第5話 チンパンジーとゴリラ、繋がる

樹々を物凄い速度で腕を振って渡ったり、小動物を手当たり次第に喰らったり、沼の水を啜ったり、高木の頂きに実る特別に甘いバナナを口いっぱいに頬張ったり。チンパンジーはこれまでのストレスを猛烈な勢いで発散していった。腹を満たし、森を縦横無尽に飛び回り、そしてまた腹を満たす。なんの不足もない。あるのは、ただ無限に有る生。しかもそれを自分は、捥ぎ取って糧にしていいのだ。チンパンジーはこんなにも解放というものが心地良いことを今はじめて知ったのだった。同族の群れは面倒くさい。雄は単に、ただ発情期の時に特別な遊びをするパートナーだ。それ以上でも、それ以下でもない。そういえば、この尻。もうだいぶん膨れてきた。


太くも細くもない木の枝に身を横たえて、チンパンジーは木陰でサバンナの時の移ろいを楽しんだ。そら、鳥が鳴く。あれは獲物を知らせる声だ。そら、蝶が舞い落ちてくる。チンパンジーは腕を空に掲げる。くらりくらりと踊る、黄昏の模様をした蝶。チンパンジーはそれをぱし、と両手で捕らえた。そして翅を指でつまんで、眼前にぶら下げてみた。

なんかこの蝶、あいつの頭の模様に似ている。

あいつ。深く静かに眠っていたゴリラのぼこぼことしたいかつい額の画像が、どうしてか脳裏に過る。そして、それは頸椎を下り、チンパンジーの胸をざわつかせた。

あいつ、今頃起きてたら、一体どうするのかしら?

チンパンジーは、これまでの日々の中で見たゴリラの神経質な仕草を思い出して、心配になった。食べ物を手渡す時の、繊細な指の動き。脇の下をしゃっしゃっとかいた後は、いつもさっと身を捩る。ただ座っていても、いつも何かを、もうすぐに来る何かを待っているみたいに鋭敏に眼球を動かしていた。かと思えば無意味に洞穴の中で立ち上がり、項垂れて呆然としている時もあった。そして私に抱く崇拝のような欲情をまるで隠せていないまま、私と腕を寄せ合って器用に眠った。

あいつは、私のことが相当好きだ。けれど、私に対してあまりに神経を使いすぎている。あれじゃあ、心のリズムが滞ってしまうわよきっと。

やれやれ、とゴリラの苦悩を小馬鹿にしてみせて、チンパンジーは指でつまんだ蝶を容赦なく喉の奥まで押し込んだ。脆い脚と触覚は精一杯にもがき、美しい翅は濡れながら頬の膜に張り付いて破れた。徐々に弱っていき、蟻二匹ほどの頭がコリッと音を立てた時、蝶はただのほろ苦いおやつになった。 

サバンナの時は、ただわずかに傾いだだけであった。

その時。


「キイイイーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!」


遠く、森の端のほうから、甲高い叫び声が聞こえた。同族の声だ。チンパンジーは瞬時に理解した。聞き分けた声の中には、覚えのあるものも紛れている。つまりあれは、私が以前居た群れの鳴き声だ。

チンパンジーは身体を起こし、その方角をひたと見つめた。楽しそうな声だ。遊んでいるのだろう。

遊んでいる?

はて、何か、かつて強い執着に囚われていたような。そんな曖昧な感情の霧が、むっと立ち込めた。あの群れに帰りたい?いいや、別に。あの群れの仲間に会いたいか?いいや、別に。じゃあ何かほかに、彼らに執着する理由はあったか?霧は濃くなり、ますますチンパンジーの記憶を霞ませる。けれどその中に、どうしてももう一度触れたほうがいいものがあるような気がしている。チンパンジーは脳を探る。あちらこちらにゴリラの面影が浮かぶのを振り払い、脳の深いところまでさまよってゆく。そして、見つける。ただの、虚無を。そして、ただの、記憶を。


