第9話 焼きそばケンちゃん

何となく、いつもとは違う会社の帰り道。

山手線高架沿いをやや駆け足に帰っていた。

理由はない。今日もいつものように遅くまで残業し、色濃く疲労が滲んでいるだろう。

ただどうしてか気持ちは急いていた。家に帰っても予定があるわけでもないのに。

気分が高揚しているような、不思議な力がみなぎるようだった。俺はそんなに仕事が終わったのが嬉しかったのか?

そして、しいて言えば、お腹がすいた。

ぎゅううううううううるるるるるううううううううと音が鳴る。

よぎった思考は急激に大きくなっていた。まずは何か食べたいところだ。

その時、行く先に街灯に照らされた出店を見つけた。

近づいていくと『筋肉焼きそばケンちゃん』という文字。そして座って料理を待っている先客が窺えた。


丁度いいな。ここで食べていこう。


「すいませーん。焼きそばひとつー」

「待ってましたいらっしゃいよ! 筋肉焼きそばおひとつ800円だ」


対応してくれた店員のにいちゃんは図体が大きく頭にはタオルを巻いていて、半袖のシャツはびちびちに引き伸び身体のラインが浮き出ていた。むき出しの腕はあまりに太く、日々の研鑽が表れている。

俺はその様子を見て、声を聴いて、思わずニヤリと笑っていた。どうしてかとても嬉しくなったのだった。


「はいよろしく」


俺が差し出したお金をにいちゃんは嬉しそうに包帯を巻いた手で受け取った。

代わりに水を受け取って席に着く。


「アンタも、この筋肉店の評判を聞いてやってきたのかい?」


先に座っていたメガネの男から声を掛けられた。


「筋肉屋? 一体何です?」

「知らないのか。ここは筋肉店の聖地だよ。一度あのショーを見ちまったら、もう何度でも来たくなること請け負いさ。ほら、始まるみたいだ」


促された先にはにいちゃんが上半身裸で立っていた。何故服を脱いだと驚いたが、


「どうやら、アンタもここに来るだけの素養があるようだな。笑ってるぞ」


隣にいたメガネの男から指摘されて、己がまた笑っていることに気づいた。


安堵し、楽しみにしている自分がいたのだった。


「さあ、最高の筋肉ショーを――」

「待つっす待つっす! 今回はあにきは休みっすよ」


にいちゃんの言葉を遮って屋台から別の店員が現れた。こちらも上半身裸だ。


「流石にその手で料理はさせないっすよ。俺がやるんで、あにきは見ていてください」

「いや、でもな……」

「でもはないっす。ではお客さん方、あにきの代わりに自分がやるっす」

「ああ、楽しみにしている」

メガネの男は特に不満があるわけでもなさそうだ。


「そちらの方もいいっすね?」

「はい」


俺も返事をしながら頷いた。


「それじゃあ、最高の筋肉ショーをご覧くださいっす!」


言うが早いか、店員は目の前の鉄板に油を引く。


「肉を焼くっすよ!」


じゅうううううっと音をたてて豚肉が鉄板の上に跳ねた。

見る見るうちに火が通り焼き色がついていく。


「それから野菜を炒めるっす」


店員はたまねぎ、にんじんやキャベツ等の野菜を鉄板に抛り、


「あらっ、あらっ、ほいっ、ほいっ」


大仰に混ぜ合わせていく。

野菜が鉄板上で踊る。宙を舞う。


「おおっ、見ろよあの筋肉! 完璧なフォームだ。中心から左右綺麗に分かたれている。均一な筋肉の動き、マーベラス!」


隣のメガネの男は早くも大興奮だ。


「そして、麺を追加っす!」


店員は麺をほぐしながら入れ、先の野菜や肉と同じに焼いていく。


「はいっはいっはいっはいっ」


みるみるうちに焼きそばが完成へと近づいていく。


「うらららららっ」


それから店員はソースをかけながらもう片手のヘラでかき混ぜていく。


「おおっ、先程の左右対称のヘラさばきもさることながら、この一瞬で魅せてくれるな。あの筋肉、キレてる。キレている! んー、エレガンッッットッ!」


感情豊かに舞い上がるメガネ。あにきと呼ばれていたにいちゃんも、調理中の店員の動きを見守りつつにこやかにうんうんと頷いていた。

もちろん、テンションが上がっていたのは俺も同じだ。

こぶし大もの剛腕の伸縮がすさまじい。力を伝える胸筋。動きがブレないように身体の中心に据わる腹筋たち。

きっと背中には羽根が生えているのだろう。


「さあ、そろそろフィニッシュといきますよー」


最後に粉を振りまいてワッシャワッシャと全体を混ぜ、


「はあっ!」


焼きそばを高々と飛ばす。

そして、店員はこぶしを頭の後ろへと回す。


「来るぞ来るぞ来るぞおおおおおおお」


となりのメガネが期待の雄たけびを上げ、そして、


「はい、ずどーん!」


頂へと、昇りつめた。

一瞬、ビシャアアアアンと閃光がほとばしったかのように錯覚した。


上半身と肘を突き出し、二の腕を顔の左右に並べた、その、名称は――


「「「アブドミナル・アンド・サイ!!!」」」


感極まっていたのか、奥に控えていたにいちゃんは無言のまま涙で頬を濡らしていた。

気持ちはわかる。わかるぞ!

腹筋、いや、腹直筋も外腹斜筋も規則正しい整列。

合わせて、強靭な大胸筋。そこから伸びて見える上腕三頭筋が続く。キレている。笑顔とともに輝く。

全体美。全てが仕上がっている。

そしてこれが、この筋肉ショーのフィクサーか。影の参謀、その実態は、大腿四頭筋。あまりに太く大きい。あらゆる衝撃をもってしても崩すことが出来ない双璧。土台が違うよ土台が!

彼の今までの努力を、虹色に輝く無窮の世界が証明していた。

そう、彼もまた、至高の領域へと足を踏み入れたに違いないのだ。新時代の幕開けだ!

俺とメガネは目を合わせ、息を合わせ、一緒に叫んだ。


「「ナイス、バルク!!」」



それからすぐ、俺たちの目の前には食欲をそそる焼きそばが配膳された。


「はい、おまちどうっす!」

「ああ、至福の時間だ。いただきます……ドァグシャモシャモシャアフアフ美味い美味いぞおおおおおおお」


隣のメガネは早々に食らいついており幸せそうだ。


「いただきます。……うっ!?」


俺も食べようとしたその時、頭の中で何かが弾けたかのような違和感が広がり、途端に眠気がやってきた。

意識がだんだんと遠くなっていく。

…………だが、俺は懸命に箸を握り、焼きそばをつまむ。


あれほどの極限美を披露してもらっておいて、俺が今力尽きるわけには、いかねえ。


そして、ゆっくり、ゆっくりと近づけていき――

わずかに口に含んで、意識を失ったのだった。

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