第61話 アイスランドのクジラ

 わたしたちが泊まる旅館は湯畑から五分以内の所にある。

 そよ風が涼しい夜の中、路地を抜けるとライトアップされた湯畑が見えた。

 青いライトに染まる湯けむりがどこか妖しく、幻想的な雰囲気を醸し出している。

「うわあ、綺麗ですね!」

 昼間とはまた違う、神秘的な温泉街にわたしは無邪気にはしゃいだ。

 梓先輩も感心したように呟く。

「すげぇな……煙が真っ青だ」

「ですねー。なんだかナイトクラブみたいな感じしません? ライトの色とか」

「ふっ、なんだよそれ」

 梓先輩は可笑しそうに小さく笑った。

 ヘアバンドを外して前髪を下した梓先輩は、普段より少し幼い印象だった。しかも浴衣だからものすごくレアな姿を見ているかもしれない。

 記念に写真撮りたいかも……、わたしは見惚れていると梓先輩は照れたように目線を伏せた。

「……なんだよ」

「いいえ、なんでも」

 わたしは何事もなかったように答えると、本題に入った。

「梓先輩、そろそろ教えてくれてもいいんじゃないんですか? まさか夜景に付き合え、って事じゃないですよね?」

 わたしの言葉に梓先輩はまた黙り込んでしまった。

 しばらくライトアップに染まった湯けむりを見つめると、やっと切り出してきた。

「少し、長くなるけど……いいか?」

「はい」

 わたしがはっきりと頷くと、梓先輩は歩き出しながら昔話をしてくれた。

「そもそも俺、編み物を始めたのが小一の冬くらいなんだよ。クジラを見に行こうってアイスランドに旅行に行ったんだけど、死ぬほど寒いわ、時差のせいで眠いわ……。俺はそんな乗り気じゃなかったんだよな。だけどリアルのクジラを見たらめちゃくちゃ感動しちまって……。で、俺の母さん、けっこう有名な編み物作家なんだけど、母さんもクジラに感動したらしくて、まあまあデカいクジラのあみぐるみを編んだんだよ。しかも旅行中に」

「ええっ!? 道具とか持ってたんですか!?」

「まあな。さすがに材料は足りなくて現地で買ってたけどよ」

 さ、さすが梓先輩のお母さん……旅行中も編み物なんて。

 DNAだなー……、と感心していると、梓先輩は懐かしそうに続ける。

「その頃は編み物なんて何とも思ってなかったけど、クジラとは別の意味で感動したなぁ……。めちゃくちゃリアルだったんだよ、そのクジラのあみぐるみ。気付いたら俺もやったみたい、って思うようになって冬休みの宿題の作文に書いたんだよ。ちょっとやってみたらすげぇ面白くて、どんどんのめりこんだなぁ」

「へぇー……素敵な思い出ですね」

「だろ?」

 梓先輩は嬉しそうに頷いたけど、すぐにどこか悲しげに目を伏せた。

「冬休みが明けて、意気揚々と作文をクラス皆の前で読み上げたんだよ。そしたらクラスの女子が……『キモい』って言ってきてさ。あの顔、今でも忘られねぇよ……」

「…………!」

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