第33話 砂に埋もれた破片(了)
ナーザーファリンの幸せを望んでいたザルリンドフトには語れなかった事実を語っている間、ソルーシュは相槌を打つこともなく、また口を挟むこともなく、黙って耳を傾けていた。自身が知り得る限りのことを語り終えると、フェレシュテフは恐る恐るソルーシュの様子を窺う。彼は目を閉じ、眉間に皺を寄せて厳しい表情を浮かべており、やがて深い溜め息を吐いた。
「……そうそう物事が上手く進んでいってくれることはないか」
それもまた神の思し召しなのだろうと、ソルーシュは力の無い声で呟く。
忠実に守っていた戒律に背いてまで逃がした末の妹と友人は、幸せとは遠い結末を迎えていたのだと知り、とてつもない衝撃を受けたのだろうと想像するのは容易く、適当な言葉を見つけられないフェレシュテフは黙り込むことしか出来ないでいる。
「あの時に……父がナーザーファリンを勘当すると言っていた、決してこの地へ戻って来るなと二人に伝えていたが……そんなものは守らずに、人々の記憶が薄れた頃合を見計らい、ひっそりと戻って来ていても良かったのだ。愚かなナーザーファリン……信じていた男に捨てられたのだと早々に認めて、別の道を選んでいたら良かったのだろうに。帰って来ない、別の女と結婚してしまうような薄情な男などをどうして待ち続けてしまったのだ」
そうすれば病に倒れても、娘を娼婦の身分に貶めることをせずに済んだだろう。娘を守る為に、殺されることも覚悟の上で捨てたはずの故郷に戻って来ていれば、こんなことにはならなかったのではないか。
今となっては、”若しも”の話などしたところでどうにもなりはしない。過去に起こってしまった出来事はもう覆すことは出来ないのだと理解しているのに、膝の上で握りしめた拳を震わせながらソルーシュはそんなことを口走っていた。
「愚かだったのだ、ナーザーファリンもヴァージャも。いや、二人の未来を信じてしまった私も父も愚かだったのだ。我々の行いのせいで、貴女に苦しい思いをさせてしまって、すまない。すまない、フェレシュテフ……」
「謝らないでくださいませ、伯父様。どうか、御顔を上げてください……」
大変なことは数え切れないくらいにあったけれど、幸せなことも沢山あった。そして今はとても幸せな日々を過ごせているから、全ての責任は己にあるのだと詫びたりしないで欲しいと、フェレシュテフはソルーシュに告げる。彼に詫びて欲しいから、ヴラディスラフに聞かされた事実を話したりした訳ではなかった。いや、ほんの少しだけ、そうして欲しいと思っていたからソルーシュに話してしまったのかもしれないと、フェレシュテフは思い――自己嫌悪に陥る。
「有難う、フェレシュテフ。思いやりのある素晴らしい女性に育ってくれて、有難う……」
「伯父様、泣かないでください。泣かないで……」
泣かせてしまうような話をしたのはフェレシュテフなので、彼に泣かれてしまうと非常に申し訳なくなってくる。もう直ぐに泣き止むからとソルーシュは笑ったが、涙が完全に止まるまでには暫しの時間を要した。
――そうしているうちに、太陽が西の方へと傾いてきた。思っていたよりも話し込んでしまっていたようだと、フェレシュテフとソルーシュは時間の経過を知る。
野宿をするのに向いているという場所はもっと進んだ先の岩場にあるというので、フェレシュテフたちは此処でソルーシュと別れることにする。馬に乗るとソルーシュは何かを思い出したようで、チャンドラに手伝って貰って騎乗したフェレシュテフへに声をかけてきた。
「そういえば……スネジノグラードへと戻っていったヴァージャとは文のやり取りなどはしているのかね?」
「はい。頻繁にはやりとりをしていませんけれど……」
「そうか。それでは……一つ、頼まれてはくれないか?ヴァージャに文を送るのであれば、私からの伝言を書き記して欲しい。……もうあの男も父も、神の御許へと旅立っていった。ナーザーファリンとヴァージャを知る者も、我々の家族くらいになっている。だから一度、我々を訪ねてきて欲しい、と」
