第10話 「結ばれる手、そして静かな約束」
ダンジョンを徒歩で脱出しようと思うと、そう簡単にはいかない。ダンジョンの各階層は広大で、道を知っていて順調に進めたとしても、一つの階層を行き来するのに最低二時間はかかる。ましてや脇道の深層、しかも意識がない人を連れて数時間で地上に帰ってくることなど通常ならば不可能だった。
彼女の質問に彼は一瞬キョトンとしたものの、すぐさま意味を理解する。
「ああ、そうだな。確かに普通は知らないよな」
少年はそう言うと、パンを取り出したカバンを漁り、一つの指輪を取り出す。
それは大豆ほどの乳白色の石が二つ付いたもので、シュベルツガルムの二十階層まで潜ったことがある彼女でも初めて見るものだった。
「それは?」
「これが、君と俺を地上に戻してくれたアイテムさ」
「……?」
意味が分からないというような彼女に、少年は優しく笑う。
「君は帰還の指輪、通称リバースリングを知ってるよね?」
「当たり前でしょ」
帰還の指輪、通称リバースリング。
シュベルツガルム二三階層でのみ採取することができる双子石という一対の石で作られた指輪型の
まず一つに双子石は周りに多くの同じ石があると影響を受けて発動しないことがしばしばあるということである。厳密には半径三十メートル以内に七つ以上の双子石が存在すると、発動に支障をきたしてしまう。ゆえに、冒険者のパーティーはレイドを組む場合を除いて、原則六人以下でパーティーを組まなければならない。
そしてもう一つの問題が、帰還させられる人数である。
リバースリングはその性質上、指輪を身に着けている本人しか移動させることができない。自分以外の人間を帰還させることはできないのだ。ゆえに、冒険者は必ず一人一つ、自分の指輪を所持しているが、ダンジョンで爆睡した少女は持っていなかった。それに、持っていたとしても意識がない状態では使えない。
つまり……。
「帰還の指輪以外で地上に戻ってきたの?」
少女の答えに、少年は悪戯っ子のような笑みを浮かべる。
「半分正解で、半分間違い」
「……?」
「帰還の指輪は使ったよ。でも材料が違う」
「材料?」
不思議そうにする彼女に、少年はベッドの隅に腰を下ろし、先ほど取り出した指輪を見せる。
「帰還の指輪の材料となるのは二つで一つになっている双子石を使うだろ? それを地上とダンジョンに分けて使ってる。つまり、双子石の片方しかないから、一人しか地上に運べないんだ。じゃあ、二人を運ぶためにはどうしたらいいと思う?」
「その理論だと、ダンジョンに二つの石があればいいんじゃない?」
「その通り。だから俺が使ったのは双子石の指輪じゃなくて、三つ子石の指輪なんだよ」
「はぁ? バカじゃないの?」
「えぇ……」
「だってそうでしょ? 双子がダメなら三つ子って……。どう考えても単純すぎるわ」
彼女の言葉に少年はしばらく腕を組んで考えるが、
「世の中なんてそんなもんだろ」
きっぱりとそう言い切った。
「そんなに難しく考えてもしょうがないだろ。なってるもんはなってるんだよ」
「はぁ……」
そのバカすぎる回答にため息が出た。
確かに理解はできる。理屈も分かる。
だが、アホすぎる。
世の中がここまで単純なら、自分がこんなに苦労する必要も、苦しむ必要もなかった。
「ほかに質問は?」
「……じゃあ一つだけ」
「どうぞ」
「どうしてそんなに便利なものを、他の冒険者は使わないの?」
ここが一番分からない。
双子石は所有者しか帰還させることができず、さらに発動は本人にしかさせられない。これによって多くの冒険者が命を落とした。
原則、ダンジョンに潜る時は帰還の指輪の所持が義務付けられている。しかし、こと戦闘ではそう簡単には使わせてもらえない。意識を奪われたり、紛失したり、状況は様々だが、もし彼の持っている道具を使えたならば、救えた命は多かったはずだ。
