第4話 お好み焼きケンちゃん

いつも通りの遅い、会社からの帰り道。

今日も今日とて定時を遥かに超過した俺の心身はすっかりすさんでいた。

山手線高架沿いを、自宅へと歩く。

疲労が大分きついが、それ以上に空腹感が訴えてくる。

だが、この辺りに飲食店は無い。

家の近くのコンビニしかもう選択肢が無い状況となってしまった。

……また、コンビニの適当な弁当か。毎日はさすがにこたえるんだよなぁ。

そんなことを考えながら帰路を辿っていると街灯に照らされた小さな出店を見つけた。

ぎゅっぎゅうぎゅるぎゅるるるううううとお腹が鳴る。

何やら美味しそうな匂いも漂ってくる。

俺は期待してその屋台へと近づいた。

「くぅーっ、美味い! 最高だ」

先客が料理を食べていた。ソース、マヨネーズ、そして青のりをふんだんにかけられたこの料理はっ!?

「お客さんいらっしゃい。特製お好み焼き1枚1000円だけどいいかい?」

屋台の内側から店長とおぼしきにいちゃんに声をかけられた。

そのにいちゃんの頭上には『筋肉お好み焼きケンちゃん』と書き添えられた看板があった。やはりそうか、お好み焼きだ。

「ああ。もう腹減っちまってな。1枚頼む」

「あいよ、……まいどありー。少々お待ちを」

俺から1000円を受け取るのと引き換えに奥行きのあるカウンターに水を置くにいちゃん。その手前は鉄板になっているのだが、体格がデカいので苦ではなさそうだった。

俺は先客と横並びに座る。

すると、幸福そうにお好み焼きを食べていた先客が話しかけてきた。

「アンタも、この筋肉店の評判を聞いてやってきたのかい?」

「えっ、いや知らないですが。この屋台、有名なんです?」

「……そうかい。そいつは奇遇だな」

体格の細いおかっぱのその先客は、メガネをくいっと引き上げながら怪しげに口元をほころばせて説明する。

「ここは筋肉店の聖地さ。最高のショーが今から始まるぞ。ほら」

促されてカウンターに視線を戻すと、向かいににいちゃんが大きめのボウルを手にして立っていた。筋骨隆々な裸姿で。

「えっ!?」

何故か裸になっていることに驚いて声を出してしまったのだが、それは一瞬の事で、俺の思考はそれを当たり前だと結論付け、以降の追及はしなかった。

だが、なんだ、少し脈拍が上がった気がする。緊張している? どうしたことだ?

俺の中で生じたそれらは、しかしにいちゃんの次の一言で霧消した。

「お待たせしました。それでは、最高のボディビルショーをご堪能ください。特製お好み焼き!」

にいちゃんはボウルを指の腹で支え頭上高くに掲げてポーズをとる。

「何っ!? サービス、だと!? くうぅぅぅぅっ、あにき、粋な計らいじゃねえか! やべえよあの胸筋と腹筋! そこまで絞るには、眠れない夜もあっただろ!!」

隣の客が大興奮に語る。

俺は言葉が出てこなかった。

洗練されすぎた肉体美。目を見張るほどの大胸筋と腹筋。だがそれだけではない。肩や腕や指先までの全身がエネルギーを秘めている。一部の隙も無く、俺は咄嗟に言葉で言い表すことができなかったのだ。

……こいつは、マジで、やべえぜ。

それからにいちゃんはゆっくりと腕を下ろして中身を俺たちに見せてきた。

「特製生地の紹介だ。卵、プロテイン、キャベツ、ささみ、小麦粉、凄〇、長芋、そしてチーズだ。これを、混ぜるッ!」

状態はそのままに、にいちゃんは具沢山の生地をへらで混ぜる。俺たちの目の前で。腕を限界まで伸ばしているので、手首のスナップを利かせて器用にこなす。

「はあああああああせいっせいっせいっ」

前腕筋群が生き生きと舞い、上腕二頭筋と上腕三頭筋ががっしりと支えている。これだけで無駄のない動き。これだけでも強さの証明。これだけなのに顕現する美。鋭くしなやかな踊り。今ここに、サラスヴァティが降臨していた!

