第1章 『一人と一人の出会い』

第1話 「暗闇、そして深淵」

 目を開けると、そこは暗闇だった。

 一つの明りすら存在しない、完全な闇。

 何も見えず、何も感じない。

 ここはどこで、なぜこんな所にいるのか?

 俺は記憶を順に辿っていく。


 いつも通り高校から帰ってきた俺は、まず学校指定の学ランから部屋着に着替え、宿題に手をつけた。それが半分ほど片付いたところで夕食と入浴を済ませ、宿題を再開する際に食べる夜食を買うため、近くのコンビニに行ったはずだ。

 そして店に着いて自動ドアが開き、そこに足を踏み入れた瞬間、ここにいた。

 なんの前触れもなく、この暗闇に溶け込んでいた。


――どういうことだ…………。


 とにかく何かの情報を得るため、俺は周りを見渡そうと身をよじったその時だった。


「わっ!」


 俺の肩が誰かとぶつかり、その方向から女性の声が飛んでくる。

 まさか自分以外に人がいるとは思わなかった俺は、声すら上げられずにただ驚くことしかできない。

 しかし驚くことはこれだけじゃなかった。


「誰かいるのか?」


 後ろの方から今度は男性の声が飛んでくる。

 そしてそれを皮切りに、周りからも次々と声が上がった。


「もしかして他にもいるのか?」

「ここはどこなんだよ!」

「誰でもいいから教えてくれ」

「まずは状況を説明しろよ!!」


――一体何人いるんだ!?


 それらの声は反響し、具体的な人数は分からない。

 しかし全て自分と同い年くらいの若者の声で、男女関係なく大勢いる。

 ここは一体どこで、どうやって集められたのか、何故集められたのかをこの場にいる誰も分からないようで、次第に彼らの声が大きくなっていく。


 そして、

「ここはどこなの!!」

「誰か答えろよ!」

「おうちに帰りたい!!」

「助けてぇ!」

 パニックが起こった。


 それぞれが叫び、動き出す。その密度から誰とも分からない人と体がぶつかる。

 これはまずいと思ったとき、誰かが声を上げた。


「もういい! 俺は行くぞ!! こんな所に居てもどうにもならないからな!」


 少し高く、何故か自信に満ちたヤンチャそうな若い男の声。

 クラスに一人はいるイケイケの奴だ。


「俺についてくる奴はいるか?」


 何も見えない状態で、どこに行くんだろうという疑問を挟む余地などなく、そいつの呼びかけに賛同の声が上がる。


「俺も行くよ」

「私も……」

「俺も」

「ここに居ても仕方ないしな」


 この後も続々と声は集まり、まるでそれらの声がこの場にいる全員の総意かのような空気が生まれる。


――まずいな……。


 今自分たちがどこにいるのかも、どんな状況なのかも分からない。

 そんな状態で動くのは危険だ。

 俺は何度か、父さんと登山をしたことがある。その際父さんから言われたのは、遭難したら安全を確保して現在地から動くな、だった。

 ここは山ではないが、それでも周りの状況が分からないという点では一緒だ。

 声の反響からして建物内だということ以外、何も分かっていない現状では動かないことがベストだろう。

 俺は場の空気を壊すことに躊躇〈とまど〉いを覚えつつも、恐る恐る口を開く。


「ちょ、ちょっと待って!」


「あぁあ?」


 ドスの効いた声。さっきの男だ。

 闇の向こうでそいつがこっちを振り向いたのが分かる。


「誰だよ、お前」


 誰?

 誰って……。

 あれ?

 俺は…………誰だ?

