第3話 ゴリラとチンパンジー、接吻する
眩しい。
ゴリラはいつものように、ゆっくりと瞼を開いた。洞穴の奥には、昨晩のうちに枯草や枝葉で覆いを被せた子の亡骸がその隙間からのぞいていた。悲しい気持ちで、ゴリラは手の甲で鼻の下を擦り、ごろりとその大きな体躯を陽のあたるほうへ傾けた。太陽は今日も変わらず洞穴へまっすぐに…
射ってはいなかった。
黒い、奇妙なかたちの影が、日光をくっきりと切り取っていた。否、それは影ではなく、実体だった。朝の陽を遮るチンパンジーの体躯。奇妙な姿勢をしている。
しかも、地面を、舐めている。
――え!?
はじめ、その光景が目に飛び込んだ時、ゴリラは幻覚だ、と思った。幻覚だと、そうはねつけたくなるほどに鮮烈な、受け入れがたいほどに背徳的な、寝起きに直視するにはあまりに扇情的な姿だった。
――ちょっと、え…?な、なんで、地面を舐めているの?
ゴリラは混乱する頭をぶるぶるっと横に振り、改めてチンパンジーを注意深く観察した。幸いにも、チンパンジーの行動はすぐにゴリラにも理解できた。舌だ。舌に、黒い螺旋がある。あれは蟻だ。無花果の果汁が洞穴の砂埃に染みて、地の底から蟻を呼び寄せたのだ。蟻は砂埃を纏って薄く黄みがかった黒い粒々の列になり、洞穴の壁まで伝っていた。
が、行動を理解できても、その光景の放ついやらしさに、ゴリラは太刀打ちできなかった。
こんなの、どうすればいいかわからない。目を背けても気になりすぎるし、注視しすぎても不快がられるかもしれないし。ゴリラは身じろぎもできず、結局、ちらっとチンパンジーを盗み見ては自分の腹に視線を落とし、しばらくしてまたちらっと盗み見るのを繰り返した。
悠々と蟻を呑むチンパンジーはその両脚を大きく広げ、乾いた砂と石の上に舌を垂らしている。桃色の舌が長く伸び、瞳だけが鋭い光沢に満ち、毛の先端は陽射しに溶けて、腹のあたりではその精神が密に集ったように黒々と濃い影が落ちている。
ふと、チンパンジーの眼球が動いた。その瞳はゴリラに向けられていた。まっすぐに、舌を晒したまま、ただ純粋に、ゴリラが居ること確認するためだけの視線だった。無関心よりは温度の高い、けれど決して親しみのようなあたたかさはない、微温の視線。
しかしゴリラはその視線に、火に触れたような熱さを感じた。彼女の瞳にじわじわと焦がされて、そのうちもんどりうって死んでしまうような気さえして、思わず起き上がった。恋した対称の目で見られること。こんなに甘い危機感というものを、ゴリラは知らなかった。
ふいにチンパンジーは口を閉じ、顔を上げた。
――どうすんの?
チンパンジーは挑発するように首を傾げた。
――どうしよう…
ゴリラははにかむように首を傾げた。
それから、片腕だけを伸ばして、そこからさらに一本の指だけを伸ばして、細い細い蟻の糸の横を、その爪先でとんとん、とはじいた。
――ねえ、私も、一緒に、食べていい?