だから……。
少女は密かに体を強張らせる。
だが、そんな少女の状態に気づくことなく、
「そんなの知らないからに決まってるじゃないか」
少年はあっけらかんとそう言った。
――ああ、やっぱりね……。
諦めにも似た安堵が、固くなった少女の体を
冒険者は、他の冒険者と競争している。言わば、冒険者にとって他人は助ける対象ではなくライバルなのだ。もちろん、強敵やボスと対峙したときは共闘することもある。しかし、それは次のステージに行くための通過点だ。
珍しいアイテムを誰よりも早くゲットし、誰よりも早く深層に到達する。そのためにはお金を稼ぎ、強い武器を手に入れなければならない。
そんな
それがこの世界でいう
――腐っても、冒険者ってことね。
もし彼が、自分の思っているような人物だったとしたら、もしかしたら、今の強い自分のままではいられなくなっていたかもしれない。
でも、もう誰も信じたくなかった。
誰のことも知りたくなかった。
だから、彼が自分の知っている冒険者であってくれたことに、安堵する。
最低で、最悪で、自分のことしか考えてない冒険者でいてくれたことに、安堵する。
しかしそんな彼女の悲しい安堵も、すぐに打ち砕かれる。
彼の言葉はそれで終わりではなかった。
「だって、知ってても使えないからな」
「えっ?」
予想外の言葉に、彼女は思わず聞き返してしまう。
「どういうこと?」
「双子石は同じ石に影響を受けるだろ? この三つ子石も似たような特徴があって、この石は
「は、はぁ!? つまり
「そういうことだね」
意味が分からなかった。
そんな
――狂ってる。
確かに、
例え二人同時に帰還できたとしても、メリットよりもデメリットの方が大きくなってしまう。
そんな欠陥品を使うのなんて、目の前に座っている狂人くらいのものだ。
そこまで考えたとき、新たな疑問が頭をよぎった。
「でも……使えないんだったら、隠す必要もないんじゃないの?」
「それもできないんだよ」
少年は悲しそうに小さく笑いながらも、しかしキッパリとそう否定した。
「昔同じように考えて、三つ子石のことを話したらしいんだ。そしたら何が起こったと思う? その情報を知った冒険者たちは、自分のパーティーで一番等級が低い仲間の
「…………」
「……ひどいよな。でもだからこそ、その
「そう……。なんかごめんなさい」
「君が謝ることじゃないだろ」
彼はそう言うが、少女には目の前の男の子の顔を見て、そうは思えなかった。
悲しそうな、それでいて寂しそうな、そんな顔。
ほかの人が見れば無表情だと言うだろう。それでも、少女には分かった。
彼は誰よりも傷ついているのだと。
今彼は、見ず知らずの誰かのために、涙を流しているのだと。
昔、彼に何があったかは分からない。
もし自分に出来る事があるのなら、してあげたい。
でも……。
――私なんかに何が出来るっていうのよ。
彼女は固く目を瞑り、そう自分に言い聞かせ、後ろ髪を引かれる気持ちを押し殺して立ち上がる。
「私は……もう行くわ。…………パン、ごちそうさま」
そう言って、自分の荷物を持ち、部屋の出口へと向かう。
これでいいのだ。
自分に出来ることなど何もない。
これ以上、彼にかかわってはいけない。
もしかしたら、彼は今まで出会ってきた人たちとは違うのかもしれない。
それでも、自分は彼を信じることができない。
信じたくない。
――だって……。
その決意にも似た思いを抱き、少女はドアノブに手を伸ばす。
しかし、それを止めたのは他ならぬ彼だった。
「ちょっと待てよ。一人でどこに行くつもりだ?」
「決まってるでしょ。――あの脇道に戻るのよ」
振り向かず、そう冷たく言い放つ彼女に、少年はなおも言葉を投げる。
「一人でか? 無謀だ。死にに行くようなものだぞ?」
「……あなたには関係ないわ」
「どうしてそこまであの脇道にこだわる?」