『我が子を殺された』


ああ、そういえばそうだった。チンパンジーは記憶を思い出したことに満足した。そういうことは、たまにすることだ。我が子を殺された後、私はその成れの果てを喰らった。殺された直後は確かに憎悪に囚われた。けれど、時の万能さにはかなわない。忘却の力は何にも勝って強いのだから。チンパンジーにとって、(そしてチンパンジーだけではない様々な種にとっても)忘却は全ての類の記憶に平等な支配者であった。

私はもう、あれらには全く関心がない。チンパンジーは再び、木の枝に横たわった。

が、祭りのような叫び声はすぐに止んでしまった。それも、なんの前触れもなく。しいんと、静まり返るかたちで。そんなことは、異常だった。チンパンジーはすぐにまた身体を起こした。何かが、起きた?

「ギイッ!?ギイイッ」

刹那、鈍く呻くような声が聞こえた。次に敵の警戒を示す声がほんの一瞬生まれたかと思うと、すぐに消えた。まるで、瞬時に殺されたかのように。いいや、その通りなのだ。瞬殺されたのだ。あの、私がよく知る強靭な肉体に。

「ヴァアアア!」

そして、咆哮が。野太く歪んだ、野蛮で凶暴そうな咆哮が、森を震わせ、天を貫いた。そしてチンパンジーは確信した。ゴリラは起きたのだ。そしてチンパンジーの不在に焦り、森の奥深くまで疾走したのだ。その途中でチンパンジーの群れに遭遇して、たぶん襲われたのだろう。あいつは優しいやつだから、自分から何かを殺したりしないわ。獣を食べているところだって、見たことがないもの。私以外の同族が、あいつを傷つけている? 

不愉快だわ。

チンパンジーはイッと歯を剥いて、騒々しい森の奥、荒々しい祭りの中へと、木を伝い渡っていった。


深く短い眠りから目覚めた時、自分が一人であることにゴリラはすぐに気づいた。見渡せば、洞穴の中に、ぽっかりとチンパンジーの気配の抜け殻が空いている。彼女がいない。出て行ったのか。ゴリラは地にぬかづいて、身体をぶるぶると震わせた。大きな拳で、地を殴った。後悔。出て行きたくなるほどに窮屈な穴の中に、チンパンジーを閉じ込めていたことへの、凄まじい後悔に震えていたのだった。なんてことを。ゴリラは今更のように正常な判断に目覚めて、己の常軌を逸した行動を悔やんだ。彼女は、空腹から我が子の死骸まで喰らっていた。それほどまでに追い詰めたのは自分だった。

そしてこんな時でさえ、あの食事の光景に腹をうずかせる自分の卑しさを軽蔑した。

ああ、せめて。

せめてもう一度だけでも、彼女に。

今までの行いを、謝らなくては。

ゴリラは首を擡げ、洞穴の外へ出た。実に久しぶりだった。砂岩の上から見晴らしたサバンナは広大だった。その景色は、動物園を脱走した明け方に眺めたものと同じなのに、全く違った。最初の朝、壮大で自由で美しい世界だと感じたそれは、今は、自分がぬかずくべき存在を隠すいじわるで狡猾な迷路のように思えた。ゴリラはしかと世界を見渡した。そして、深い緑のかたまりを眼差した。

森へ、ゴリラは迷わず森の中へと足を踏み入れた。ゴリラは本当に子細にチンパンジーを見ていたのだ。梢のさざめき、鳥の鳴き声、同族の吠え音。それらが微かにでも聞こえると、きまってチンパンジーの顔に憂鬱さが翳ることを。そして、頻繁な苛立ちの最中、その憂鬱が混じっている時だけは、その足はゴリラに向かず、穴の出口へと向かおうとしたことを。ああ、私はその度に彼女を羽交い締めにした。森を恋しがっていただけの彼女を、逃げ出すのではないかという己の恐怖心のみで縛り付けてしまった。謝らなくては。ゴリラは低木の枝に皮膚を裂かれながら、森をあてもなく駆け回った。チンパンジーは高い木の枝の上に登るのが好きだったからと、ゴリラは上を向きながら駆け続けた。黒。美しい黒の、長くて細い、腕や脚が垂れていないかと、期待した。そのせいで、なんども樹の幹にぶつかってはよろめいた。