ゴリラはおもねって、上目遣いでチンパンジーを覗き込んだ。
チンパンジーはまた舌をべろりと出して、二股に分かたれた蟻の列の一方をまた器用に巻取りはじめた。
――好きにすれば。
そういう合図だった。
ゴリラはこみあげる嬉しさにドラミングするのをなんとかこらえて、ゆっくりと地面に顔を近づけた。チンパンジーの体臭と蟻の匂いが、陽にあたためられてふんわりと立ちのぼっていた。一人の時よりずっとしおらしげに、チンパンジーの舌の三つぶんは広さのある舌を出した。
べろり。
蟻を押し潰すように舌にはりつけて、飲み込む。
べろり、べろり、べろり、べろり。
ゴリラは高鳴る胸の鼓動から気をそらすように、すぐそばに彼女がいることを意識しすぎないように、旺盛に蟻を舐めては飲み込んだ。それでもやっぱり、額同士が触れ合うほどの距離に彼女がいるだけで、顔を手で覆ってしまいたくなる不思議にきらきらとした気持ちが湧き上がってくる。
彼女の呼吸が、耳元にこだまして、咥内じゅうに蟻の汁がほろ苦く滲んで、今は朝で、朝は私が一番好きな時間で、そこにこの美しい生き物がいて、彼女も同じものを食べていて、それが嬉しくて、こそばゆくって……
ぴとり。
その時、はっとして、ゴリラはひっこめようとした舌の動きを止めた。チンパンジーの細くて長い舌が、ゴリラの平べったい舌に触れていた。チンパンジーはしばしの静止の後、そのまま、蟻の潰えた死骸だらけのゴリラの舌を丹念に舐めはじめた。
生きた蟻が、もういなかったからだった。チンパンジーが、そして多くをゴリラが、舐めつくしてしまったのだ。チンパンジーはかぐわしい香りをたどるがままに、ゴリラの咥内を蹂躙した。蟻の味。それだけを求めて舌を器用に動かした。ゴリラの大きな歯と歯の隙間、頬の裏の熱を帯びて濡れた膜、泡立つ唾液の中、上顎の窪みまですべて探った。
ゴリラは、何をされているかわからずに、ただ呆然としていた。地面にうつ伏せた身体を、どう動かすこともかなわかなった。ただ、チンパンジーの舌が己の喉の奥に侵入してくるにしたがって、チンパンジーがやりやすいようにわずかに顎をあげるだけだった。
口の中を舐め回される未知の感覚と、毛も皮膚もない粘膜でチンパンジーと触れ合っている感動、そして何よりも、このチンパンジーに好き勝手に己の内側を貪られる被支配感に、ゴリラは深く陶酔していた。
私、発情している。
ゴリラは今、はじめてはっきりとそう自覚していた。
私、彼女のことが、好きなんだ。
じゅる、り。
ゴリラの舌の裏にはりついていた蟻の滓を唾液ごとじゅっと啜り取った後、チンパンジーはようやく顔を離した。満足して、ひょい、と離れてみると、ゴリラは大きな黒い双眸を潤ませて、息を弾ませ、唇を膨らませて、惚けていた。雄に全てを預けている時にする発情期の雌の顔だった。チンパンジーは聡かった。別種の生物たちの浮かべる、同類の表情を紐づけるほどには。
つまり、こいつは私が好きなのね。
チンパンジーは、目の前の大きくて無防備なこの生き物に対して、さてどうしたものか、と、無抵抗の獲物を手のひらで転がすような愉悦を感じていた。それは嗜虐的な好意だった。全く、嗜虐的な好意。
チンパンジーは、笑った。
それは威嚇によく似た顔つきだったが、敵を退けるよりは相手を迎え入れるような、溌剌として陽気さを醸し出していた。
ああ、かわいいなあ。
ゴリラはその笑顔にときめいて、ドドッと小さく胸を叩くと、もう抑えきれなくなって、洞穴の外へ飛び出した。そして、砂岩に登り、これまでにないほどの大きな音をたてて、ゴリラは晴れやかな気持ちでドラミングした。
それからすぐ、ドラミングの音に驚いて怒ったチンパンジーは、ゴリラに向かって飛び掛かった。
その日、ゴリラは身体のあちこちにひっかき傷を受けながら、チンパンジーは手加減してゴリラの体にちょっかいをかけながら、互いにじゃれ合って過ごしたのだった。
そういう日々が、ほんの少し、続いた。
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