色々なことを話したい。そして、どんな事情があったにせよ、大事な妹と物心もついていない幼い娘を捨てていったことはどうしても許せない。最低一発は殴らせろ。ヴラディスラフも殴り返して良い。納得するまで殴り合って、怒鳴りあおう。そのように伝えて欲しいと、ソルーシュは言う。
「……承りましたわ、伯父様。そのように……ヴァージャさんに伝えます」
「うむ。有難う、フェレシュテフ」
何となく、実の父親であるヴラディスラフのことを”父”とは呼ばずに”ヴァージャさん”と呼んでしまうのはおかしいかとフェレシュテフが問うと、ソルーシュは別段おかしいことではないと答えてくれた。素直に父と呼べない事情があるのだから仕方がない。何れ何かの切欠があってヴラディスラフを許せるのかもしれないし、このままずっと当たり障りが無いように付き合いをしていくのかもしれない。そればかりは時が経たなければ分からないからと、ソルーシュは助言をしてくれる。
「あの……私も、一つお願いを申し上げても宜しいでしょうか?」
「何かね?」
「先程話したことは、御祖母様には……どうか御内密にしては頂けないでしょうか?御祖母様をがっかりさせるようなことをしたくなくて、その場凌ぎで誤魔化してしまった私がいけないのですけれど……」
「分かった。あの話は私の胸の内にしまっておくことにしよう」
「有難う御座います、伯父様」
「いいや、母のことを思ってくれてのことなのだろう。貴女を咎める気はない。……目的地に辿り着いて落ち着いたら……また我々を訪ねてきておくれ。フェレシュテフとチャンドラさんの旅路が安寧であるように、祈っている。……どうか健やかに、幸せに長生きをしておくれ」
「……はい。伯父様も御祖母様も、御家族の皆様もお元気でいらっしゃってくださいませ。それでは、ごきげんよう……」
別れの挨拶を済ませて、フェレシュテフたちはその場を後にする。ソルーシュは姪と連れである
**********
今夜の宿となるのは、地面に接している部分が大きく抉れて洞のようになっている岩山だ。それは人間、或いは亜人の手によって彫られたものではなく、長い年月を雨風に浸食されたことで自然に出来たものなのだと、チャンドラはソルーシュに教えて貰っていた。洞の内はチャンドラが立ち上がると頭をぶつけてしまいそうな高さではあるが、座ってしまえば問題はない。フェレシュテフと並んで座っても充分な広さがあるので、居心地も良い。
周囲を探索して薪を集め、夕闇が夜へと変化する前に火を起こす。その際に沢を見つけたので、水も確保しておいた。起こした火が強くなってきたので湯を沸かして茶を淹れたところで、チャンドラがぽつりと呟いた。
「なあ。それ……そろそろ外しても良いんじゃねえか?」
”それ”というのは、フェレシュテフの顔を隠している白い布のこと。陽は既に地平線の向こうに落ち、近くを通りがかる人の気配も音もしない。更には洞の内なので他者の目に触れることもないだろう、というのが彼の言い分。それそうですね、とフェレシュテフは返して、白いヴェールを取り外し、チャードルの頭に被っていた部分だけを下ろす。周囲の気温が急激に下がってきたので、チャードルは身に着けたままにしておいた。
「あなた?」
隣に座っているチャンドラの腕が伸びてきて、フェレシュテフの頬を捉え、彼の方へと顔を向けさせる。急にどうしたのだろう、と、フェレシュテフはきょとんとして彼を見つめる。
(……やっぱり、顔が見える方が良い)
彼女が顔を隠していた時間は半日にも満たない程度だったが、何となく懐かしさを感じてしまい、チャンドラは苦笑を浮かべる。彼女の体から香ってくる匂いだけでは落ち着かないようだと、自覚して。
「ふふ……」
親指だけを動かして頬を撫でてくるチャンドラの手に自らの手を添えて、艶やかな唇で弧を描き、フェレシュテフは彼の目を見つめる。そうすると大抵は目を逸らされてしまうのだが、今夜はそのまま見つめ返されて――触れるだけの口付けを落とされた。チャンドラがあまりにも珍しい行動をとるので、フェレシュテフは驚いて、心臓をどきんと弾ませる。
「あー、腹、減ったな……」
