第1話 ゴリラ、暮らす。

眩しい。

ゴリラは目をしばたく。目やにを振り払うようにぎゅっと顔をしかめて、腕で頬を拭う。崖に穿たれている穴の中で、ゴリラは体を起こす。洞穴の中に向かって真っ直ぐに、朝陽が地面を貫くように輝いている。朝だ。ゴリラは洞穴の外に出る。乾いた草の上をのそのそと歩き回る。朝だ。ゴリラは理由のない希望を胸に抱く。うずく胸を陽にさらすようにして立ち上がり、ドラミングする。

ド、ド、ド、ドッ。

朝だ!

ゴリラは陽気な足取りでまた小屋に戻り、昨日の昼間に森で採った木の葉や樹皮、木の実を口にした。ここへたどり着いて、四回目の食事だった。


動物園を脱走した日、ゴリラは夜じゅう、太陽が昇るまで、ただただ目の前の地面を駆けた。起伏も棘も水も、すべてを振り切った。頭上の星などには目もくれなかった。目的などなかった。ただ、永遠にも思えるほどの時間を駆け抜けた。ゴリラはその時踏みしめていた大地に果てがあることなど考えもしなかったし、それよりは、胸を苛んでいた焦燥感が次第に漏れ出ては消えていく爽快感を味わい尽くしていたかった。そして、夜明けが来た。

はじめて夜明けを目の当たりにした時、ゴリラの瞳には、色彩が蘇生した。太陽は巨大な黄金の円盤。マンゴーの色に染まる大地。低木の繊細な影模様と燃え立つような草原のコントラスト。天を踊る大きな原色の鳥たち。襲い掛かるように波打つ雲の青い縁。目を射る水面の銀より眩い反射。

世界は荘厳だった。灰色の箱庭の中など、たった一粒の木の実ほどにちっぽけだったのだ。ゴリラは朝焼けの美しさに見惚れ、足を止めた。そして、次第に陽の赤が白にその肌を変えた頃、ゴリラはようやく、自分がその時、サバンナの地平線まで見渡せる小高い崖に登っていたのだということに気がついた。

残してきたものへの寂寥が、一度だけ、舞い上がって、散った。


それからゴリラは、その崖のごく近くに茂る低木の森で、昼の間に、樹皮や果実などを採集した。ここには、あの小さく細い生き物は一匹もいなかった。とにもかくにも、食べて寝られれば生きていけた。ゴリラの大好きな朝は、今日で三回目だった。ゴリラは自分で餌を採集した。それは地味で、地道な生活のはじまりを意味していた。幸運なことに、ゴリラを襲おうとする動物はまだ現れなかった。ゴリラは夜には安全な巣穴に戻っていたからだ。天敵の豹は夜行性だった。木の枝から実をもいだり、樹木の皮を剥いだりする「日常」が、むくむくとかたちづくられつつあった。採集の最中、二度、鮮やかな青の蝶が森をよぎった。ゴリラはその度にそれに手を差し伸べたが、蝶はふらりとゴリラの黒い指をかわし、遠く葉の被さる森の奥へ消えていってしまった。ゴリラは悲しかった。それももっと悲しいことに、ゴリラが悲しいということを知っているのは、ただ一頭、ゴリラ自身だけだった。それは、本当に心細く消え入ってしまいそうになるほどの、孤独だった。太陽がみせてくれる世界の変化、自分とは違う姿形の生き物たちの遠くの蠢きだけが、唯一の慰めだった。

新しくはじまりつつあるゴリラの「日常」は、平坦で、茫漠とした、反復の予感をゴリラに抱かせていた。

2.ゴリラ、チンパンジーと出会う


五回目の朝の清々しいドラミングの後、その日ゴリラは、一回目の昼寝をした。採集した果実や木の実も、樹皮も残っていたから、森へ赴く必要がなかったのだ。午睡の中で、ゴリラは久しぶりに安寧というものに包まれた。眠りは深く、心地よく、まどろみは甘かった。ゴリラは疲れていた。その日は、夕方に洞穴の中で実を三粒だけ噛み、また背を丸めて寝てしまった。


ゴリラは次の朝、いつものように採集へ出かけた。ところが、森の中を進んでも、進んでも、いっこうに果実が見つからなかった。それどころか、森はどこか、荒れていた。まるで、何者かが暴れ回った後のように、細い木の幹はへし折れ、まだ緑の葉が散らばり、そして、生臭い血のにおいがそこかしこに漂っていた。 

喩えではなく、本当に、何者かが暴れ回ったのだ。

ゴリラは悟った。ここへ来て、はじめて命の危機というものを覚えた。ゴリラは慎重に、慎重に歩みを進めた。樹の根元の陰に身を潜めて辺りを伺いながら。得体の知れない凶暴な何かが自分の巣穴の近くに存在するということを、ゴリラはとても看過できなかった。突き止めるのだ、突き止めるのだ、そうして、自らの安全を確保するのだ。ゴリラはじぐざくと獣道を踏んでいった。奥に進むにつれて、血の臭いは濃くなっていった。ゴリラはまた一度、太い樹の幹の根元に身を潜めた。呼吸を浅くして、眼球のみをきょろきょろと動かした。植物は裂創し、平たいはずの枯葉はうねるように起伏していた。そして何より、赤茶色の乾いた血痕が飛び散り、付着していた。