 どこで生まれて、どこで育ったのかは分かる。

 親の名前も、妹の名前も分かる。

 自分の名前も分かる。ただし、半分だけ。

 苗字が分からない。


 たかが苗字だ。忘れて困るものでもない。それでも、自分の半分だ。

 今の状況で忘れるはずのないそれを思い出せない俺は、頭が混乱する。

 しかしその混乱を打ち払ったのは、皮肉にもヤンチャ男の声だった。


「おい! 聞いてんのかよ! 俺が質問してんだぞ!!」


 お前こそ誰なんだよ、と問い返したい気持ちをグッとこらえ、俺は負けずに口を開く。


「そ、そんなことどうでもいいだろ。それより、今の状態で動くのは危険だ! 周りがどうなっているのかも分か…………」


「もういい!」


 そいつは口をはさみ俺の言葉を遮ると、不機嫌そうに怒鳴る。


「名前も名乗れない奴に何も言われたかねぇよ! チームの輪をみだしやがって。そんなに残りたきゃ、ずっとここにいればいいだろ!!」


「…………」


 そいつはそう言い放つと、行くぞと声が聞こえ歩き出そうとする。

 その時だった。


「あんちゃん、そいつの言う通りだ。むやみに動くのは得策じゃない」


 少ししゃがれた声が聞こえたのと同時に、ヤンチャ男の声が聞こえた方とは反対側から暖色系の光が差す。

 扉だ。

 俺たちが立っている場所から離れたそこから、眩しいほどの光が差し込み、真っ暗だったこの場所を明るく照らす。

 逆光でハッキリとは分からないが、扉の前には確かに誰かが立っていた。

 声や体格からして、中年の男だろう。

 その人物はカシャカシャと金属音を響かせながら、こちらに近づいてくる。


「いやいや、すまなかったな。色々用事を片付けてたら、少し遅れちまった」


 言葉とは裏腹に全く悪びれた様子のない男に、ヤンチャ男が声を荒げる。


「お前誰だよ! 最初に名乗るのが礼儀ってもんだろ!!」


「落ち着けよ、あんちゃん。冷静さは、時に強さよりも大事だぜ。周りを見てみろよ」


「訳わかんねぇこと言ってんじゃ…………ひっ!?」


 尻餅を着く音が聞こえる。


「やっと分かったみたいだな。自分がどういう状況で、何をしようとしていたのか」


 男の声に俺は周りを見渡し、そして理解した。

 丸みを帯びた途方もなく高い天井に、綺麗な彫刻が施されているいくつかの太い柱。壁は均等のとれた傷一つない石のレンガで作られており、その雰囲気からどこかの神殿を彷彿とさせる。しかし、美しいそれらなんてかすんでしまうほどものが、ここにはあった。


 溝。


 いや、溝というにはあまりにも深く、そして大きい。まるで崖だ。

 目視では底が見えないほど深いそれは、俺たちが立っている円形の足場をぐるりと囲むように存在し、男が入ってきた扉に続く道以外に逃げ場はない。しかもかなりの幅がある。その崖は俺たちが立っている足場から壁まで、少なくとも十メートルから十五メートルは続いてた。

 こんな所を暗闇の中歩いたならば、簡単に飲み込まれてしまうだろう。

 その事実に、パニックが再来する。


「あんた誰なんだよ!!」

「ここはどこなんだ!」

「何のためにこんなことするの!!」


 好き好きに叫ぶ群衆。

 しかし男は何も言葉を発しない。

 俺はそれに違和感を覚え、吸い込まれそうな深淵から男へと目を移す。

 銀色の鎧に身を包み、顔には鉄仮面。

 全身フルプレート姿で腕を組む男からは、表情はおろか人間らしい雰囲気すら微塵も感じられない。


 恐怖というものは人から人へと伝染し、拡大していく。今回も例外ではない。群衆の声は次第に大きく強くなり、そしてこれ以上ないというほど興奮と恐怖が絶頂にたっしたその時、フルプレートの男は思いっきり手を打ち鳴らした。

 誰のどの声よりも大きく、まるで教会の鐘の音のように建物内に響き渡るそれ。

 その音は混乱も興奮も恐怖も、これら全てを強制的に押し殺すような絶対的な響きだった。

 男は静まり返った俺たちを見て満足すると、腕を組み口を開く。


「突然こんなことになって、混乱している気持ちも分かる。ここがどこで、俺が誰なのか気になるというのもな。だが、ここで答えるわけにはいかない。こっちにも色々と事情があってな。もし、ここがどこで、俺が誰なのか知りたい奴は、ついてこい。全てを教えてやる」


 男はそれだけ言うと、回れ右をして扉から外へと歩き出す。

 もう誰も口答えしない。

 俺たちはただ、足を動かしその男の背中に続いた。

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