第32話 砂に埋もれた破片(参)

 ナーザーファリンの娘であるフェレシュテフのことを家族にも伝えたい、色々な話を聞きたい。だからどうか一晩だけでも泊まっていってはくれないだろうかと、ザルリンドフトが願い出てきた。有難い申し出だとは思ったのだが、フェレシュテフはやんわりとした口調で確りと断りを入れる。亡き母親と過ごした日々の思い出を楽しく語ることは出来ても、父親の話題に触れられると困ってしまうからだ。

 これ以上此処に滞在していては確実に父親の話題に触れられるのだろうと危惧したフェレシュテフは、早々に退散することに決める。父親――ヴラディスラフとのことはフェレシュテフの中で未だ決着がついているとは言い難い状態で、出来れば彼の話題に触れられたくないと思っているのだ。

 再び全身を覆い隠す外出着チャードルを纏ったフェレシュテフは案内された中庭でチャンドラと合流し、いそいそと出立の準備を始める。そしてザルリンドフトとソルーシュ、彼の息子たちに見送られてフェレシュテフとチャンドラの二人は町を後にしていった。




 地平線を見渡せる広大な荒れた大地を進んでいって、暫く経過した頃。馬上のフェレシュテフは徐にきょろきょろと首を動かして周囲を見回し、誰の姿も気配も感じられないことを確認してから、馬とロバを引いて歩いているチャンドラに声をかけた。彼が振り返らずに返事だけを寄越してきたので、フェレシュテフはそのまま言葉を続ける。


「御主人とはどのようなお話をされていたのですか?」


 チャンドラはソルーシュに連れられて、別の部屋へと案内されていた。恐らくはフェレシュテフと同じようにもてなされていたのだろうと容易に想像出来たが、男同士でどんなことを話していたのだろうかと彼女は何となく気になったようだ。


「ここから先の道で野宿するのに丁度良い場所とか、追い剥ぎが出やすい場所とか、特に意識して気をつけた方が良いっていう戒律のこととか教えて貰ったり……後は世間話とかしてたな。フェレシュテフは女同士でどんな話してたんだ?」


 何気ないチャンドラの問いに、フェレシュテフは思わずどきっとする。彼女は逡巡してから、微かに声を震わせて、その問いに答える。


「……あの家の方々は、私の母の家族かもしれないそうです。他愛のないことを話していて、そのうちに母の話題に触れて……幾つかの共通する事柄がありまして、それで若しかしたら、そうなのではないかと……」

「ふぅん………………はぁ!?」


 フェレシュテフの口から出てきた言葉を何気なく聞いていたチャンドラだが、途中で様子がおかしいことに気がついたらしい。歩みはそのままに、目を丸くしたチャンドラが勢い良く振り返る。それに驚いたのか、馬が大きく体を震わせたので、横座りで馬に乗っていたフェレシュテフが体勢を崩して前のめりになる。危うく馬上から転げ落ちそうになるが、チャンドラの腕がさっと伸びてきて体を支えてくれたので、フェレシュテフは大事に至らずに済んだ。


「あー、何だ。不思議なこともあるもんだな……」

「ええ、そうですね……」


 ザルリンドフトから聞かされた話を、フェレシュテフがぽつぽつと語る。チャンドラは話の腰を折るようなことはせずに、適度に相槌を打ちながら静かに耳を傾けてくれていた。


「おっ母さんの家族かもしれねえんだったら、泊まっていった方が良かったんじゃねえか?」


 フェレシュテフをゆっくりと休ませてやりたいと思っていたチャンドラにとって、「どうぞ一泊していってください」ソルーシュの申し出は有難かったのだが、長く滞在するとなると、ふとした拍子に自分とフェレシュテフの関係が露呈してしまうのではないかと考えたので、彼も一泊することを断っていた。フェレシュテフもまた誘いを断ったのと言ったので特には気にも留めてはいなかったのだが、こうして彼女の話を聞き、今更ながらにソルーシュの申し出を受けておけば良かったかとチャンドラは後悔する。


