第85話 突破
「よしフェレ、霧はもう十分だ。次は……」
一馬身先も見通せぬ濃霧の中、てきぱきと指示を出すのはファリド。それを受けたフェレは、ふうっと軽くため息をついた。
「疲れたか?」
「……ううん、『雲寄せ』にはもう慣れた、と思う」
そう、第二軍団が籠るザーヘダーンの城砦一帯を取り巻いている異常な濃霧は、はるか東方の山地にかかっていた雲を、フェレが呼び寄せたものである。これだけの魔術を展開しながらも、彼女自身は涼しい顔で、汗すらかいていない。
「なら次は、俺達の周りだけ、霧を除けるんだ、できるな?」
「……うん」
うなずいたフェレはふっと短い息を吐く。詠唱はもちろん、気合の声すらなく、彼女の魔術が発動する。十を数える間に、ファリド一行の周囲「だけ」霧が綺麗に消えて、彼らは透明な船に乗って……というより、透明な繭に包まれた格好になった。
そして、その繭に包まれたまま、彼らはゆっくりと移動する。馬にはハミを含ませていななきを抑え、アレフ以外はみな下馬してその手綱を引きつつ歩く。追手はアレフを捕らえるために選抜された者達だ、霧の中でも音で敵を感知するような異能を持った者がいないとも限らぬからという、どこまでも慎重なファリドの指示である。
そのまま三十分ほど進むと、何やら前方で人馬が騒がしい。
「隊長、この霧の中で動くのは無茶ですぞ」
「こうしているうちに獲物が城砦に逃げ込んでしまうかもしれぬではないか! いや、他の隊にかっさらわれるかも知れん! 我々が一番城砦の門に近い位置にいるのだ、今この有利を活かさねば、私は王都に帰って無能扱いされ……」
「そんなことを言っている場合ではありません!」
よくあるパターンだなと、ファリドは皮肉なため息をつく。無能なくせに栄達ばかり望む貴族のバカ息子の上官が、経験豊かな部下を蔑ろにして苦労させるという、あれだ。彼は一行を制すると、短弓を取り出して大きく深呼吸してからおもむろに引き絞る。
―――あれだけ派手な馬のいななきが聞こえるのだから、上官は馬上だ。距離は十数馬身ほどだから高さはこのくらい補正して……あと一声上げてくれれば狙いが絞れるんだが。
「とにかく、動くのだ! お前は私に意見すっ……」
理不尽に部下を叱責する声で方角を決めると、ファリドが短弓をはらりと放った。運よく当たったらしく上官の甲高い声が途切れ、恐らく落馬したものであろう音がする。
「よし、フェレ、頼む!」
「……んっ!」
気合の声とともに、フェレの前方で、まるで渓谷のようにそこだけ濃霧が割れた。驚く兵達に体勢を整える暇を与えず、ファリドとファルディンが一気に接近し、斬りかかる。ファリドのシャムシールが副官らしい士官を乗せた馬の脚を斬り、落馬させたところにファルディンの長剣が止めを刺す。周囲に七人ばかりの兵がいたが、不意を襲われ五人は斬られ、残る二人は漸く抜剣して反撃の構えを見せたところで、フェレの炎熱魔術でこんがりと焼き上げられる仕儀となった。
「まったく、歯ごたえがございませんな」
「まあ不意討ちだからな、こんなもんだろう……むっ、誰かいる!」
一行の中で最も気配に敏感なファリドが、不意に飛び退く。フェレがすかさず短い気合を発するとその先の霧が消し飛び、そこには山羊の角を生やした小男が茫洋とした風情で突っ立っていた。
「魔族……か?」
「いかにも、魔族だのう」
「こ奴ら追手の一党、だな?」
ファリドの声に鋭さが増す。追手の中に異能の者がいるかもとは考えたものの、魔族まで動員しているとは、さすがに彼も予想していなかった。しかし相手がたとえ魔族であっても、アレフに害をなすのであれば、殺さねばならない。必殺の構えでファルディンと左右から迫りつつも、フェレに目配せして「氷結」魔術の準備を促す。
「あ、いや、儂は雇われの身での。雇い主たちが皆殺しになってしまった今はもう、お主らと対立する意思はないのじゃ、見逃してくれぬものかの?」
「魔族であれば、俺達と戦っても勝てるだろう?」
「魔族と言ってもその能力はいろいろじゃ、儂の力は夜目が利くことだけでの。とてもお主らに対抗できるとは思えんの。それにそこの黒髪の嬢ちゃんが放つ魔力は、下手な魔族ではとてもとても……」
魔族は飄々とした態度だ。明らかに敵であるのだが、不思議に悪い印象を受けないのはファリド自身も不思議に思っている。
「ふむ。雇われていたとはいえさっきまでは、アレフ妃を捕らえようとしていたのだろう。殺しはせぬが、捕虜になってもらうことは必要だろう、それで構わないか?」
「ありがたい。これでも生命は、惜しいのでのう」
さすがに年の功というべきか、ファルディンが良い落としどころを提案し、魔族は相変わらず泰然として応じる。無害ではあろうが、何ともわかりにくい魔族を虜囚としてしまったファリド達であった。
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