第76話 二人の「愛の巣」
「よし、そのチェストは部屋の隅に。鏡は掃除の後でいい、割れやすいからな」
「はいよ、若様。これで家具類は最後じゃねえかな。午後からは何をしようかね?」
「水回りの漏れ確認をやろう、後で不具合がわかると大変だからな。そして明日からは女達に頼んで室内の大掃除、男達は外に出て庭木を植える作業をしよう」
農閑期の領民達にあれこれ指示を出しつつ、小さく素朴だが堅牢なログハウス風の家をあちこちチェックしていくのは、ファリドである。領民が「若様」呼ばわりするのをあえて否定する意欲も失って、そのポジションを甘受する心境になっている。
たったいま彼が建築作業を差配している、木の香りのぷんぷん漂う新築の離れは、ファリドとフェレのためのものではない。彼らの愛する妹アレフと、その配偶者にして第三王子であるアミールの「愛の巣」なのだ。
外から見た構えは素朴だが、内装設備や家具、そしてこれから搬入されるであろうカーテンや寝具などには、小役人ならば二年くらいただ働きせねばならないほど巨額のカネを費やしている。自分達のことになると欲のないフェレとファリドも、妹のこととなるとためらわず最高級品を購う、これも彼らだけでは使い切れない「互助会」資金があればこそできることである。
一ケ月前に王都で結婚式を派手派手しく執り行ったアレフとアミールだが、二人して王宮に入ることも、王都に住居を構えることもしなかった。王太子が指名された後もいっこうにやまぬ後継者争いから一線を引くことを行動で示す意味とともに、アミール自身の暗殺を防ぐという深刻で現実的な目的のために。
二人が選んだ道は、アミール自身は王太子と自分のシンパで固められた国軍に残り、アレフは従前通り父親の持つアフワズ州の小領地で、彼の訪いを待つことだ。月に一度ほどアミールが休日を固めて取っては、アレフの元に通うという、いわゆる妻問婚である。この国では珍しいが、はるか東国ではごく一般的に行われている習俗なのだ。
アレフを溺愛するアミールにとって、普段離れて暮らすことは何かと辛いであろうが、これは彼女の安全を最優先事項として、彼自身が下した結論だ。なにしろアレフの実家には……王都ギルドで「大魔女」「軍師」と称される二人が、常駐しているのだから。これを最強の護衛と言わずして、何と言うのだ。
「俺達しがない農民が、王子様のお邸をこさえることになるとは思わなかったね」
立派な口ひげを蓄えた四十絡みの屈強な領民が、ほぼ完成となった離れを見渡して、しみじみとつぶやいた。
「急いでもらって、すまんな。ようやく何とか形になったようだ」
「いや若様、急がないといろいろ、マズいだろうよ? 何しろ王子様の夜はえらく激しいらしいからな。壁一枚向こうにいたら、若様やお嬢にも刺激が強くて仕方ねえだろうて」
―――まったくその通りだな。これで、少しは平和になるだろうさ。
領民の露骨なほのめかしを否定することなく、ファリドは安堵のため息をつく。
そう、普段離れて暮らす間に貯めこんだらしい熱情を一気に晴らそうとしているのか、アミールが訪れた翌日には、領民ですら一目で気付くほどアレフがぐったりと疲労困憊し切っているのだ。当然それは、深夜まで悩ましい音を聞かされたファリドが、睡眠不足に陥るということでもある。ファリドが離れの建築を急いだのは、彼自身の安らかな眠りを求めたから、という側面もあるのだ。
―――フェレはあの音、まったく気にならないみたいだけどな。ある意味大したもんだ。
そう、最初は壁ごしの声に不審と疑惑を抱いていたフェレだが、ファリドが「好き同士なら誰でもすること」と一言添えて以降は、まるでそれが聞こえないかのように平然と振舞っている。相変わらずファリドの言うことであれば、絶対信じるフェレなのだ。
むしろフェレは、アミールの来訪で部屋が足りないがゆえやむを得ず「添い寝」したことが、いたく気に入ったらしい。ファリドにとって都合が悪いことに、王子がいない日にもしばしば添い寝をせがむようになってしまったのだ。無自覚な小悪魔であるフェレは百も数えないうちに眠りの国に旅だってしまうのだが、残された若いファリドにとって、彼女のひんやりしっとり吸い付くような素肌の感触に耐えることは、まさに拷問である。
そんなことを考えて虚空を見上げ、またため息をつく「若様」を不思議そうに見る領民に気付いて、ファリドはあわててフォローを入れる。
「すまん、ウチの個人的事情で、領民のみんなを使ってしまっているな」
「なあに若様、俺達農民にゃ普通だったら、尊い人のために働くなんて機会は、一生かかってもあるもんじゃねえ。アレフ嬢ちゃんのお陰で王子様のご尊顔なんてのも拝めるし、その上そんな人に礼なんか言ってもらえてさ、みんな喜んでるんだよ。それにこうやって結構な日当をもらって働かせてもらうのは、本当にありがてえ。これでウチも、娘に嫁入り道具を買ってやれるってもんだ」
「ありがとう。まあこの調子なら、次にアミールが来る日には間に合いそうだな。もうひと頑張りしよう」
「合点、若様! お任せ下せえ」
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