「……いいえ、そんな気にはなりませんでした。母の話を聞きたいとは思ったのですけれど、私には触れられたくない話題があるものですから……」

「……そうか」


 フェレシュテフに付き纏う複雑な事情を知っているチャンドラは、それ以上は問うてはこなかった。そのことにフェレシュテフは安堵して、小さく息を吐く。すると不意にチャンドラが再び振り返ってきた。


「あなた?」


 彼の目はフェレシュテフを通り越して、ザルリンドフトたちがいる町の方へと向けられている。フェレシュテフもそれにつられて、体の向きを変えて其方を見てみたのだが――此方へと向かってくる人影のようなものがかろうじて見えるだけだ。


「……ソルーシュの旦那か?」

「え?」


 人影のようなものが段々と近づいてきて、それが馬に乗っている人間であることは分かってきた。けれどもフェレシュテフの目はそこまでしか映さない。対して、チャンドラの目は判別が確りと出来ているようだ。彼の口から出てきた名前を耳にしたフェレシュテフはきょとんとする。




「やあ、追いつけて良かった」


 馬から下りようとしたソルーシュに「どうぞ、そのままで」と声をかけ、チャンドラは続いて「何かありましたか?」と尋ねる。ソルーシュはチャンドラに苦笑を向けると、そのまま視線をずらして――フェレシュテフを見つめてきた。


「お連れの女性が末の妹の娘だと、母から聞きましてね。宜しければ少しだけ……話をさせて頂けませんか?」


 もう少し進むと岩場があり、其処でなら人目を気にすることなく話が出来るとソルーシュが申し出てきた。どうしたものかとフェレシュテフが逡巡していると、チャンドラはあっさりとその申し出を受けていた。


(話って、何をするの……?)


 フェレシュテフの動揺を余所に、事はどんどんと進んでいく。目的の岩場へと到着してしまうと、フェレシュテフはチャンドラによって馬から下ろされてしまった。

 日差しを遮ってくれる大きな岩の前にフェレシュテフとソルーシュが対面して座る。チャンドラは邪魔者がやって来ないように見張りをするといって、少し離れた所に佇んでいる。遠くにいるわけではないが、直ぐ傍にチャンドラがないのでフェレシュテフは不安になる。そして初対面であるソルーシュの前にいることで緊張してしまい、視線をきょろきょろと彷徨わせてしまう。


「失礼を承知で申し上げるが……どうか顔を見せては貰えないだろうか?」


 しんと静まり返っていた空気を変えたのは、ソルーシュだった。

 ソルーシュの申し出はフェレシュテフには問題のないことだが、それは戒律に反することになるのではないだろうか。けれども「失礼を承知で」とソルーシュが前置きをしていたので、フェレシュテフは顔を隠していた白い布をとり、頭に被っていた黒いチャードルを下ろし――恐る恐る正面を見る。

 ソルーシュは驚きのあまり、表情を強張らせているようだ。けれども徐々に強張りが解けていき、ソルーシュは懐かしそうに目を細めて、遂には破顔一笑していた。


「……ああ、ナーザーファリンに瓜二つだ。髪と目の色はヴァージャと……我が友ヴラディスラフ・ネクラーソフと同じ色だ。貴女は間違いなく……ナーザーファリンとヴァージャの娘だね」


 ソルーシュの口から、父親の愛称である”ヴァージャ”、そして本名である”ヴラディスラフ・ネクラーソフ”が出てきた。それを耳にした瞬間フェレシュテフは、彼とは本当に繋がりがあるのだと感じとる――ソルーシュとザルリンドフトは間違いなく母方の親族だったのだと。それからソルーシュは、フェレシュテフに顔を隠すようにと促してきた。顔を見せて欲しいと言ったのは、フェレシュテフと自分とに確かな血の繋がりがあるのかどうかを確認したかっただけのようだと察した彼女はそれに従い、いそいそと身形を整える。


