第78話 いきなり逃避行?

 ファリドは、領主館へ続く扇状地の坂道を一気に駆け上った。フェレの心配をする必要はない、軽く身体強化を掛ければ、並の男の二倍速で走ることができるのだから。息を切らせつつ飛び込んだ館に、近頃見慣れた顔の男がいた。


「ファルディン、なぜここに? アミールのところにいるはずじゃなかったのか?」


 第三王子アミールの謹厳で忠実な副官は、ファリドを見て安堵の表情を浮かべた。


「ああ『軍師』殿。時間がございませんので端的に申し上げます。殿下のお待ちになっているザーヘダーンまで、アールアーレフ妃をお連れ頂きたいのです。それも、今すぐに」


「国王崩御の噂と関係が? それを聞いて急いで戻って来たんだが」


「さすが耳がお早い、その通りです」


「国王陛下が亡くなられたのは、本当なのか?」


「真偽は、わからないのです。確かなことは、この情報が王太子が王都不在の時期に、第二王子派の副宰相バンプール伯ザールから発せられたこと」


「つまりは、一気に第二王子派が権力を掌握するための動きであると?」


「意図的なものなのか、単なる偶然で時期が一致したものなのかは、私のような者にはわかりかねます。ですが、この後の流れは、王太子殿下やアミール殿下にとり、厳しいものとなることは、明らかかと」


「……どういうこと?」


 ここまで黙って聞いていたフェレが、初めて口をはさむ。家族の安全を価値観の第一に置くフェレにとって、義弟アミールの身に迫る危険は、最大の関心事なのである。


「恐らく第二王子派は、少なくとも宮廷と中央政府、近衛軍団を掌握しているのだろう。国王の死が真実かどうかはともかく、死んだという噂を流しても掣肘を受けることがないということまでは、事実だからな」


「……わかる」


 ファリドの解説にうなずくフェレ。


「この次は、王太子と第三王子に対し、至急王都へ帰還せよとの命令が出るだろう。摂政だかなんだかもっともらしい名を借りた、第二王子からな」


「……王都へ行ったらどうなる?」


「何やら罪状をでっちあげて逮捕監禁、悪ければ処刑だな。国王に毒を盛ったとか何とか理由をつけて。行かなければ行かないで、勅命に逆らったとかで反逆の汚名を着せられ、討伐対象になるということさ」


「……させない」


「そう、そんなことはさせられん。少なくともアミールは国軍第二軍団と共に行動するべきだろう。彼らがいきなり手の平をひっくり返して彼を第二王子に売るとは思えないからな。だが同時に、アレフを決して敵の手に渡してはならない。アミールを釣り出すための、絶好のエサになるからな、アレフは。だからファルディンが、ここにすっ飛んできたんだろう」


「ご明察、恐れ入ります」


「……アレフは、私が守る。絶対に」


 最上級のラピスラズリと見紛うフェレの瞳が、光を帯びる。そしてその黒髪の先端が、湧き上がる魔力の影響を受けてモルフォ蝶のように複雑に色を変えていく。緊急時だということも一瞬忘れ、ファリドはその美しさに、眼を奪われた。


「支度は、できておりますわ。すぐにでも、発てます」


 そうであった。アレフの冷静な声に我に返ったファリドはやや赤面しつつ、もう一つ聞かねばならないことを口にした。


「父上と母上は、逃げる準備をなさらないのか?」


「私とハスティは、当然残るのである。領地や領民を引っ張っては逃げられないのである」


 意外そうな表情でファリドに応ずる領主ダリュシュ。妻のハスティも静かに微笑んでうなずいている。


「いやしかし、父上や母上を捕らえ、アレフに出頭を迫るということも考えられるわけで……」


「いいえ、お兄様。父母が人質となったとしても、私が第二王子の元に下ることは決してありません」


 示唆された危険を、きっぱりと否定するアレフ。迷いのない義妹の姿を見て、驚きを隠せないファリドである。


「……自分の領地を離れず守るのは、領主に任じられたからには絶対に果たさねばならない、当然の責務。父さんや母さんはそれを実行しているだけ。そしてアレフには、王子妃としてアミールに自由な立場で腕を振るわせる義務がある……だから捕まらないことがアレフにとって最大の役目」


 家族第一のフェレですら、これである。


 普段まったく支配階級らしいところを見せることはない末端騎士であるフェレ一家だが、やはり底流には青い血が流れているのだと、ある種の感動を覚えるファリドであった。いや、むしろ末端であるからこそ、旧い貴族精神が、純粋に受け継がれてきたのかも知れない。骨の髄まで平民のファリドには、いずれにしろ理解の外にあるメンタリティでは、あるのだが。


「わかった。俺達も早く逃げ支度をしよう」

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