第107話 勝利の後で

 第一軍団が誇る重装騎馬一万騎は、フェレの雷魔術によってすでに八割方がマハン平原にその屍をさらしている。生き残った者は散り散りに戦場を離脱しており、すでに脅威にはなりえない。


 本陣中央に据えられた櫓の上に立つフェレは、安定の無表情だ。よく見ればその頬から血の気が引き、白く細い手は震えているのだが……それは近くで見ているファリドにしかわからないことだ。


「あれがすべて『大魔女』の業だというのか?」「すげぇ!」

「あんな大技を繰り出しても、平然としているぜ!」

「王宮魔術師にも雷を操ることなどできないはずだ……あれは、人間にできうる業なのか?」

「いや、やはりあの方は女神だ! アナーヒター様が降臨なされたのだ!」


 兵士達が口々に驚きの声を上げ、やがてアナーヒター女神の名が呼ばれた頃合いをうかがって、第二軍団正規軍を率いるバフマンが、大音声を響かせる。


「そうだ、アナーヒター女神が降臨されたのだ! 女神が正義は我々にありと認め、恩寵を与えたもうたのだ! すでに女神の聖断は下り、我らの勝利は決定的である。全軍、敵本陣に向け、突撃せよ! 敵を王都に逃げ帰らせるな!」


「うおぉぉっ!」


 それは命令でもあり、また煽動でもあった。兵士たちは女神の降臨という輝かしい瞬間に立ち会った異常な高揚状態のまま、すでに士気を失った敵に向かって雄叫びを上げつつ突撃し、一方的に蹂躙した。


◇◇◇◇◇◇◇◇


 第一軍団四万は、かくして完全崩壊した。


 部族軍一万は離反。そして最強を誇る重装騎馬一万騎は、フェレの雷撃魔法で壊滅。千騎足らずはほうほうの体で王都に逃げ戻ったようだが、もはや最強部隊の面影はない。そして残った二万の兵には離反した部族軍と第二軍団合わせて四万が一斉に襲い掛かり、半数は討ち取られ、残りはほぼ降伏し……すでに正規軍は残敵掃討モードに入っている。


「まさに……神の御業としか言いようがありませんな」


「姉さんの力がすごいことは理解していたつもりだけど、ここまでとは……」


 副官ファルディンの述懐に応じるアミールの声は、かすかに震えている。今まで義姉の能力に対して覚えていた無邪気な感動に、今はわずかながら恐怖や畏敬のニュアンスが加わってしまうのは、無理からぬことであろう。


 そして、その暴虐な奇跡を為し、神かと讃えられた当人はといえば……。


 生まれたての仔犬のように、震えていた。顔色は蒼白で呼吸は不自然に速く、こめかみには脂汗が流れ、サラサラだったはずの黒髪がぺったりと貼りついている。すでに立っていることもままならぬ彼女だが、その両手はファリドの左手をぎゅっとつかんで、決して離そうとはしない。


「……リド……みんな、私が……殺したんだよね……」


 消え入りそうな声を必死で絞り出すフェレ。


「そう、見えるだろうな」


「……あの……人達は、悪い人じゃない……はず。第二王子派に……命じられて……仕方なく戦って……いただけ。きっと、家に帰れば愛する親や妻子がいて……そんな人達を……私はみんな、殺して……しまった」


「そうかもな」


 フェレが初めて人を殺めた時も、こんな風に弱い姿を見せていた。もともとフェレのメンタリティは物慣れぬ少女のそれだ……他人の人生を故なく断ち切る衝撃に、耐えられる強さはない。だがそれ以来彼女は、ファリドを信じ、依存し、彼の言葉を全面的に信じ盲従することで、そのハードルを無理やり乗り越えてきたのだ。だが、今度ばかりは、その衝撃が強すぎた。


「……私は、あの人達の未来を……奪ってしまったんだよね」


「ああ」


 ファリドはあえて、フェレが自分を責める言葉を、否定しない。この会戦で最大の功績を残したのは間違いなく彼女であり、それは最も敵を殺傷することに貢献したということ。それを否定しても、説得力はない。フェレが言いたいことを全部吐き出してしまうまでは、相槌しか打たない彼である。


 そして、いつもになくしゃべり続けたフェレの口が、ようやく重くなる。


「……私は……やっぱり、邪悪な魔女……なのかな……私は、どうすれば……いいのかな……」

 

 ファリドは両手でフェレの頬をはさんで、その眼をじっとみつめる。さまよっていた眼の焦点が次第に落ち着いて、視線が重なる。自分の額をフェレの額にこつんと合わせ、ゆっくりと言葉を紡ぎだしていく。


「なあ……俺が今のフェレに言えることは一つだけだ。『ありがとう』っていう一言だけど、な」


「……っ?」


「第一軍団から部族兵を寝返らせて数の上では互角以上になったとはいえ、敵にあの重装騎兵隊がいる限り、圧倒的に俺たちは不利だったんだ。あのまま激突していれば、こっちの中央を狙って食いつかれ、突破され、一方的に蹂躙されただろう。そこにはアレフも、アミールも、そして俺もいた」


「……そうだね」


「人を殺すのは怖いし、間違いなく良くないことだ。だからフェレが罪の意識を持つのは当たり前だし、無理して今日の殺戮を忘れなくたっていい。だから言いたいことは『俺たち家族を守ってくれて、ありがとう』それだけだよ」


「……うん、うん……」


 ラピスラズリの瞳が濡れて揺らぎ、やがてその眼から一つ、二つと雫があふれ出す。しかし脂汗は止まり、青白かった頬も、桜色に戻ってきている。もう大丈夫だろうと、ファリドは深く一息をつく。


 気が付けば、戦場を完全に制圧した第二軍団と、第一軍団を離反した部族軍が、フェレ達のいる櫓の前に集結していた。


「フェレ姉さん。兵達はみんな、今日の勝利を導いた女神のお姿を、もう一度見せて頂きたいと願っているんだよ。もし、いやでなければ……」


「あいつらの多くは、今日死んでいたはずだ。フェレは彼らに、この先も続く未来を与えてあげたんだぜ。彼らも、その家族もみんな口々に言うだろう……『ありがとう』ってな」


 アミールの遠慮がちな要望を、ファリドもフォローする。


 まだ涙で頬を濡らしているフェレが、吹っ切れたように大きく息を吐き、すっと立ち上がり歩み出ると、待ち構えていた兵士達に向かって、シャムシールをすらりと抜いた。


 その瞬間、うおおっという男たちの歓声が、マハン平原に地響きのように広がっていく。みな口々にフェレと、女神アナーヒターの名を呼び、喜び、笑い、ある者は涙を流している。


 そして珍しいことに、兵の歓呼を受けるフェレの薄い唇に、柔らかい笑みが浮かんでいる。それを眼にしたファリドも、ようやく口元を緩めるのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る