第84話 霧
ややウェーブのかかった茶色の髪と、翡翠のような緑の瞳をもつ若者が、武骨な石組みの床を落ち着かなげに行ったり来たりしている。そしていらだたしげに西方の空を見上げては、その引き締まった口元から、深いため息を漏らす。
「殿下、ここに居られましたか」
「あ……ああ、バフマン。すまん、何か異変か?」
「いえ、城砦の周囲は平穏でございます。当面第一軍団が大規模な軍事行動を仕掛けてくることは、ないでしょうな。まあ、十組ばかりの敵小集団がウロウロしておりますが、うるさいハエ程度のもので……」
「うむ……ファルディンは、戻らぬか」
「はっ、未だに」
この若者が、決して忠実な副官であるファルディンの到着を待っているわけではないことを、バフマンと呼ばれた軍団長はもちろん知っている。その副官が、おそらくその生命を賭けて守っているであろう可憐な女性を想い、いら立っているのだ。
「出陣は、三日後の予定だな」
「はっ。しかし……妃殿下のご消息、未だつまびらかではございませぬ。今少し待つこともできまするが……」
軍団長の言葉に、その若者……アミールは切れ長の眼をきっと見開く。
「バフマン。確かに今、妃アレフのことを想えば、この胸を掻きむしりたいほどだ。しかし、私にはこの国のために為さねばならないことがある。王族として、その優先順位をはき違えるようなことはせぬぞ」
「はっ、出過ぎたことを申しました、お許しを」
灰色の髪に、やはり灰色の見事なひげを蓄えた四十過ぎかと見える軍団長は、ほんの数日前まで、副団長たるアミールの上官であった。しかし王都異変の報を聞くやアミールを総帥と仰ぐ旨を早々に表明し、彼が王都を奪還するための準備を、着々と整えているのだった。部下の将校も末端の兵士も、アミールの統帥権に異議をはさむ者はいない。まさに副官ファルディンが言ったとおり、第二軍団はもはや、彼の私兵団であるが如くであった。
「卿らの期待に、応えねばならぬからな……」
「霧が出てまいりましたな。今日のような晴天に、どういうことでございましょう?」
消え入りそうなつぶやきに若い主君の苦悩を察し、軍団長バフマンは話題を無難なものに変える。窓の外に視線を向けたアミールが、いぶかしげに声を上げる。
「霧、だと……?」
◇◇◇◇◇◇◇◇
その頃ザーヘダーン城砦の外側では、第一軍団から派遣された追手の者達が、ますます濃さを増す霧に戸惑いを隠せないでいた。
冷え込む朝方ならともかく、もうすでにかなり気温が上がっている晴天の昼間に霧が発生するなどということは、雨量の少ないこの地域では、ごくごく珍しい……というより、ほぼあり得ないことだからだ。しかし今はすでに、一馬身先が見えない濃霧がたちこめている。
「東方では、このようなことが、よくあるものなのか?」
「いいえ隊長、私も十年ザーヘダーンの城砦に駐留しましたが、このような昼間に霧など一度も」
集団のリーダーらしい男の問いに、副官らしい中年男がかすれた声で答える。
「アフシン、お前の夜目なら霧を見通せるか?」
リーダーはいらだった風情で、傍らの小男に問う。
「私の魔眼は黒い闇であれば見通すことができまするが、白い闇に対しては皆様と同じでござるの」
「役に立たぬことだ。城砦への出入りを見張る、それだけの為にお前を連れて来たというのに」
「いけません隊長。アフシン殿は我々にとっては客分です。兵と同じように扱うのはお控えください」
「ふん」
部下への配慮が欠片も窺えぬ狭量なリーダーの言葉に、貶された小男が眉を寄せその眼に怒気を浮かべるが、すかさず副官が入れたフォローにようやく緊張を緩める。リーダーの小物ぶりを見てあきらめたものか、その小物に従わねばならない副官に同情したものか。
「副官殿も、苦労が絶えないことだの」
「は……汗顔の至り」
よく見れば、アフシンと呼ばれた小男の頭には山羊のような角が二本……魔族あるいは、半魔族であろう。魔族の血がもたらした闇を見通す眼の能力を買われ、今回の捕り物に同行を求められたのである。無論、多額の報酬をもって。
「しかし、婦人ひとりに十の小隊を繰り出して捕獲作戦とは、余程人質としての価値が大きいのかのう、そのアレフ様とやらは」
「アミール殿下が目下溺愛中の、新妻ですゆえ」
「婦女誘拐までせぬと勝てないのかの、第二王子殿下は」
小男の姿をした魔族の唇に、皮肉の色が浮かぶ。
「第二軍団は精鋭揃いです。第一軍団をフルにぶつければ勝てるかも知れませぬが……王都の西には第三軍団もおります。多少姑息な手を使っても必ず勝たねばならぬとの御諚にて」
「ふむ……」
「我々が十隊を放って入城を監視、妨害しているのです。昼間に城砦に逃げ込むことは不可能、入城にはこっそりと夜陰を利用せねばならぬでしょう、その時こそアフシン殿の闇を見通す眼が活きるはず」
副官はこの魔族のやる気を引き出そうと懸命に煽るが、すでにアフシンはすっかり醒めて……というより、達観している。
「さっきも言ったが、儂にこの濃霧は見通せんよ」
「それは敵も同じこと。このような濃霧で行動できるはずがありませぬゆえ、彼らも霧が消えねば動けますまい。晴れてからが勝負ですな」
「だと良いがのう……」
自らをも鼓舞するような副官の言い様に、首をかしげる魔族であった。人間という生き物はどうも自分を基準に他人を判断する傾向がある。人間の常識を超える能力を振るう者が、確かに存在するのだという事実を、しばしば忘れるのだ。
まあ、それをあえて指摘する必要もないだろう。あのような隊長のために手柄を用意してやることもない、獲物が我々に危害を加えず城砦に逃げ込んでくれるならば、それでもいいではないか。魔族は小さくつぶやいて、また皮肉っぽく口元に笑みを浮かべた。
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