そのうち、随分と奥まで来た。葉が茂り、陽が薄い。おそらく森の中心部までたどり着いた頃、黒い影が視界をよぎった。ゴリラが彼女かもしれないと高揚するより前に、

「キイイイーーーーーーーーーーーーーーーッ」

という金切り声がゴリラの頭のすぐ上で響いた。それは確かに、彼女と同じかたちをした生き物だった。彼らは最初の一匹を皮切りに、ぞくぞくとゴリラの頭上に飛び交いはじめた。ゴリラは即座に考えた。この中に彼女が居るのかもしれない、そうしたらもう、自分は彼女を一目見て帰ろう、群れに戻ったのなら、それでいい、だって一人は寂しいのだから。形の違う自分と、こんなにも捻じれた欠陥と歪みだらけの自分と、二人きりで居るよりずっといい。

そう思って、枝と枝の間を縦横無尽に、愉快そうに飛び交うチンパンジーたちの中から、彼女を探そうと懸命に目を凝らした。

草むらの陰に馴染んでじっとしているゴリラに、彼らは気づかないようだった。いいや、彼らがゴリラに気付かなかったのは、なにもゴリラが影に紛れていたからではなかった。「遊び」に熱中していたのだ。同族の子を嬲り殺す、「遊び」に。

かくして、ゴリラはそのことに気がついた。騒がしい声の中に、ひときわ弱々しくか細い声が途切れ途切れに隠れていることに。まさかとは思った。しかし、ゴリラはそれを見つけてしまった。投げられ、叩き付けられる、小さな生き物を。今まさに、その群れの中で一番体の大きいチンパンジーの手で、振り回されている、チンパンジーの小さな子を。


ふざけるなよ。


ゴリラは枝から枝へ移ろうとしているそいつの胴を両手で捕らえ、そのまま、握りつぶした。ぼたた、ぼたた、と赤黒い液体が滴り、崩れた内臓がぼと、と落ちた。背を伸ばし、胸を張ったゴリラを、他のチンパンジーたちは仰天した様子で見上げていた。群れのボスが、こんなにあっさりと、殺された。チンパンジーたちは、イッイッと小さく威嚇する者、竦み上がり硬直する者、逃げ出す者、様々な反応を示した。ゴリラは殺したチンパンジーを投げ捨てると、そのチンパンジーの手のそばで震えている傷だらけの小さなチンパンジーの子を片手でそっと抱き上げた。そして、視界の端で歯を剥いていた一匹のチンパンジーを、太く重い片足で踏みにじり、

「ギイッ!?ギイイッ」

破壊した。

 これを見て、危険を知らせようと口を開いた別のチンパンジーの顔面を、空いているほうの手で握りつぶし、骨まで砕いた。口を開いた者から、静かに殺していった。片腕で、柔く幼いチンパンジーを優しく抱いたまま、空いた三本の腕と脚、そして顎を使って淡々と命を奪った。

こういうふうにしたのか。こういうふうに、彼女の子も殺したのか。あんなに、残酷に。そして私は、そんなふうにされた子を、実の母親に食わせるような所業を犯したのか。私は許されない。こいつらも許されない。ここには罪しか有り得ない。私は許されない。許されない私はもう、死ぬしかない。ああそうだ、それなら、最後に彼女に復讐を、捧げよう。一番大きな死骸を、彼女に、みせるんだ。

枝の上から引きずり降ろした最後の一匹を、そんな妙案を思いついた興奮を込めて勢いよく幹に打ち付けて殺した後、ゴリラはようやく息を切らして、膝を折った。黒く小ぶりの蝶が、ゴリラの頬を掠め、低いところで翻り、また遠くへ紛れていった。


