第3話
石田に初めての依頼があったことを電話で告げた時、語尾に興奮を隠しきれなかったのを少し後悔しながら、依頼者の山田さんが言っていた住所の家へ向かった。今は午前十一時前。待ち合わせ時間より早く来たつもりだったが、もうそこには石田の姿があった。
「おお、石田早いな」
「依頼があったって聞いてすぐに飛び出してきたよ。ついに始まったな」
「まあね。着実にやっていくのが大切だから空回りするなよ。じゃあ、山田さんに着いたこと電話する」
依頼された時の電話番号を掛けなおすと、すぐにつながった。山田さんは声からして、高齢の女性のようだった。
「それでは、今、ドアを開けますので少々待っていてください」と言った後、少しあって家のドアが開いた。
「こんな暑い中、来ていただいてご苦労様です。さあさあ、中へ入って」
そういってドアを開けたのは、想像していた通りの優しそうな風貌のおばあさんだった。中に入り、ソファーに座るとすぐに冷えたお茶を出してくれた。彼女は一人暮らしをしているようだった。
「こんな年になっても不思議なものが好きでね。駅前で頑張っているあなたたちを見ていたら、依頼してみようかしらって思ったのよ」
「ありがとうございます。実は今回が初めての依頼なんです。ですから依頼をいただいたとき、すごくうれしかったです。それではさっそく依頼内容ですが、階段にこの光るカビを塗って頂きたいとのことですね」
「そうなの。私こんな年で、目も悪くなっていて、夜の暗いときに階段がよく見えなくて怖いの。足元を踏み外してしまったら危ないでしょう? 電気をつければいいのかもしれないけれど、暗いときに急に明るい光を見ると私、頭が痛くなっちゃうから。どうしようかと思っていたのだけれど、この光るカビでしたっけ?これを階段に塗っていただければ、ちょうどいい明るさで足元を照らしてくれるんじゃないかしら、と思ったの」
「そうですか。了解しました。少しでもお役に立てるのなら光栄です。それではその階段を見せて頂けますか」
俺がそういうと、山田さんはゆっくりと椅子から体を起こし、少しよろよろとした足取りで、階段のほうへ向かった。確かにこの足腰で見えにくい階段を使うのは怖いだろう。自分が役に立ててよかったと思った。
「こちらです」
「わかりました。この階段の端に一段ずつ塗っていく形でよろしいですか」
「はい。それでお願いします」
「えーっと、ここの塗装が剥げていますが」
階段の中ほどの一つの段に端の塗装が剥げているものがあった。
「ああ、これですね。私、この光るカビを知る前に、階段の足元を照らすために、蓄光シールってものを階段の端に貼っていたの。昼間に光が当たった分、夜に光るというものなのだけれど、ここの造りだと昼間に日光が当たらないの。それで夜によく光らなかったから、剥がしたのだけれど、上手くできなかったみたいで、階段の塗装まで剥がれてしまったわけなの」
「そうなんですね。では、この光るカビで覆って極力目立たないようにしておきます」
「ありがとうね」
「いえいえ。お役に立てて光栄です」
「それじゃ頑張ってね」
そういうと、山田さんは居間に戻って椅子に座った。
それから俺たちは、階段の端に、糊で光るカビを塗っていった。塗装の剥げた部分には特に注意して塗った。
「終わりました」
俺たちが山田さんに言うと、山田さんはとても喜んだ様子で「ありがとう」と言い、予定していた代金よりも少し多めに支払ってくれた。「お昼、食べます?」と言ってくれたがやんわりと断り、家を後にした。
「なんか俺たちいいことしたな」
石田が帰りがけにつぶやいた。
「なんかいい気分だよな。ていうかお前全然しゃべらなかったよな。なんで?」
「いや、俺丁寧にしゃべるの苦手なんだよ。お前はそういうの得意だよな。だからあんまり出しゃばらないでいようと思って」
「そっか。確かにそうだね。これからは俺がそういうのやっていくよ」
「お願い」
「あと、思ったよりカビ使うんだな。カビもっと増やしていかないとだめみたい」
「そうだな、風呂今使ってないけど、温水流したりして湿気増やしとく」
山田さんの依頼を皮切りに、いくつかの依頼が入った。その依頼のどれもが俺たちが考えていなかったようなユニークなものだった。
例えば、子供部屋の天井に光るカビで絵を描いてほしいというものがあった。寝るときに、天井に光る絵が描いてあると面白いからだという。その時は石田が持ち前の絵のうまさを発揮し、その部屋を使う男の子の、好きなヒーローの絵を描いた。絵をかいてもらった男の子はとても喜んでいた。
また、チラシ配りのほうも、空いている時間があればやっていた。石田が最初に印刷した五百枚のチラシはすべて配り終わっていた。
十件目の依頼だっただろうか。その日も光るカビの仕事をしてちょうど帰る時だった。俺たちはオレンジ色の夕陽に達成感を感じていた。
「大丈夫だろその程度の怪我。なめてりゃ治るよ」
この日の依頼は、家の壁に光るカビを塗ってほしいというものだった。クリスマスの時期に行われるイルミネーションのようなものだろう。その時に、はしごを使ったのだが、足を踏み外して、少しすねをすりむいていた。依頼をした家族は怪我をとても心配してくれたが、そこまでの怪我ではなかった。
「なめるって、すねをか? おれ結構身体固いんだよ。まあこの程度の怪我、どうってことないけどな」
「それでこそ男だ。それにしても達成感あるね。依頼してくれた人すごく喜んでくれるし。お金もそれなりにね。……でもさ。なんか思ってたのと違う感じもある。俺、このカビすごく面白いから、もっともっと広がっていくかと思ってた。なんか、テレビでインタビューされる妄想とかもしてた。でも実際はまだ依頼が十件とかだろ。やっぱり、チラシだけじゃ宣伝の効果が薄いのかな。なんか面白い宣伝方法考えとく」
「確かにチラシだけじゃ宣伝効果が弱いのはあるかもしれない。俺も考えとくよ」
俺自身、期待に対して現実は物足りないと思っていた。俺はオレンジ色の夕陽に現実の哀愁を感じ始めていた。
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