1 幸運

 ――夏の日差しが、畑に照りつける。


 私は額の汗を拭いながら立ち上がると、平屋の小さな家に戻った。縁側から声をかける。

「イトさん、草、ぬいた」

「ああ、ありがとう、アイルさん」

 少し腰の曲がった、小柄な老婆が出てきた。アディリル、という私の名前をうまく言えないイトさんは、私をアイルさんと呼ぶ。きれいな白髪を二つに分けて三つ編みしていて、可愛らしい。

「さ、休んでちょうだい」

 イトさんは、細長い瓶から冷たいお茶をグラスに入れて渡してくれた。煎った麦のお茶だ。

 私は立ったまま腰に手を当てて、一息に飲み干す。

「っぷはー。おいしい」

「もう一杯?」

 軽く瓶を持ち上げる仕草が、お代わりをくれると告げている。

「ありがとう」

 グラスを差し出してもう一杯注いでもらい、今度は縁側に座ってゆっくりと飲んだ。こんなに暑い日にこんなに冷たいものが飲めるなんて、この世界は本当に便利で素晴らしい。


 不思議な虫の鳴き声が、幾重にも重なって聞こえる。軒下を風が通り抜け、ガラスの飾りを揺らす。

 こちらの世界の夏は、様々な音に満ちている。


「肩は、もう痛まないかしら?」

 イトさんは、自分の左肩を触ってみせた。

 心配されているとわかり、私はにこりと笑ってみせる。

「ダイジョブ」


 罪人の烙印を押され、追放されてから、一ヶ月が経っていた。

 元いた世界から見ると、ここは異界だ。私は運良く、平和な、盗賊も猛獣も魔物もいない場所に落ちたのだ。

 

 落ちた直後、意識を取り戻した私は、目の前にいた人物を敵だと勘違いしたらしい。

 反射的に、私は相手が持っていた長い棒のようなものを奪い取って、相手の喉元に突きつけたそうだ。

 でも、よく見ると、相手は麦わら帽子を被った老婆で。

 小さく悲鳴を上げて、両手を上げて敵意がないことを示していて。

 私が奪った棒も、武器なんかではなく、老婆が洗濯物を干すのに使っていた金属製の竿で。

 謝ったような記憶が、ぼんやりと、ある。とにかく私は、何か言い訳のような言葉を口にしているうちにまた朦朧となって、どうやら老婆の手を借りてヨロヨロと自分で歩いたらしく……

 

 次に目覚めたら、家の中で横になっていた。


 八十三歳のイトさんは、山奥で一人暮らしをしている。庭で私を見つけて驚いたものの、私が明らかに誰かに傷つけられた訳あり風だったため、家に入れて肩の手当てをしてくれた。

 火傷が元で熱を出したものの、イトさんのおかげで私はすぐに回復した。騎士としての体力も、ものをいったんだろう。


 イトさんからこちらの言語を教わり始めて、私たちはちょっとだけ意志疎通ができるようになった。そこで、イトさんはどうして、こんな山奥で一人暮らしをしているのか聞いてみる。

 いくつかの単語と、山の斜面に廃屋がちらほらと見えることから推測して、どうやら集落の人々がどんどん都会へ出てしまいイトさんが最後の一人……ということらしい。

 私にとってみたら、イトさんは神話に出てくる、箱の中に残った唯一の希望だ。もし大勢の人がいたら騒ぎになって、この世界の当局に怪しまれ、捕らえられていたかも知れない。

 幸い、魔法がない代わりに機械があるくらいで、元の世界とこちらの世界はよく似ていたので、私は比較的すぐにこちらの生活に慣れた。


 助けてもらった恩返しに、私はこの家で働いた。元々、農家の娘が竜騎士になった叩き上げだ。『聖女』に選ばれたからって気取った態度なんかとらない。ていうか、とれない。

 農作業、家の修理、できる仕事を片っ端からこなした。

 イトさんはとても喜んで、小さな畑で採れる野菜を使った美味しい食事を、毎日ごちそうしてくれた。他にも、国から恩給のようなものが出ているらしく、

「若い人には、野菜だけじゃあねぇ」

 と言って、デンワという通信用の機械を使って商人を呼び、肉や魚を買っては食べさせてくれた。肉を甘辛い味付けで炒めたのとか、豆を発酵させて作った調味料で魚を煮たのとか。イトさんの料理が、私は大好きだ。

「アイルさんは、どこから来たの? 心配している人がいるなら、この電話、使っていいんだよ。ええと、わかるかしら……家族、友達、恋人、夫?」

 イトさんは心配してくれるけれど、私は首を横に振る。

「私、一人」

 罪人として追放され、元の世界には戻れないんだから、デンワもできるわけがない。


 でも、私は恵まれてる。追放された罪人なのに、飢えることなく、清潔な家で、誰にも虐げられることなく生きてる。

 本当に、恵まれてる。


 でも本当は、恵まれているのだと自分に言い聞かせることで、悔しさを押さえ込んでいた。

(罪人なんかじゃないのに)

 眠れない夜、フトンに横たわり、私は宙を見つめながら思い出すのだ。自分に、何が起こったか。

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