ガサリ。


「キィ」

ゴリラは、顔を上げた。


それは、あまりに、宿命で。

いつかの昼に酷似した、そして、あまりに、かけ離れた。


暗い樹々の間から勢いよく飛び出してきたのは、紛れもなく、あの、彼女だった。


チンパンジーがそこにたどり着いた時、ことはもう既に終わっていた。膝を折るゴリラの体はまだあたたかそうな血に塗れていて、肩や胸を激しく上下させ、真っ暗な闇を呆然と眺めるような目つきで、ほの明るい森のどこかを見ている。樹々には真新しい傷、へこみ。黒い皮膚のそばを、黒い蝶が掠めた。まるでゴリラが、今すぐにでもたくさんの蝶になり崩れ消えてしまうような、そんな危うい脆さを感じ取って、チンパンジーは思わず声を上げた。

「キィ」

ゴリラは、こわごわと顔を上げた。そしてチンパンジーを見止めると、この世界のどんなものよりも悲壮で愛おしい、儚げな顔つきをして、ただそこに座り込んだ。だら、と力を抜いたその腕と脇腹の間から、小刻みに震えるチンパンジーの子どもが、ちょろちょろと抜け出して、明確な嗅覚をたよりに、自分の母親のもとへ帰っていった。ゴリラはその後ろ姿を、少しの驚愕と不安を抱いて見送った。

チンパンジーは、必要なことのほとんどを、理解した。

こいつは、あくまで時に支配されないんだわ。私と違って、記憶に感情を留めておける生き物なんだわ。少し羨ましくて、とても哀れね。

チンパンジーは、縋るように自分を見つめるゴリラに歩み寄った。同族の死骸を容赦なく踏みつけながら。知らない顔だから、違う群れだったみたいだと何の感慨もなく判別した。そう、違う群れ。私とは何の、関係もない。

それでも、こいつは許せなかったんだわ。私のかつての憎悪を、まるで写しとったみたいにして、覚えていたんだわ。

チンパンジーが座り込むゴリラの眼前で立ち止まった。ゴリラはふいに辺りに散乱するチンパンジーの死骸を見渡して、その中の一つ、ゴリラの尻のすぐそばにあった、胴体の中央が破裂したような死骸を手繰り寄せた。ゴリラは、その引き攣れる肉に両手をぬちゃ、と浸し、それからはらわたを掬い取って、頭を垂れそれを掲げてみせては、大きな手の陰から、チンパンジーの顔を伺った。それを、何度も何度も繰り返した。懺悔、謝罪、愛。ゴリラの目には、それらの感情が、あちこちに向きを変えて吹きすさぶ風のようにあらわれていた。

そしてチンパンジーは、終に、必要なことの総てを理解した。

ああ、こいつは今。

私にこの死骸を、捧げているんだ。復讐の形代のような、これを。そして、そうする私の姿に、発情するのね。つまり、お前の心の中で残酷と分類されている行為を私がするのに、興奮するのね。こんなに強いのに。私なんて容易く殺せるのに、絶対に殺せないのね。

かわいそうに、なんて愛おしいの。

チンパンジーは、狂ったように同じ動作を繰り返すゴリラの手からその肉を奪った。そして、なんの躊躇もないように、それに歯を立てた。苦いし、全然美味しくなんてないけれど、こいつが捧げたいのなら私は思う存分に捧げられるわ。こいつが私を崇めたいなら、思い切り崇められてやるわ。何故ならね。

チンパンジーの口の端が、微かに笑った。

 

私もお前を、好いているからよ。


臓物の最後の一切れを頬張ると、ぷつ、と切れた粘膜から、ぴゅう、と透明の生臭い汁が噴き出した。ゴリラの頬にかかったそれは、何故だか雄の性器に射精される感覚を呼び起こし、チンパンジーのすっかり膨らんだ尻をむずがゆくさせた。

それで、チンパンジーは歯に詰まった骨の欠片をぺっと吐き出すと、どうやら同じ熱に浮かされているらしいゴリラの頭に、じゃれつくように飛びついた。

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