第82話 雲を呼ぶ

 普通に考えれば突拍子もないファリドの要求を、フェレは至極冷静に受け止めた。ある意味、安定の反応である。


「……あの雲は、水の……氷の粒々……粒々が集まって……」


 薄い胸の上に両手を重ね、眼を閉じた彼女は、ひたすらファリドの与えたイメージを意識しようと精神を集中している。


「……わかった気がする。やる、見てて」


 数分の刻が流れた後、フェレがゆっくりと眼を開け、その視線を彼方のひつじ雲に向けて、呼吸を整える。ファリドが脳内で十ばかりを数えた頃、彼女がただでさえ大きな眼を、さらに大きく見開く。


「……んっ!」


 いつものようにフェレの魔術発動は、呪文の詠唱を伴わない。対象の「粒々」を正確にイメージし、必要な魔力を一気に注ぎ込むだけ。イメージを構築する力は、十分に持っている。並み外れた認識力と、師でもあり愛する男であるファリドへの絶対の信頼が、あるのだから。


 しかし今回ばかりは、必要なエネルギーが大きすぎるだろう。あの距離、そしてあの雲の大きさ……いくら規格外の魔力量を有するフェレであっても、厳しいのではないか。浮かんだその疑念を、ファリドは急いで胸底に押し込める。彼がフェレの力に不信を抱いたならば、彼女はその力を失うであろうから。


 ミディアムまで伸ばした黒髪が、あふれる魔力を帯びてふわりとふくらむ。そして毛先と頭頂部に現われるモルフォ蝶のような構造色が、複雑に色を変えはじめる。ラピスの瞳は益々大きく見開かれ、妖しく輝く。そして全身は蒼いオーラに包まれ、まるで地上に降りた女神のように、光を放っている。こめかみに一筋、汗の雫が流れていく。


「……ふぅ、んっ!」


 二度目の気合を聞いたファリドは、彼方の雲に視線を移す。と……西に向かってごくゆっくりと流れていたひつじ雲の群れから一頭のひつじが離れ、東へ……ファリドとフェレがいる方角に、その動きを変えたのだ。まるで、本当の飼い主でも見つけたかのように。


 ひつじ雲は、ゆっくりゆっくりと高度を下げながら、フェレに近づいていく。


 そしておよそ五分後。フェレ達一行は、深い深い雲……というより、霧に包まれていた。


「……これって、メフリーズ村の霧と同じ、でいい?」


「ああ、そうだ」


「……じゃ、集める」


 そして巨大な雲はフェレの魔力によって圧縮され、やがて凝縮して水となり、ファルディンがあわてて用意したキャンバス地の折り畳みバケツを、次々と満たしていった。


◇◇◇◇◇◇◇◇


「いやはや、驚きました。というより自分の目で見たことが、今でもまだ信じられないのですよ。あのようにはるか天空に在る雲を、まるで飼い犬でも呼ぶが如く、引き寄せてしまうとは。フェレシュテフ様は王都で『大魔女』と呼ばれておりますがとてもそんな表現ではおよばず……私に言わせれば『女神』様としか言いようがありませんな」


 やはり渇き切っていた馬たちにせっせと水を与えながら、まだ興奮しているファルディンがフェレを激賞する。


「女神、か……」


「いや、まさに女神としか表現できませんな。全てを超越されたような無欲さと言い、魔術を使われるときのあの神々しさと言い、何より風前の灯火であった我々全員の生命を、フェレシュテフ様が救ってくださったのですからな」


―――もはや、神扱いに昇格してしまったか。もっさり女神だけどな。


 苦笑するファリドだが、その彼にして今回フェレがやらかした魔術に、かなり度肝を抜かれてしまったことも、また事実なのだ。いくらフェレの「粒々」認識力と魔力量が卓抜したものであると知っていても、自然現象を捻じ曲げるかのような大技を見ては、とても平静でいられないのだ。


 当のフェレは、超絶大魔術をやり遂げたにも関わらずなんの高揚感も示さず、アレフに水を飲ませ、額に濡れた手巾を載せてと、その介抱に夢中になっている。アレフもたっぷりと水分を取って落ち着いた、陽が傾く夕方になれば動けるようになるだろう。


―――ある意味大物だな、フェレは。


 フェレにとって、ファリドは絶対的存在である。ファリドが白と言えばそれは白、黒と言えば黒なのだ。そしてファリドが「フェレならできる」と言ったなら、それは出来て当たり前のことなのであり、達成したからと言って誇ることも高ぶることもないのは、ある意味当然とも言えた。


 ようやく眠ったアレフから静かに離れたフェレの肩に手を置いて、ファリドはねぎらいの声をかける。


「よくやったな、フェレ。凄かったぞ」


「……私ならできると、リドが言ったから……頑張った」


 そう言うなりフェレは背を向け、ファリドの胸に頭を寄せて、こてりと首を傾げる。心得たファリドは、まるで新しい芸を会得した仔犬を可愛がるかのように、彼女の髪を柔らかく撫でる。フェレがいかにも気持ちよさそうに眼を閉じ、さらに身体を預ける。


 そうしながらも、ファルディンの生暖かい視線が気になるファリドであった。

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