第8話 うどん屋ケンちゃん
いつも通りの遅い、会社からの帰り道。
今日も今日とて残業まで働いた俺。
山手線高架沿いを自宅に向かって手をこすり合わせながら歩いている。
すっかり遅く寒さの厳しい時間だが、以降の時間はこれといって何もない。
明日も仕事だ。生きるために働く、当然のこと。
お金の使い道は特に決まっていないのでそれなりに貯金出来ている。
それが嬉しいような、己の無趣味の協調のようなで、どんな顔をしたらいいか分からなくなるけれど。
他愛も無い事を考えていると、ぎゅっぎゅっきゅるきゅるううううっとお腹が鳴った。
そういえば昼食以降食べていなかった。お腹がすいた。
ここまで来てしまうともうコンビニしかない。まぁ、しょうがないか……。
コンビニ飯と腹をくくろうとしたその時、進行方向に小さな出店が見えた。
通りかかろうとすると、『筋肉うどんケンちゃん』と大きな文字が見えた。
うどんか。どんなもんかわからないけど、いっかな。
俺は屋台に近づいた。
「いらっしゃい。待ってました。筋肉うどん。一杯500円でのサービスだ」
店員のにいちゃんが声をかけてくる。上半身裸で。
驚異的ガタイに俺はビビったが、にいちゃんは笑顔だった。
「えと……寒くはないのか……?」
「ははっ、鍛え上げられた俺の筋肉はこの程度の寒さで怯えはしないさ!」
「そ、そうか……。それで、うどん屋なんだよな?」
「はいっ! 食べてきますか! いきますよね!」
にいちゃんは食い気味に訊いてくる。
俺は少々後ずさった。
「あっ、すいませんっ、ちょっと嬉しくなってしまったもので」
自らの態度を顧みたようで、先ほどよりおとなしめに、どうしてか楽しそうに謝る。
……ちゃんと客として接してくれはするのだと思う。少なくとも、あの剛腕で殴られる事はないだろう。
「それじゃあにいちゃん、一杯頼む」
「はいっ」
「500円。よろしく」
「まいどありー」
俺からお金を受け取ると、にいちゃんは振り返って奥に置いてあるケースから生地を取り出して、俺との間にある台へと広げた。
「それじゃあお客さん。俺の感情を込めた、嵐のボディビルショーを、是非ご堪能ください」
にいちゃんが何を言っているのかはさっぱりだった。
俺が疑問符を浮かべている間に、にいちゃんは両の手を合わせたこぶしを頭上に振りかぶり、
「はああああああああ!」
全力で生地に叩きつけた。衝撃で屋台が揺れる。
「オラオラオラオラオラオラオラオラッ! ドゥクシドゥクシドゥクシドゥクシッ!」
なおもにいちゃんは荒ぶって手を振り下ろす。
殴る。叩く。突く。時にこねる。そして殴る。何度も殴る。無数に殴る。
何もかも全てお構いなし。歯を食いしばり、目を見開き、親の仇とでも言わんばかりの形相で生地を滅多打ちにする。
「……」
常軌を逸していたが、俺はそうなることが腑に落ちる心持ちでただ見ていた。
迷いなく打ち出されるこぶしを支える筋肉のキレの良さ。腕だけではない。胸も、見事に割れているお腹も、おそらく足も、筋肉という筋肉が総動員して雄たけびを上げ稼働しているのを感じる。
……今、彼の筋肉は、喜んでいる。
そう解釈する自身の感性に驚かされる。
この湧き上がってくる感情が説明できないが、殴打し乱舞するにいちゃんから目を逸らすことは出来なかった。いや、しっかりと見届けなくてはいけない気がしたのだった。
「アタッ! アタタッ! アタタタタタッ! ふぉあああああっ! ドゥクシッ!」
気が済んだのか、にいちゃんの手がいっとき止まった。
「ふっふっふっ、……はいっ、ほっほっほっほっ」
にいちゃんは一度生地をまとめ、粉を振り撒き場を整えた後、張り手で生地を伸ばす。
そして、器用に折りたたみ、
「はいぃぃいいぃぃいいぃぃいいぃぃっ」
手にした包丁をハイスピードに、リズミカルに入れていく。
そうしてみるみるうちにうどんの麺が作られていった。
「ほあっちゃー!」
まとめてザルに投入し、振り返って背後の鍋へと入れたようだった。
「まだ、終わらないぜ!」
振り返ったにいちゃんは新たにタッパーを持っていた。
それを、台横に設置されているフライパンへとひっくり返した。
「下味万全のささみだ。楽しみにしててくれ」
そう説明しながらどんぶりを台に用意し、しばらく経ってから俺の目を見てこう切り出した。
「さあ、フィナーレだ。しっかり見ていてくれ」
にいちゃんが振り返る。
「ふぉあああああああ!」
右腕を鍋へと動かしたかと思うと、すぐさまこちらを向く。
「はあいっ!」
どんぶりへと手を落とし込む。なんと、麺だ。素手でうどんを引き上げたというのか!? この屈強なにいちゃんの神経はどうなっているんだ!?
そしてにいちゃんは腕を引き寄せ、左腕も同じようにこぶしをお腹のあたりまで動かし、ポーズを決めた。
「どおおおおおおおおおおおんっ!!」
はちきれんばかりの筋肉が隆起している。筋肉が組みあがっている。筋肉が輝いている。筋肉が手をつないでいるうううううう!
「はいっ、おまちどう」
気付くと俺の目の前には、ささみをあしらわれた温かいうどんが用意されていた。
「どうだったよ、俺のショーは?」
俺は不思議と、言わなければいけない言葉を見つけてあった。
「ああ……ナイス、バルク、だった」
にいちゃんにはそのひと言がとても嬉しかったようで、笑顔でサムズアップをしたのだった。
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