第79話 なーんてな、気にしないでくれ

 梓先輩は椅子から立ち上がると、食器と箸を片付けてくれた。

 わたしが水で風邪薬を飲んでいると、梓先輩は食器を洗いながら言ってきた。

「俺、そろそろ帰るけど、部屋に戻ったらひたすら寝ろよ」

「えっ!? か、帰っちゃうんですか……?」

 思わず振り返ると、梓先輩は逆に驚いたような、戸惑ったような顔をした。

「いや……あんまり長居されたら疲れるだろ?」

「そんなことないですっ! むしろいてください!」

「…………」

 わたしの言葉に梓先輩は目を見張って、茫然としてしまった。

 せっかく来てくれたのに、このまま帰したくない。

 小さい頃みたいに一人ぼっちの部屋に閉じ込められたくない。

 もっと、梓先輩と一緒にいたい。

 梓先輩の目を見つめてわたしは強く願ったが、梓先輩は戸惑うばかりだった。

「胡桃沢……お前、何かあったのか?」

「えっ?」

「さっきから変だぞ。LINEのメッセージだって、なんかこう、しんどそうだったっていうか」

 首をひねる梓先輩に、わたしは思わず顔を火照らせてしまった。

 LINEのメッセージは完全に誤送信だ。

 梓先輩に送る気など全くなくて、アイコンを間違えるという凡ミスをやらかしたのだ。

「ご、ごめんなさいっ! あのLINEはごそうしんなんです!」

「だとは思ったけどよ。タメ語だったし」

「すみませんでした……」

 わたしが頭を下げると、食器を洗い終えた梓先輩は言ってきた。

「親御さんだって、帰って来て急に俺がいたらびっくりするだろ」

「きょう、かぞくはおそくまでかえってきませんよ」

「はあ? 風邪の娘を置いて遅くまでどこ行ってんだよ」

 信じられない、言わんばかりの梓先輩にわたしはギクッと身震いした。

 梓先輩はわたしの姉が『胡桃沢ベアトリーチェ』だと知らない。

 というか学校でわたしは『一人っ子』で通している。だから誰もわたしに姉妹がいる事を知らない。

 知らないのだから、梓先輩の反応は当然なのかもしれない。

 わたしは必死に言葉を濁して説明した。

「わ、わたしがいってきてっていったんです。きょう、しんせきのはれぶたいで、みんなでいこうってはなしていたんですけど。わたし、おぼんのあたりからたいちょうわるくて……」

「あー、そういう事か」

 とりあえず梓先輩は納得してくれて、わたしは胸を撫で下ろした。

「とりあえず、部屋戻るか」

 梓先輩が呟くと、わたしは梓先輩に支えてもらいながら部屋に戻った。

 ベッドに潜り込むと、梓先輩は帰ってしまうのかと思った。

 だけど梓先輩はベッドの傍らに座りこんで、携帯端末をいじり始めた。

「かえらないんですか?」

 思わず尋ねてみると、梓先輩は不愛想に告げる。

「気が変わった。夕飯の時間くらいまでなら、いてやるよ」

「ど、どうして……?」

 さっきまであんなに遠慮がちにしていたのに、どうして急に気が変わったんだろう。

 嬉しい反面、わたしは不思議に思っていると、梓先輩はぶっきらぼうに答えた。

「お前、夏風邪拗らせてるんだろ? 家族も遅くまで帰って来られないんじゃ、そりゃあんなLINEも打ちたくなるよな」

「うッ……すみませんでした」

 今思い返しても、悶えてしまうくらい恥ずかしい。

 わたしが布団を上げて真っ赤になった顔を隠すと、梓先輩は当然ように告げた。

「だから、一緒にいてやる。なんなら、寝付くまで手も繋いでやるよ?」

「…………」

「ふっ、なーんてな。悪ぃ、気にしないでくれ」

 梓先輩は冗談のつもりだったのかもしれない。

 だけど一度、胸に芽生えた小さな期待は、わたしを突き動かすのには十分だった。

 わたしはベッドから右手を出して、梓先輩にねだった。

「……にぎっててください」

「は?」

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