第4話 ゴリラとチンパンジー、破綻

ある日、チンパンジーがゴリラを置いて洞穴の外へ出ようとした時、ゴリラがそれを必死に引き留めた。

それが、破綻のはじまりだった。

ゴリラの強靭な腕と脚で巻きつかれると、チンパンジーはとても力が及ばない。大抵のことは、チンパンジーが一声キイッ、と鳴くだけで許してくれるし、なんなら歯を剥くだけですごすごと退くのに、それだけは何度試しても譲らなかった。チンパンジーは、逃げると思われていることが心外で、腹が立った。

そもそも、私に惚れている分際でこの私を支配するような真似をするのが気に食わないのよ。

以前はよくゴリラと連れ立って森へ採集に行っていたのに、最近ではもうめっきりなくなってしまった。チンパンジーが逃げると思っているのか、ゴリラは食料を調達しに行かなくなった。夜に眠る時でさえ私を巨体に閉じ込めて、そうして飽くことなくこの狭くて暗い穴で過ごしている。チンパンジーは呆れて、疲れて、怒っていた。阿呆みたい。もう食料だって底を尽きたのに、この愚かで無能な図体のでかいのろまは何にもしないで私を見張ってる。ほんと、やってらんない。


今日も薄暗い洞穴の中で、窶れたゴリラと窶れたチンパンジーは、ぐったりと岩肌にもたれている。射し込む陽の眩さが、穴の内と外の世界の乖離を際立たせ、チンパンジーの苛立ちを煽る。そういう憤懣に駆られた時、チンパンジーはいつも己の苛立ちのままに、突拍子もなくゴリラに飛び掛かる。張りの失せた肩に噛みつく。垂れ下がった乳房に爪を立てる。痩せた腹や脚を蹴りたくる。叩きまくる。それはチンパンジーがひとまず満足するか、息を切らすまで続く。ゴリラはその間、ぼうっとしてされるがままになっている。ただひたすらに、ぼうっと。


ゴリラは、たしかにぼうっとしていた。

けれどそれは、空虚とは程遠いもの、被虐への陶酔と官能の表情だった。うっとりとした夢見心地がゴリラの頬を弛緩させ、焦点をぐらつかせているのだった。ゴリラにとって、チンパンジーに虐げられることは、他のゴリラたちにとっての交尾と同じ意味を持っていた。ゴリラは痛みに表皮を痙攣させ、そして痛みに子宮を震わせた。ゴリラはこの洞穴の中で、支配されるために支配するという倒錯的な行為に溺れていた。チンパンジーの憤懣が空腹や運動不足といった純粋な理由であればあるほど、いわれのない理不尽な暴力でチンパンジーから支配されている実感に興奮した。

チンパンジーが暴れ疲れて眠っている間、ゴリラはその寝顔を穏やかに眺めて、思い出に耽る。まだチンパンジーが自分を置いて森へ帰るのではないかと慄き始める前の、まだチンパンジーと共に森を探索していた時の、まだチンパンジーと共に過ごすこの洞穴が、牢獄ではなく家だった時の記憶。それはどれも断片的で、幾数枚の美しい絵画のようだった。ゴリラは心象の壁に立てかけられているその絵画を一枚、一枚、丁寧にかかげ、感じ入る。

たとえば、小さく愛らしい小麦色の獣を容赦なく貪るチンパンジーの口元。桃色の歯茎でその獣の肉をしがんでいる時の、残虐な顔つき。唇からびゅる、と噴き出したまだなまぬるい脂肪の欠片。たとえば、樹々を腕で渡り歩くようにぶらんぶらんと伝うチンパンジーの手のひらの滑らかさ。しなった枝の葉がさざめいて揺れると、チンパンジーの柔らかな黒毛に光の斑点ができて美しかった。たとえば、赤黒い果実にかぶりついたチンパンジーの顎に伝う果汁。乾いた空気の中で、そのつややかに濡れた顎や胸が、どれほど甘美にみえたことか。それからたとえば、遠く響く、チンパンジーの群れの鳴き声が届いた時の、奇妙に静まった肩。震えることをやめた睫毛の下で、硬く定まっていた瞳。

そういえば。

はっとして、ゴリラはうっとりと垂れ下げていた眦を上げた。チンパンジーとの、彼女との思い出の中で、一つだけ、どうしても、滅多には思い出してはならない禁忌のような記憶。まだ絵画になるになるための時の洗礼を経ていないその記憶が甦り、ゴリラの脳裏を焼き尽くすように再生されてゆく。

チンパンジーを閉じ込めはじめてから、しばらく経った頃のことだった。貯蓄していた果実がなくなり、細い枝葉はあと一握ほどしか残っていない。ゴリラは食事をやめ、その残りを全てチンパンジーに捧げたが、それもなくなってしまった。辛うじて餓死を免れているのは、辺りに淡い草か生えていて、ほんの時折、運よく昆虫が迷い込んでくるおかげだった。もっとも、それでさえもゴリラはそのほとんどを口にはしなかったが。