「さて、これでよし。さあ、鉄板に油を引いてっと」

一度両腕を引っ込め、手にしているへらを油の容器へと切り替えてつーっとたらし、新たにお好み焼き用のへらを手にして鉄板に油を行き渡らせた。

「生地を、広げていきますよ」

鉄板の中央に混ぜ終えた生地をこぼす。さーっと広げた後に綺麗な円になるよう形を整えていく。素早い両手のへらさばき。先ほどまでと打って変わり暴れる上腕二頭筋。そして三角筋。それらの源である大胸筋が合わせて脈動する。一瞬のうちに繰り広げられる舞が、あまりにキレている筋肉たちによって彩られていた。アカン、筋肉に吸い寄せられてまうがな!

「はいよおおおおっ、うぃ、少々お待ちを」

それからひと段落し生地に火が通るのを待つ間、

「うおおおおおっ、フロントリラックス! やってくれるな店長!」

休ませると思ったかお客さんと言わんばかりのフロントリラックス。正面から上半身全体の均衡を見せられて、俺たちの脳裏が侵食されていくようだ。なんだ、あのセパレーション。多すぎて数えられない。まだフィナーレはこれからやってくるというのに。笑っている。腹筋も胸筋も上腕二頭筋も笑顔で俺たちを迎えている!

そして、俺と隣の客が生唾を飲み込んだその時。

遂に待望の瞬間が訪れた。

「さあ、これが俺の全力だ。目に焼き付けてくれ」

にいちゃんは両手のへらをお好み焼きの下に忍ばせ、

「はいっ」

すっと持ち上げてややひねりを加えてひっくり返す。

そのまま流れるように弧を描き腕を上げていく。そして肘を曲げ手を頭の後ろへ。あまりに鮮やかな所作がスローモーションのように錯覚させた。

「……ずどーん!」

「でたあ! アブドミナル・アンド・サイッ! ひゅーこいつはやべえ!」

あまりの興奮で隣の客が立ち上がり大声を張り上げる。

「腕も胸もお腹もはちきれんばかりの筋肉! アッチャーアッチャー、ザバルダスト!」

せきを切ったように躍動する筋肉たち。

まず笑顔のすぐ下方におわす大胸筋。そこから連なる腹筋が完全に板チョコだ。

そして完全に爆発している上腕三頭筋。にいちゃんの笑顔の横で俺たちを惹きつけんとバリバリにキレている。あきまへん、あきまへんがな。

お前が、鬼神だ。

各筋肉の部位ひとつひとつが俺たちの目を離そうとしない。そう、俺たちが筋肉を見ている時、無数の筋肉もまた俺たちを見ているのだ。流石だ、ブラフマー……。

眼前で繰り広げられる生きた筋肉のお祭り。俺もそこはかとなく熱がこみあげてきて立ち上がった。

「これは……」

「ああ、これは……」

そして、俺たちふたりの最高の賛美がシンクロした。

「「ナイス、バルク!!」」

それからしばらくして、焼きあがったお好み焼きをお皿に移すにいちゃん。

「済まない。今日は鉄板越しだったから完全な筋肉が見えなかっただろう。俺の大腿四頭筋たちも泣いている。だから最後に、サービスだ」

にいちゃんは体ごと斜めに向いて左手にお好み焼きが乗った皿を持ち、もう片手でマヨネーズと、それからソースをしこたまかけていく。

「信じられねぇ……ちゃんちゃらおかしいぜ」

そうつぶやいた隣の客の表情はもはや確認できない。俺もにいちゃんから目が離せなかったからだ。だが声音で分かる。気持ちは同じだと理解している。

がっしりと構えた右手首のスナップのみで調味料が繊細に、しかし豪快にお好み焼きを彩っていく。全くブレないがピクピクと存在を主張する上腕三頭筋。そこに連なる前鋸筋、外腹斜筋が照り輝く。究極の美、生きた彫刻だ。一体誰が作ったというのだ。神か、神だ、いや、彼こそが神か。まさに、神技!

「最後に青のりを振りまき……はいっ、おまちどう」

そうして、俺の目の前には出来立てのお好み焼きが用意されたのだった。

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