていない彼なのだが。


「よし、次は難しいぞ」


「……難しいってことは、がんばればできるってことだよね。リド、言ってみて?」


 褒められて気分が高揚しているせいか、フェレの反応は極めて前向きだ。ファリドがうなずいて続ける。


「説明した通り、雲は細かい氷の粒でできてる。その粒同士を、とにかくたくさんぶつけ合うんだ」


「……うん、粒は……認識できてる。これを、ぶつけるんだね」


 何のために? とは聞かないフェレである。ファリドの言うことには必ず意味があると、信じ切っているのだ。


「……んっ!」


 フェレが短く気合を入れる。秀麗な眉が寄せられ、その眼が大きく見開かれるが、上空の雲には、目立った動きはない。


「……ぶつけることには成功しているんだけど、一度にぶつけられるのは、せいぜい数百個かな」


 それも道理である。浮いている粒同士を衝突させようとすれば、二つの粒を互いに反対方向へ動かさねばならない。今までフェレが行ってきたことは、多数の粒を同じ方向に向かって動かすものだ……それに比べて難度が桁違いなのは、ファリドにも理解できる。


「そうか、フェレの桁違いの力でも、一気には難しいか……」


 ファリドは眼をつむって考え込む。複雑な認識や操作なしで、彼の望む現象を再現させるには、どうすればよいのかと。しばしの沈黙の後、彼は口を開く。


「なあフェレ、粒を同じ方向に動かすなら、いくつでも大丈夫なんだよな?」


「…うん」


「じゃあ、まず全部の粒を右に動かす。三つ数えたら今度は左に動かす、さらに三つ数えたら、また右に動かす。これを繰り返すのは、できるな?」


「……それならたぶん……ん!」


 フェレはその奇妙な指示に考え込むこともなく、直ちにその魔術を発動する。信じる男の言う通りにしていれば、道は開ける……極めて単純な、フェレの割り切りなのである。


 そして、目指した現象は起こった。


 暗灰色の中に、わずかなきらめきが生まれた。それはだんだん強度と頻度を増し、やがて重低音も聞こえ始める。


「よしっ、フェレ、続けて!」


「……ふっ、ん!」


 フェレが更に眼を見開いた瞬間、上空の雲から一条の稲妻が閃いた。それは赤茶けた大地に立ち枯れた大木を引き裂いて、轟音を響かせた。


「ひっ!」


 傍らで見学……いや見物していたアレフが腰を抜かし、フェレが慌てて駆け寄る。


「軍……いやファリド殿、これは、いかなる仕組みなのです?」


「古代の書物によると、雷ってのは雲の中で氷の粒同士がぶつかり合って起こるんだそうだ。だからフェレの魔術で氷粒を無理やりぶつけてやれば、望んだところに雷を起こせるんじゃないかと思ってね」


 腰は抜かさないまでも度肝を抜かれているファルディンの問いに、さらっと答えているファリドだが、実のところ内心では彼も驚いている。


「そうすると、先ほどフェレ殿になされた、ご指示の意味は?」


「ああ『ぶつけろ』だけだと、粒同士を反対の方向に動かす必要があって、それを何億個もやるのは、難しいよな。だから『同じ方向に、だけど行ったり来たりさせろ』って言ったのさ。行ったり来たりってのは、ようはかき回すってことだから、意識しなくても粒同士は、あちこちで衝突するはずだからね」


「む、確かに。しかし、大魔女殿がこの業を自在に行えるとなれば、戦場でも……」


「ああ、最終兵器になりうるだろう。なるべくなら、使わせたくないが……」


 マハン平原で万に届かんとする敵を屠り、フェレへの女神崇拝を決定づけた魔術はまさに、これであった。

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