とにかく、ゴリラもチンパンジーも、慢性的に飢えていた。ある日、チンパンジーがおもむろに洞穴の一番奥に向かっていった。そこは未だに、彼女の子の亡骸が安置してある場所だった。ゴリラは一抹の不安を覚えて、チンパンジーの後についていった。

そこにはやはり、虫の湧いた、腐乱した死骸があった。もはや原型すら留めておらず、爛れた皮膚と肉はもう区別もつかなくなっていた。ただ、腐って溶けた肉の塊。ゴリラの肌に粟が立った。ぞっとした。決して見てはいけないものを目に映してしまったのだと本能的に悟った。これは、禁忌だ。違う生物で、何の関わりもなかった私でさえ、これだけの嫌悪感と畏怖を抱くというのに、今まさに自分の前で背を丸めている彼女は、この子だった何かの親だったのだ。こんなものを直視してしまって、一体、どうなってしまうのだろう?正気でいられるわけがない。

ゴリラは、なんとかチンパンジーを慰めようとした。なんとか、狂気にのまれてしまわぬよう、身体を寄せ合おうとした。大丈夫、あなたの子どもはきっと、暗くて静かなところで、安らかに眠っているよ。せめて、そう伝えるために、チンパンジーの背をさすろうとした。

ところが、伸ばした手はふ、と力なく空を掻くだけだった。

チンパンジーはぺたぺたと前に歩み、その死の澱みの前に跪いた。そして、それを、何の躊躇もなく、手づかみ、むしゃむしゃと貪りはじめたのだった。

じゅる、じゅるる、ぶふっ、ごりっ、かふっ、はふっ……

死肉を啜り、骨をかみ砕き、筋をしがむ。悲しみもなく、怒りもなく、そこに子に向ける愛情など微塵もなく。ただ、腹が減ったから、食べているのだ。なんという残酷。なんという無慈悲。なんという、理不尽。なんという無意味。なにか、超えてはいけない一線、それは神聖であり同時にひどく俗物的な線。その線を、彼女は何食わぬ顔で踏みにじり、超えている。

ゴリラはその場にへたりこんで、ただ彼女の後ろ姿を眺めるほかなかった。血と肉と唾液のたてる水音。チンパンジーの体毛の擦れる音。

しかしその時何よりも、その場の何よりも恐ろしかったのは、その凄惨な光景に、自分の雌の器官がこれまでにないほど激しく、余すことなくうねり、欲情の口をだらしなくひろげていることだった。


その穢らわしいほどの聖性が君臨する記憶の再生に浸って、再び毒のある蜜のような、痺れを伴った恍惚感にゴリラは満たされた。足元で横たわり無邪気に寝ているこのチンパンジー。あの時も、こんなふうに無邪気な顔をしていたのだろうか。たぶん、していたのだろう。彼女なら。

ゴリラはそのまま、ゆっくりと瞼をおろした。もうここにあの子は居ない。彼女の排泄物は、私が食べてしまったし。もう本当に、私と彼女しかいないのだ。ああ、静かだ。外の風さえ凪いでいる。耳をすませば、彼女の微かな寝息が聞こえる。

すう、すう。

呼吸を重ねるように息をすると、渇いた喉のひりつく痛みすら、忘れてゆく。

ゴリラは、眠りに落ちた。

長い昼の、まだはじまりだった。

  

チンパンジーの眠りは浅かった。このところ続いている空腹は、意識をすぐにたたき起こして、まどろみを奪う。いつもはそれだけでムカムカと怒りが湧いてきてゴリラの腹でも叩いてやるが、そうしようとして振り上げた手を、ぱた、と宙で止めた。こいつ寝てる。チンパンジーは咄嗟に洞穴の出口に目をやった。昼だ。それもまだ当分に終わらない昼だ。今なら行ける。チンパンジーはわずかに首を擡げ、ぐっすりと眠っているゴリラを一瞥した。単純に震える睫毛。夕暮れの甘い色の柔い毛を生やした頭頂部。チンパンジーはそれを触ろうとして、やっぱりまた、やめた。そして、イッ、と声は出さずに小さく威嚇してやった。


――ふん、せいぜい愚鈍に眠ってなさいよ。私が一人で出て行ってもちゃあんと帰ってきてやるって証明してやるわ。そしたらあんたももう、こんなおかしなことはやめるでしょ?


チンパンジーはニイ、と笑った。


あれ?別に、帰らなくてもいいんじゃ…

ほんの一瞬、そんな疑問を抱いたが、それよりも早くゴリラの目覚める前に外へ出るのだとはやる気持ちがそれを吹き飛ばしてしまった。実際、この時既に、チンパンジーのゴリラに対する純粋な好意が、無意識の下でゆっくりと嗜虐欲の殻を脱ぎつつあった。もっともチンパンジーは、そんなことには頓着してはいなかったが。チンパンジーは、己の感情をゴリラのように精査したり、そのグラデーションを逐一確かめたりはしない。ただ、感じたことに忠実に生きているのだった。今も。チンパンジーは俊敏な動作で穴の外、森の中へと飛び出していった。

ゴリラの眠りは、深かった。

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