少女は後ろを振り返り、少年を見る。
そこには透き通った、それでいて力強い、ブラウンの綺麗な瞳があった。
「あそこには……。あの脇道には、私の大切なものがあるのよ」
「大切なもの?」
「ええ。私がパーティーにいたときに使ってた武器がある。あれは私の相棒で、私自身で……。私が私で居続けるために必要なものなの」
少女はもう一度、少年の瞳を見つめ返す。
「だから、誰になんと言われようとも、私は行くわ」
「死ぬとしてもか?」
「……ええ」
固い決意と、確かな覚悟。
その思いに、今まで真っすぐに見つめていた少年が下を
そして。
「はぁ……」
大きなため息。
「変人で、それでいてとてつもなく頑固だな」
「あなたに言われたくないわ。それに、誰にも迷惑をかけてないんだから、別にいいでしょ」
少女はそれだけ言って、少年に背を向け扉を開ける。
この部屋から一歩でも踏み出せば、彼とはお別れ。
これでいいのだと自分に言い聞かせ、足を踏み出そうとしたその時、
「ああ! クソっ!!」
突然の大きな声に、思わず後ろを振り返る。
そこには頭を掻きむしる少年。
「……ほっとけるわけないだろ」
小さく呟かれたその言葉は、扉の前にいる少女には届かない。
それでも、真っすぐに見つめられたその瞳で、少年が次に何を言うのか、彼女には分かった。
だから。
「ダメよ。私はあなたと一緒には行かない」
「どうして?」
「私はあなたのことを信用してない。それに、行く理由がない」
「信用はしなくていいし、行く理由ならある」
「……?」
「俺もあの脇道には用事があるんだ。かれこれ一か月半は潜ってる。もし効率よく潜るなら、道案内がいるだろ? ソロなら特にな」
確かに彼の言う通り、ソロなら効率よく潜る必要がある。
モンスターに出会う回数が多くなればなるほど体力を消耗し、生存率は低くなる。特に自分の武器を持っていない今ならなおさら。
でも、一つ分からないことがある。
「どうしてそこまで……」
単純な疑問。
しかしそれゆえに、
「決まってるだろ。知り合った人間を、みすみす見殺しになんて出来るわけない」
単純な答えが返ってきた。
彼女は彼の言葉に目を丸くして驚くと、次の瞬間には笑ってしまっていた。
「ふふふ」
バカだ。
本物のバカがいる。
ダンジョンでは自分の命が一番で、他人の命など二の次だ。それこそパーティーですらない人間なら特に。
でも彼は、知り合った人間が死ぬのは嫌だと言った。
見殺しにはできないと。
そんなお人好しがまだ生きていることに、少女は嬉しさとバカらしさを覚える。
「な、なにがおかしいんだよ」
「別に」
涙を拭いながらそう投げかけた彼女の言葉は、心なしか最初よりも柔らかい。
「いいわ。あなたと組んであげる。でも、私が武器を取り戻すまでの臨時よ。それでもいいの?」
「もちろんだ。俺はソロが好きなんだ」
「そうやって言う割には、お節介なのね」
と、言いたい気持ちをこらえて、また小さく笑う。
「だ、だから何だよ」
「別に。なんでもないわ」
彼女はもう一度涙を拭って、開けた扉を閉めドアノブから手を放す。
「じゃあ自己紹介でもしましょう。臨時とは言え、私たちはパーティーになるんだから」
少女は少年の前に立ち、真っすぐ彼の茶色い瞳を見つめる。
そして。
「私はイチカ。ただのイチカよ」
差し出される小さな手のひら。
少年は一瞬呆けたが、意味を理解すると静かに笑って、それを握り返す。
「俺はミナト。ただのミナトだ。短い間だけど、よろしく」
交わる視線と固く結ばれた二つの手。
知らない世界の大きな街、その中の小さな家の小さな部屋で結ばれた、微かな約束。
この約束がどういう結末になるのか、神が存在したと言われるクトーリアでも、知る者はこの時誰もいなかった。
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