この近くか。

ゴリラはぐっと筋肉に力を入れた。逃げられるように、戦えるように。


ガサリ。


その時、ゴリラの斜め前、すぐ近く、木々の茂みで、何かが動いた。

ゴリラは視線だけを、さっとそこに移した。

さあ、突き止めるのだ。

ゴリラは歯を食いしばった。


 しかし、その姿を目にした時、ゴリラは、一切の力を抜いてしまった。否、意図せず身体が弛緩してしまったのだ。

樹々の隙間からふらりと踊り出たのは、たった一匹の、痩せたチンパンジーだった。そのチンパンジーは、片腕でズタズタに引き裂かれた何か、チンパンジーに似た小さな何かを引き摺りながらふらふらと歩き、木立のない僅かな枯葉の溜まりで、ぼうっと立ちつくした。顔を上げもせず下げもせず、ただ目の前を、ぼうっと眺めていた。宙から舞い降りてきた一匹の白い大きな蝶が、そのチンパンジーの横顔を掠めてまた木立に吸い込まれていった。蝶は、陽の欠片のように美しかった。チンパンジーは、微動だにしなかった。

ゴリラは身を隠したまま、目の前の一匹のチンパンジーを、まじまじと観察した。あちこちが乾いた血で固まっている黒毛の、白い陽射しを受けてちかっちかっと金に輝く、危うい艶めき。黄昏の空を水で包んだような、謎めいて美しい瞳。柔く旨みのありそうな、剥き出しの尻の皮膚。蕾のように微かに隙間を空けた、はじめてみつけるまだ青い果実のような、女性器。そして、片腕に纏わりつくように繋がった、同じ色をした、皮膚も毛も同じ色をした、爪、も…


ああ。

あれは、チンパンジーの赤ん坊の、死骸か。

さんざんいたぶられた末に、殺されたような痕跡に埋もれた、死骸か。


それを理解した時、ゴリラは、こらえきれなかった。ゴリラは居ても立っても居られず、けれどそれでも彼女を驚かせないように、そっと、茂みの中から歩み出た。チンパンジーはゴリラのほうを振り向いた。歯茎を剥き出して唇をまくり上げ、黄ばんだ歯列はつややかに濡れていて、あまりに力を込めたせいで痙攣していた。盛り上がった頬の上で、見開かれた瞳が、恐怖心と警戒心にぎらぎらとかがやき、ゴリラをねめつけていた。

ゴリラはその様に圧倒され、上目遣いでチンパンジーの瞳を覗き込み、しばらく距離を保ったまま、じっとした。チンパンジーは声をあげなかった。ただ、無音で、全身で威嚇していた。その場から一歩も退かず、立ち尽くしたまま。

チンパンジーは、目の前のこの図体のでかい筋骨隆々の生物が少しでも近づいたら、すぐさま叫び声を上げて噛みついてやると決意していた。そいつが何もせず引き下がるのなら、この腕に繋いだ我が子を悼むために、今回だけは見逃してやるつもりだった。

一方でゴリラは、全く別のことを考えていた。


――私は危険ではないのよ。あなたを傷つけたり、しない。


そうわかってもらえるまで、このままでいようと、決めていた。

うっとりと魅入られる心の底を隠したまま、おもねるように、それがどうか通じないかと、ただチンパンジーの顔色を窺い続けた。一頭と一匹の間で、それなりの時間が過ぎた。サバンナの昼は長かった。チンパンジーは、歯を剥いたままでいるせいで、ついに唇の端から唾液を垂らした。ゴリラは伝い落ちるその粘ついた体液を見て、腹と股の間がじわじわと熱くなる感覚に陥った。ゴリラは今、発情していた。無自覚に。それでも、ゴリラは次第に制御の効かなくなる熱に、身を捩りたくなった。もどかしい、もどかしい。何か、したい。

沈黙を破ったのは、ゴリラのほうだった。

おもむろに、自分の傍らにある樹木の枝を折り、それをチンパンジーの前に放った。食料をあげて、自分に敵意がないことをわかってもらおうとしたのだ。それは成功した。チンパンジーは飢えていた。子の死骸を引き摺りながら、チンパンジーは放られた青白い細い枝に近づいた。それは物理的に、ゴリラに近づくことでもあった。チンパンジーは枝に手を伸ばしながら、今度は口を閉じたり、またカッと開いたりを繰り返した。そして一度だけ、ゴリラの双眸をその視線で射抜いた。ゴリラの心臓が、大きな石を上から落とされたようにドクンと強く脈打った。チンパンジーは、それから、地面に落ちたその枝を空いているほうの手でつかんだ。鼻の近くにその枝を、葉の茂っている部分を寄せてにおいを確かめると、くるりと背を向けてしまった。キイッ、と小さく声をあげて、どこか森の奥へ、ゴリラと反対の森の奥へ、行こうとしていた。

ゴリラは見届けようとした。

が、


――いやだ。ああ、彼女が行ってしまう。

そしたら、私はまた一人ぼっちだ。死ぬまでずっと一人ぼっちだ。

いやだ、いやだ、行かないで!


できなかった。


刹那、ゴリラは自分に背を向けたチンパンジーを、その子の亡骸ごと両腕でがしっと抱き込んで胸に押し付け、それから一目散に森を駆け出した。チンパンジーはありったけの力で叫ぼうとしたが、鼻も口もゴリラの分厚い胸に塞がれていて、叫び声は喉の奥でわだかまるばかりだった。ゴリラは走った。動物園から脱走したあの夜よりももっと、それは病的なほどの昂ぶりに憑りつかれて、走った。

荒廃した森。

傷ついた樹木の苦い香り。

白銀の陽射し。

サバンナの砂ぼこり。

真昼の陽射しの強烈すぎる眩さ。

砕けて舞いあがる落ち葉。

たった一頭のゴリラが、チンパンジーを腕に抱いて、その地を踏みしめてゆく。

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