第105話 開戦準備
「熱が下がってきたな。おそらく、もう大丈夫だろう」
ファリドが告げると、居並ぶ部族の長たちが一斉に安堵のため息をつく。族長だと言っていた壮年の男が、ファリドの左手をものすごい力でがしっと両手で握り込み、熱のこもった視線を向けてくる。
「ファリド殿と申されたか。いや、軍師殿と呼ばせてもらうべきか……心より感謝する、我が甥のためにこのような神の奇跡を降ろしてくれるとは」
「まあ、それは俺じゃなく、フェレがなしとげた仕事だから。彼女が目覚めたら、たっぷり褒めてやってくれ」
「もちろんだとも! あれはどう見ても術者の生命を危うくするほどの強力な魔術であるはず……見ず知らずの、しかも部族の者に、自らの身を顧みずあのような神業を施して下されるとは、何たる深き慈愛か……」
族長はひとしきり眼を閉じ感動をかみしめている風情であったが、やがて決然とまぶたを開いた。
「軍師殿、なまなかな物でこの恩義を返すことは難しかろう。我々一族から差し上げられるのは、無条件の忠誠のみだ。我々マシュハド族千二百騎は、これより第一軍団から離反し、軍師殿と女神様の命に従い申す。他の部族には独自の考えがあろうが……」
「何を言うか! 我がラシュート族も女神の傘下に加え給え!」
「クート族も汝らに従うであろう。あのような神々しい姿を目の当たりにしてはな……」
「ぜひ、アマディア族五百騎に、女神様を守護奉る役を頂戴いたしたい」
「我が一族も是非に!」
部族軍の長たちが、ファリドへの……いや女神扱いされたフェレへの忠誠を、口々に誓っていく。傍らで、この工作を提案したシャープールが、満足そうにうなずいている。
「族長諸君、ありがとう。諸兄の助力、喜んで受け取ろう。明日は早速決戦となるはずだ、だから諸兄にはこの通り……」
不本意ながら、気負いこむ部族長達に「悪だくみ」を授けるファリドであった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
翌朝は、この地域には珍しい曇り空となった。
第一、第二両軍団とも未明から隊伍を整え、この内戦の帰趨を決めるであろう激突に備えている。
「物見の報告では、敵兵力四万だそうだよ。王都守備兵を除けばほぼ全軍投入というわけか。この一戦で、一気にカタをつけるつもりなんだね」
「奴らが小出しにしてきた兵力を全部俺たちが各個に潰して、あろうことかこっちに組み入れてしまっているからな。まともな指揮官なら兵力分散の愚かさに気づいて、全軍投入で正面対決をしたくなるだろう」
本陣の中央に組んだ櫓の上で、アミールと言葉を交わすファリド。二人とも、落ち着いている。フェレも櫓に登ってはいるが、二人の戦術談義には全く興味を示す様子もなく、ぼうっと仏頂面で敵方を眺めている。まあ彼女にとって、これが平常運転である。
「だけど兄さんは『正面対決』に、しないつもりなんだろう?」
「まあね。多少卑怯だろうが姑息だろうが絶対に勝たないといけないからな……アミール、先に言っておく。今回は、敵を容赦なく、それも多数殺す。千や二千じゃきかない、いや桁一つ上になるであろうイスファハン国民をな」
わざわざ念押しするまでもないことだが、アミールが相手であれば、必要なことである。アミールは眉間に少ししわを寄せて、それに答える。
「う〜ん、できる限り無駄に生命を奪いたくないけれど……さすがに僕にも、犠牲が出るのは仕方ないってことがわかるよ。手加減している余裕はないよね……うん、今日はファリド兄さんの手を縛るつもりはないから、存分に手腕を振るって欲しい」
やはりアミールは罪なき国民を殺すことに悩んでいた。この優しさが彼の美点であり、同時に弱みでもあるのだろう。もしも兄である王太子か、アミールのどちらかが、自己のみを信じる冷徹な支配者の顔を持っていたなら、おそらく今日の事態には、至っていなかったであろう。
彼らは支配者あるいは軍事指導者としては、残念な甘ちゃんだ。だがその甘さが、彼らに王者としての度量を与えていることも、また事実であろう。どうせ上に誰かを頂かねばならないならば、民にとっては彼らを選んだ方が幸せであるはず。この「甘さ」を支えてやることが、不本意ながら自分に与えられた役割なのだと、アミールの秀麗な横顔を眺めながら胸の中でつぶやくファリドである。
「そうなると、どう攻めるんだい?」
アミールが、興味深げにファリドを振り返る。昨晩一気に書き換えた作戦を、あえて彼には伝えていない。知るのは正規軍と部族軍の長たる、バフマンとシャープールのみである。
「あえて先制攻撃はしない、迎撃に徹するさ」
「嘘だろ、兄さん?」
アミールの驚きは、当然のものだ。イスファハン軍の強みは、鍛え抜かれた騎兵であり、ザーヘダーンから連れてきたのも、多くはそれである。騎兵の本領は突撃の速度と威力にあり、止まって守ることに使うなど愚の骨頂であることは、兵学校の初級で習う、常識中の常識であるのだが。
「本気さ。多分これが、一番効率的に、勝てる方法だから」
「う〜ん……ファリド兄さんがそう言うんだったら、僕は信じるよ」
一旦信任したからにはその意を全面的に受け入れ、あえて細々した説明を求めない。アミールが部下たちに敬愛されるのは、こういう度量が自然に身についているからなのだろう。
しかしさすがに盟主たる者が疑問を持ったままで戦うのも良くなかろうと、ファリドがその意のあるところを示そうとした刹那、はるか敵陣から、地鳴りのような鬨の声が上がった。
「兄さん、来るぞ!」
「ああ、ここで……決着をつけよう」
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