第7話 炒飯ケンちゃん
そこは、鍛え上げられた猛者のみがたどり着くことが出来る異次元空間。
マッスルワールドと呼ばれている。
色とりどりのこの世界で、男はひとり安どしていた。
「危なかった。もう少しで、父さんの天下が終わりを迎えるところだった」
つい先ほどまで、まさに男にとっては間一髪だったと言えるだろう。
後少し遅かったら彼らの栄光が断たれるところだった。
ここにたどり着いた人たちによって。
メガネをくいっと持ち上げ、哀愁漂う目で世界を眺める。
男は、命じられた任を成し遂げるのみ。私情は捨てた。決意は変わることはない。
そう、楽しそうに料理を振る舞うあの光景、賞賛に値する筋肉にも、何も感じてはいけないのだ。
「……だが、まだどうなるかはわからない。尚も監視していなくては」
ひと仕事終えた彼は、決意を新たにマッスルワールドから姿を消したのだった。
★
いつも通りの遅い、会社からの帰り道。
今日も残業までしっかり働いた俺は、やや足早に山手線高架沿いを通り帰宅する途中だった。
特段急ぐ理由は無い。ただ、明日も普通に仕事というだけだった。
ぎゅるるるるるるるーぎゅぎゅっとお腹が鳴る。
昼食以降何も口にはしていない。あぁ、美味しいご飯が食べたい。
そろそろ何か食べないとと空腹に耐えかねていたら、街灯に照らされた出店があった。
俺は空腹に耐えかねて、そこが料理屋であることを願って近づいた。
「いらっしゃーせー! 1名様。チャーハン800円になりやすっ」
声高々に店員が挨拶してくる。確かに、『筋肉チャーハンケンちゃん』と立て看板が置いてあった。
「ええ、いただきます。出来るだけ早く出してくれ。はい……800円」
「まいどっす。はいこれ水っす。……あにきっ、チャーハン一丁! おねがいしやすっ」
「ああ……わかった」
あにきと呼ばれた別の店員がゆっくり姿を現した。上半身裸で。
「はあ?」
俺は驚いて思わず声を上げた。
だが、店員はそれには何も感情を表さずに無表情でフライパンを握った。
「あにきっ、こっちで材料用意しまっす。存分に振るってください」
「ああ…………じゃあお客さん、俺の全力のボディビルショーを、楽しんでくれ」
「はいっあにきっ、ねぎっす」
「おう」
店員から空いている手でパックを受け取ったにいちゃんは、それをバッとフライパンに落として振るう。
「次っ!」
「あい、あにきっ。チャーシューっす。細かくしておきましたっす」
「あいよっ!」
バラバラと刻んだチャーシューを落とし、振るう。
「次っ! 卵!」
「了解っすあにきっ! ……卵っす! しっかり溶いたっす!」
「オッケーだ」
受け取った溶き卵をこぼし、振るう。止まることが無い。
「米だ! はやくっ!」
「はいっ、米っす! 水っぽくなくてあったかい炊きあがりの、最高の新潟県産っす」
「おう。ありがとな」
山盛りのご飯を投入し、ただひたすら、振るう。
じゅうううううっと盛大な音を立ててフライパンが振るわれ続ける。
先ほどからひっきりなしに働く上腕二頭筋が、まるでうなっているかのようだ。隆々たる腕力が成せる技か。
「調味料!」
「塩と胡椒っす」
「ういよっ」
用意された調味料を今もなお振られ続けるフライパンへと散らす。
空中に具材が舞う。にいちゃんの表情は真剣そのもので、腕を延々と動かし続けていた。俺はそれをただただ黙ってみていた。
「さあ、そろそろフィニッシュだ……」
ピッと音がしたかと思った次の瞬間、ひと際高々とチャーハンが宙に躍り出た。
そしてにいちゃんはフライパンを遂に置き背後を向いたかと思うと、両腕を回すように下から上にあげ、肩と腕が平行になったところで折りたたんでポーズを決めた。
「どーん……」
背中の鍛え抜かれた筋肉と、今までの苛烈な調理に活躍した圧倒的力こぶが誇示されていた。
その後ろ姿に、俺はにいちゃんの今までの努力が、喜怒が、そして悲哀が滲んでいるように感じた。かすかに震えているように見えて仕方なかったのだった。
「はいっ、おまちどう」
そうして迫力満点の筋肉を目に焼き付けた俺へと、散々振られ続けたチャーハンが用意された。
「どうも」
食べようとテーブルのレンゲに手を伸ばした時、
「我慢ならねぇ。耐えらんねえっすよ!」
突然横から店員の声がした。
「どうしてなんすかっ!」
店員は俺の肩を小突き、続けて胸倉を掴んできた。
「あにきがどんな気持ちか分かってんすか!? どれほど願ってることか! どれほど筋肉を鍛えてきたか! なあ、何とか言うっすよ頼むっすよ……」
尻すぼみの言葉をこぼす店員の表情は恐ろしい以上に辛そうだった。
「弟よ、もう、いいんだ……」
低いトーンでにいちゃんが喋る。
「良くないっすあにき! このままじゃダメなんすよ。このままじゃ! あっ!?」
揺さぶられる俺の視界はどんどんかすんでいった。目前の店員の顔の輪郭がぼやけて暗くなっていく。
俺は、何をすればいいんだ? 全く分からない。
何故店員は掴みかかった? 辛そうな顔をした?
料理を作ってくれたにいちゃんはどうしてあんなに物寂しそうに話すんだ?
何も分からず意識が遠のいていくが、揺さぶられて視界がずれてカウンター向こうにいたにいちゃんを捉えた。
途端、先ほどの雄弁な背中がフラッシュバックした。あまりに屈強で、だけど、悲しそうな背中。
何だってんだよ…………馬鹿野郎。お前には、その筋肉が信じられないのか?
信じてやれよ、筋肉を。己を。
「信、じろ……ナイス、バルク……」
俺は最後にそうつぶやいて、意識が闇に呑まれたのだった。
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