第80話 渇き

 逃避行四日目にして、ファリド達は街道を行くのを諦めた。沿道の村に、誰かを捜索しているらしき兵隊を目撃したからだ。


「意外に早く追いつかれたな」


「まったくですな。あの連中、どうやら周到に準備をしていたらしい。第一軍団は早々に奴らの軍門に下ったようですな」


 あごひげを撫でながらそんなことを言うファルディンだが、感心していられる状況でもない。一行は敵が容易に踏み込んでこないであろう街道北側の丘陵地に進路を変える。

 

「そう簡単には大軍で追ってこられないはずだが……問題は、水だな」


「まったく。逃げ切れるのが早いか、渇き死ぬのが早いか、賭けですな」


 ファリドとファルディンの会話は、たとえ話ではない。ここは既に緑豊かなアフワズ州を出た乾燥地域、見渡す範囲には赤茶けた低い丘が連なるばかりで人里はもちろんのこと、湖や河はおろか、森林すら見当たらないのだ。飲料となる水が得られるのは、街道沿いのオアシスのみなのである。


 起伏が大きく身を隠す場所には困らないので、追っ手に捕まるリスクは低いが、ただ隠れているだけでは、死を待つのみだ。二人はファルディンの持つ軍事地図をためつすがめつし、慎重に丘の間を縫うようにルートを探りながら進んだ。


「この先に古井戸があるはず、そこで水が補給できれば何とかなりますが……」


「できなければ、詰むな」


 そう言いながらファリドは後ろを振り返る。窮乏も苦難も命の危険もたっぷり経験しているフェレと違い、箱入りのアレフがどれだけこれに耐えられるかだ。


 ただでさえ四日間の強行軍で体力を消耗している上に、アップダウンの激しい騎行、そしてとどめに水の不足。どこかできちんと休ませ、水分をたっぷり摂らせない限り、早晩動けなくなることは確実である。


「……リド、一旦止まって」


 丘陵地帯に入って半日。フェレの声に馬を停めると、アレフの上体が馬上で揺らいでいる。すでに限界なのであろう、その顔面は蒼白だ。ファリドは彼女を馬から抱き降ろして岩陰に寝かせ、自分の水筒から残り少ない水を飲ませる。もちろん既にアレフ自身の水筒は、とうに空っぽだ。


「いいかアレフ、一旦水を大きく口に含んで、ゆっくり少しずつ飲み込むんだ」


 ファリドの声に懸命に従おうとするアレフだが、結局のところ三つも数えない間に水を飲みつくしてしまう。ファリドはため息をついた。


「仕方ない。もうアレフは動かせないから、俺がこの先の井戸まで行って水を探してくる」


「……お願い、リド。アレフを助けて」


 うなずいて単騎で馬を進めること一時間弱。やっと見つけた井戸にファリドが放り込んだ石が、底の岩とぶつかって乾いた音を響かせた。


◇◇◇◇◇◇◇◇


「古井戸は、枯れていた」


「む……次の井戸に着くには、後一日近くかかりますな」


「……そうか」


 死刑宣告に近いファリドの言葉を、騒ぐでもなく責めるでもなく、フェレは静かに受け止めた。そしてフェレの水筒にわずか残っていた水を、アレフの口に運ぶ。


「ご……ごめんなさい姉様、私がもう少し強ければ……」


「……アレフは悪くない」


「お兄様、お願いです。私を……殺して下さい」


 アレフが悲愴な声を絞り出す。フェレが顔色を変えて、彼女を抱き締める。


「……アレフが死ぬなんてだめ!」


 いつも冷静なフェレの声のトーンが、この時だけは上がる。上級のラピスラズリかと見紛う瞳が、蒼く燃え上がる。しかし、アレフは言葉を継ぐ。


「姉様……いつも私のことを第一にしてくれて、本当に嬉しい。でも、今度ばかりは私が死なないと、いけないと思うの。私が敵の手に落ちたら、優しいアミール様は、ご自分がやるべきことをできなくなる。そして、行方不明でもいけないのよ……敵が、アレフはわが手にありと偽る可能性があるから。だから、私を殺して……副官様がアミール様に、もうアレフは失われたと復命して頂くことが必要なの、お願い……」


 理性的に考えれば、アレフの言う通りにすることがベストだということが、ファリドにも副官ファルディンにも、本当はフェレにだって、わかっている。わかっていながらもフェレの思考は、アレフを失う想像をすることを、拒否するのだ。


「……大丈夫、アレフは絶対に死なせない。だって、ここにはリドがいる」


―――え?


「……リドがいる限り、アレフも、私も、必ず守ってくれるから」


―――ええっ?


 とんでもない無茶振りに戸惑うファリドを、アレフが上目遣いで見つめる。そのラピスの視線はある強固な感情を乗せて、ファリドの眼に向けられている。それは揺るがぬ絶対の信頼……いやむしろ、信仰とでもいうべきもの。


―――マジか……。


 男として、ここで首を横に振る選択肢はない。ファリドは人生最大級の困惑を感じながらも、ゆっくりとうなずきを返す。潤んだフェレの眼に歓喜と安堵が満ち、そしてアレフの頭をその脂肪の乏しい胸にぎゅっと抱きしめる。


―――おい、これは、参ったことになったぞ……。

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