第2話 ゴリラとチンパンジー、傷
森を抜け洞穴に飛び込んだゴリラは、ひたすら暴れ続けるチンパンジーをその胸で落ち着かせようと、抱きしめ続けていた。ごめんね、ごめんね。こんなふうに連れ帰ってきてしまって、ごめんね。
ゴリラは少しでも「ごめんね」を伝えるために、硬く強張ったチンパンジーの小さな背を撫で続けた。
ゴリラはもう、まだ自分の腕で確かな力で反抗するこの美しい生き物に、すっかり恋をしていた。ゴリラはまだ無自覚だった。無理もなかった。この生き物が一体何者であるのかさえ、わかっていなかったのだ。
ただ、一目見た瞬間から、心を奪われていた。
憐憫、することすら許さない圧倒的な悲壮。慰安、することすらおこがましく感じられるほどの絶望。庇護、などはねつけるほどの誇り高さ。なにより、酷薄そうで、残酷そうで、凶暴そうな、あの威嚇の顔つき。それに震えた、己が腹の奥、股の縁取り。戸惑いと、好奇心とが、次第に落ち着いてきたゴリラの心をくすぐりはじめていた。
陽が沈んだ頃、やっとチンパンジーは抵抗をやめ、荒い呼吸だけを繰り返すようになった。ゴリラはその上下する背を、まだ撫で続けていた。ごめんね、ごめんね。伝わるといいのに。ゴリラはゆっくりと身体を左右に揺らし、チンパンジーをあやすようにそのこめかみに頬をすりつけた。昼間にひっかかれていた頬の傷が、じわりと痛んで、ゴリラの雌の部分を密かに熱くした。
ふと暗がりに目をやると、チンパンジーが暴れる際に手を離してしまったチンパンジーの子の亡骸が、洞穴の隅の枝葉の上に横たわっていた。ゴリラは片腕でチンパンジーを抱きかかえたまま、その子の亡骸を手繰り寄せた。見るも無残な死に様だった。一体、どんな天敵がこの子を襲ったのだろう。
ゴリラはまだ知らなかった。チンパンジーの雄の群れが、しばしば同族の子をいたぶり殺すことを。
背後でたてられた物音に、チンパンジーは弱々しく振り向いた。ゴリラは、そっと腕を離してみた。チンパンジーが、子のそばに行きたそうにしているように見えたからだった。チンパンジーはやはりすぐにゴリラの逞しい太股から下り、自らの子の亡骸のそばにしゃがんだ。じっと、目を凝らしていた。
チンパンジーは、暴れていた昼間とは正反対に、恐ろしいほどに落ち着いていた。もとより、群れから離れ我が子の亡骸を引き摺って歩くうちに、子を同族の群れに嬲り殺されたこと、その群れの中に自分の夫も混ざっていたことへの錯乱は鎮まっていた。今、在るのは憎悪。怨恨、悲哀、憤怒、嫌悪。そして冷たい復讐心だけだった。
チンパンジーの瞳には、幾つもの明確な炎が色とりどりに燃え盛っていた。ゴリラはその瞳を、睫毛を越してきらめくその瞳を、静かに見下ろした。ゴリラにはその炎の複雑さこそわからなかったものの、その火力の強さだけは、ありありとわかった。彼女は哀しんでいて、恨んでいる。こんなにも私の胸を貫くほどに深く。
その情念が、いっそ私に向けられればいいのに。
ゴリラは驚いた。執着が欲しいなどと、思ったことはなかった。共に生まれ育ったかつての家族にさえ、そんなものは、一度も抱いたことがなかったのに。
しばらく子の亡骸に視線を注いでいたチンパンジーは、ふいに、ゴリラのほうを振り向いた。
――そうだ、こいつは。
こいつ、何なのかしら。
チンパンジーは、ようやくこの珍妙な生物に対して関心を持った。昼ひとつぶんかけて暴れたせいでぐったりと疲れた脳味噌が、昼ひとつぶんかけてこの巨大な生物と一緒に居たのだということをかろうじて把握した。目の前のこの屈強な肉体は、私に傷一つつけなかった。私がめちゃくちゃに爪を立てたせいで傷だらけになっているのにもかかわらず、今も私の顔を覗き込んでいる。まるで非力な子供みたいに。
どうやらこいつは、私を喰らうわけでもなく、殺すわけでもなさそう。私よりうんと力が強くて、身体の全部のつくりが大きいけれど。でも、なんだかおどおどしているし、脚の間に穴が開いているから、雌だわ。本当に目的がわからない。逃げたほうがいいかしら?でも、まだ当分あの群れには戻りたくない。
チンパンジーが思案していると、ゴリラは視線を逸らすようにして下方に揺らし、それから、まごついた様子で洞穴の奥に腕を伸ばした。何かを手探っているようだった。チンパンジーは訝しみつつ、その様を監視した。
それからゴリラは何かを掴むと、
「ウッホ、ホホロ…」
と低い声を微かに響かせて、それをチンパンジーの足元に転がした。
よく熟した、無花果だった。甘ったるいにおいに、じゅるりと唾液が湧いてくる。手をつけてもいいのかしら、と指でつついたり、その指をひっこめたりすると、ゴリラは顎でそれをしゃくってみせた。
――どうやら、私にくれるみたいね。
チンパンジーは、その果実に、何の遠慮もなく歯を突き立てた。
ゴリラが、ごくりと唾をのんだ。
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