照れ臭くなったらしいチャンドラが、甘ったるくなったその場の雰囲気を変えようとしたのか、わざとらしく嘯く。名残惜しいような気もしたが、愛する人の腹を空かせたままにする訳にはいかない。フェレシュテフがいそいそと準備をしている間にチャンドラは馬とロバに餌をやり、それから二人は簡単な夕食をとった。
「ソルーシュの旦那……伯父さんやお祖母さんと話をして良かったか?」
親族かもしれない、を確証に変えるには兎に角話をした方が良いのではないかと考えて、チャンドラはソルーシュの申し出を受けていた。二人の邪魔にならないように、また邪魔が入らないようにと見張りをしながら聞き耳を立てていたのだが――結果として、自分のとった行動が正しかったのかどうかが多少不安になってきたので、彼はフェレシュテフに問うてみる。
「ヴァージャさんや御祖母様に伺った話には、幾つか違いがありました。どちらが正しいのか、それは分かりません。もう少し整理がついたら、伯父様の伝言を添えて、ヴァージャさんに手紙で尋ねてみようかと思います」
ああ、そんなことがあったのか。知ったことに対して納得している訳でもないのだが、ただそう感じたのだとフェレシュテフが告げる。彼女が酷く落ち込んでいるようではないのだと分かり、チャンドラは少しだけ安堵した。
「伯父様がヴァージャさんのことを尋ねていらっしゃった時、不安になりました。その時にあなたが振り向いてくださって、嬉しかった。私を助けてくださるのだなと思ったら、心強くなりました。それで伯父様にこれまでの経緯を話すことが出来ました。有難う御座います、あなた」
「……おう」
大したことはしていないのだが、フェレシュテフに感謝されてしまった。彼女は些細なことでチャンドラに感謝をしてくる。それが何となく居心地が悪いような気がして、チャンドラはそれを誤魔化すようにわざとらしく首の後ろを掻く。あまり効果は無かったが。
「あなた……」
「うん?」
甘えた声を出したフェレシュテフがチャンドラに撓垂れ掛かると、彼はごく自然に彼女の肩を抱く。もぞもぞと動いて体の向きや位置を変えて彼の顔を覗きこんでみると、目と目がぶつかったのでフェレシュテフはふんわりと微笑んだ。
「あなたに出会えて、本当に良かった。あなたに愛して貰えて……物凄く幸せ」
過去に何が起こっていたのか、知りたいとは思う。けれどもフェレシュテフが大切にしていきたいと思っているのは、これからのことだ。そう思ってしまうのは我が儘なことなのだろうかと小さな声で独り言を呟くと、チャンドラの耳にはしっかりと聞こえてしまっていたらしい。頭上で溜め息を吐くのが分かった。
「……お前はもう少しくらい我が儘言ったって良い。出来る限りは聞いてやる。だから……唐突なことを言うなよ、恥ずかしいだろ……」
「あなた、愛しています」
「だから、それを止めろって言ってんだよ……っ!!」
人目の無い所でも突然愛の言葉を囁かれると酷く恥ずかしいのだと、チャンドラがごちる。照れてそっぽを向いてしまったチャンドラにフェレシュテフが体を摺り寄せると、肩を抱く腕の力が少し強くなった。照れ隠しできつい言葉を返してくるのに、フェレシュテフに触れてくる腕は優しくて――偶に力加減を間違えられることはあるけれど――温かくて。どうしようもなくチャンドラが愛おしいと、フェレシュテフの心が満ちてくる。
胡坐をかいている彼の膝に乗り上げて、彼の太い首に腕を回して、フェレシュテフはちゅっと音を立てて唇を奪い、上目遣いで猫撫で声を出した。
「怒らないで、あなた?」
「……怒ってねえよ。あー、もうっ、明日に備えて、さっさと寝ろ。ほら!」
まだまだチャンドラに甘えていたいが、思っているよりも疲れていたらしく、フェレシュテフの口から小さな欠伸が出た。町で手に入れたばかりの毛布を荷物から取り出して、フェレシュテフはそれに包まり、チャンドラの傍で丸くなる。そして毛布の中から手を出して、彼の脚に触れさせる。するとチャンドラは腕組みを解いて、彼女の手をそっと握ってきてくれた。その手の温かさを感じているうちに、フェレシュテフは徐々に眠りに落ちていった。
どの雲も裏は銀色 かなえ ひでお @k_h_workshop
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます