第104話 女神の奇蹟

「……リドの血に無い『粒』?」


「そうだ。俺たちの身体にはいない、『悪い粒』が、この若者の身体中にたくさんいるはずなんだ。それを探して欲しいんだ」


 細菌がどうとか説明しても、フェレは不思議そうな顔をするだけだろう。だからファリドは優しく、小さい子供に語り掛けるような易しい言葉で……まさに神の領域に属するような高度な業を彼女に要求する。

 

「……やる」


 フェレは素直に首肯した。そして同じように若者の腕を取り、その手首を両手で包み込んでは、ゆっくりと深い呼吸をしながら、何かを探っている。 


「……同じように感じられるけど……確かに、三種類だけじゃない。リドの血には無かった『粒』がある」


 一同がフェレと若者を見守りながら胸の奥で二百を数えた頃、彼女が口を開いた。


「よし、いいぞフェレ。なら次は、もっと高度な技をやってもらうぞ。俺たちには無い『悪い粒』だけを集めて、身体の外に出すんだ。足の傷口からがいいだろう……難しい魔術だが、フェレなら、できるよな?」


「……うん、できる。難しくても、リドができると言うなら、私は……できる」


 そんなこともできるのかという驚きを押し隠しながらファリドがとてつもない指示をすれば、フェレはあっさりと応じる。見守る族長たちはあまりの淡白な反応に、呆れている。


「身体中に回り切った毒を、魔術で取り除こうというのか? そのようなことが……」

「いくら女神が憑いているとはいえ、さすがに……」


 遠慮がちな小声ではあるが、口々に疑問の声をあげる族長たちだが、


「各々方、女神様の集中を乱してはならぬぞ」


 シャープールのこの一言で沈黙した。フェレが本当に奇跡を起こせるとまでは思っていないまでも、この若者の生命を救いたい一念については、皆共通している。


「……ふ……んっ!」


 フェレが短い気合を入れると、その細く濃い眉がきゅっと寄せられる。ラピスラズリの眼はきっと見開かれ、通常の視力では見ることのできない何かを、見極めようとしているようだ。やがてその白い額に汗の粒が浮き、雫がこめかみに流れ出す。


「おおっ! あのオーラを見ろ!」


 族長の一人が、思わず声を上げる。フェレを包む蒼い魔力のオーラはその輝きを増し、まるでコロナのように彼女の身体を包んで、妖しく揺らめいている。その光は普段魔力など見る力のない者にも容易に認識できるレベルまでまばゆく、天幕の中にいる男たちは、みな眼の前に広がる冷たい炎のようなそれに、ただ見惚れた。


「……くっ、ん……」


 フェレが苦しそうな呻きを漏らす。もともと色白の頬はもはや青みを帯び、薄い唇も血色を失って白く変わっている。


―――さすがにこれは、フェレにも負荷が高すぎたか? やめさせるべきか?


 ファリドはフェレと出会ってから初めて、その魔術行使を止めるべきか否か逡巡していた。彼女の身の安全を第一に考えれば、やめさせる以外の選択肢はない。だがその行為は、もはやファリドがフェレの魔術に、絶対の信頼を置かなくなったことを、宣言するに等しい。


 その時彼女は何を思うだろう。愛する男が自分の身を案じてくれたことに喜びを感じるか、それとも唯一自分の誇れる価値であった魔術を男が肯定してくれなかったことに、深く傷つくのか。


 ファリドは思う……おそらくフェレのメンタリティは、後者なのではないか。魔術学院を放逐され、冒険者としても八年間も「残念な魔女」と呼ばれまともな扱いを受けてこなかったのだ、彼女の心はひたすら自分への肯定を求めている……だから無条件で自分に憧れる妹アレフや、自分の力を信じ「フェレならできる」と背中を押してくれるファリドを、愛するのだと。


 やはり、止めることなどできない。ファリドは意を決して静かに、その掌をフェレの背に当てる。フェレは一瞬だけぴくりと身を震わせたものの集中を乱すことはなく、むしろその寄せた眉を、柔らかく緩ませた。そして徐々に、青白い頬に温かみが戻り……薄い桜色に染まっていく。


「……んっ!」


 何か新たな力を得たかのように、フェレがもう一段気合を入れ、集中のレベルを上げる。彼女を包む蒼い魔力が、さらに輝きを増す。


「おおっ、傷口から何か……」


 また、別の族長が声を上げる。若者の傷から灰色の泥のようなものが、じわじわと染みだしてきたのだ。


「……やり方がわかった、気がする……やれる」


 きっぱりと、フェレが言い切った。


◇◇◇◇◇◇◇◇


 結局、フェレの施術はそれから二時間ほど続いた。傷口から染みだすものが灰色から透明に変わったところで、ファリドがトウモロコシから造る蒸留酒を浸した布でそこを消毒しはじめる。それを確認して、ようやく彼女がその肩から、力を抜く。


「……ふぅ。多分、『悪い粒』はほとんど出した……と思う」


「立派だったな……よくやったぞ、フェレ」


 疲れ切ってはいるがやり切った感のあふれる表情を浮かべ、フェレはその頭を、ファリドの胸にこてんと預ける。多少族長たちの眼が気にならないでもないファリドだが、さすがにここは「ご褒美」をあげねばならないだろう。神秘的な黒髪を彼が優しく撫でると、フェレが満足のため息を吐き……五十を数えぬうちに、規則正しい寝息を立て始めた。


「さすがに、力尽きたか……」


 天幕に敷かれた毛氈にフェレをゆっくりと寝かせたファリドが振り向けば、そこには異様な光景があった。


 立派な髭を蓄え陽に焼け、いい年をしたごつい男たちが、みな一様に涙を流しているのだ。誇り高い騎馬の民であり、決して他人に涙など見せないであろう、部族軍の長たちが。


「なんと尊い……」

「まさに女神じゃ……」

「アナーヒター様の化身、いや、依代様か……?」


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