「それでは改めて。ナーザーファリンの長兄、ソルーシュだ。貴女の伯父に当たる」

「ナーザーファリンとヴラディスラフの娘、フェレシュテフです。伯父様にお会い出来ましたことを大変嬉しく思います。どうぞ、宜しく御願い申し上げます。その……申し訳ないのですが、私は母の家族の話をあまり聞いたことがなくて、母が砂漠の国の生まれであるということしか存じ上げておりません」


 だから自身とソルーシュに確かな繋がりがあるようだと分かったものの、初対面ということもあってかどうしても人見知りをしてしまう。そんなことをしてしまって申し訳ないとフェレシュテフが詫びを入れると、ソルーシュは「それは仕方のないことだろう。実は私も緊張している」と苦笑しながら言ってくれたので、フェレシュテフはほっと息を吐く。

 こうして挨拶をやり直すと、再び二人の間に沈黙が生まれる。ヴェールの下で気まずそうな表情を浮かべているフェレシュテフが話題を模索していると、神妙な面持ちをしたソルーシュが視線を落としたまま、ぽつりと口を開いた。


「母とは……貴女の祖母とはどんな話をしていたのかね?」

「簡単にですけれど、母の生い立ちや、母と父の出会う切っ掛けや……駆け落ちをしていくまでのことなどを伺いました」

「……そうかね。それでは、私がしたことも聞いたのだろう?」

「はい……。あの……伺っても宜しいでしょうか?どうして、母と父を逃がしてくださったのですか?」


 駆け落ちをした末妹と、親しくしていた異国の男をその手で殺した――と偽り、ソルーシュは彼らを逃がしてやった。ザルリンドフトは、そう語っていた。

 戒律を遵守している人々が暮らしている土地に生まれ育ったのだ、そんなことをしてしまえばどのような結末を迎えることになるのか。ソルーシュはそのことを、誰よりも理解していただろう。それでも成し遂げたということは、何か深い事情でもあったのではないか、と、想像したフェレシュテフが問いかけると、ソルーシュは困ったような表情を浮かべて暫しの間思案する。


「もう……随分と昔のことだ。どうしてそんな真似をしたのか……忘れてしまった」


 覚えているのは年の離れた末妹を我が子のようにも可愛がっていたこと、生まれ育った国は違っても気の合う友人が存在していたことくらいだと言って、ソルーシュは少しだけ寂しそうに笑って答えてくれた。


「そういえば、ヴァージャはどうしているかね?ナーザーファリンのことは聞いたが、ヴァージャのことは聞いていないと母が言っていたのだが……」


 出来れば触れられたくないと思っている話題が遂に出てしまい、フェレシュテフの表情が硬くなる。布で顔を隠しているので、ソルーシュには気付かれていないことに安堵しながらも、フェレシュテフは動揺のあまり視線を彷徨わせる。するとソルーシュの言葉を聞いていたのか、別の方向を見ていたチャンドラが此方を振り向くのが見えた。チャンドラは彼女の胸の内に生まれた不安を察してくれたのかもしれない。声をかけてはこないが、その視線の強さで、いつだったか彼が言ってくれた言葉がフェレシュテフの脳裏に思い浮かんできた。

 ――何かあったら必ず助けるから、困った時は俺に言えよ。

 その通りに手を差し伸べてくれるつもりなのだろうと感じた途端に、心に纏わりついていた靄がさあっと消えていく。フェレシュテフはチャンドラの方へと顔を向けると、「問題はありません。大丈夫です」と伝える。チャンドラは小さく頷くと、再び見張りをする為に顔を前に戻した。但し、片耳だけはフェレシュテフの方へと向けられたままだ。恐らくは何かがあれば直ぐに間に割って入れるようにと聞き耳を立てていてくれるのかもしれないと思い、フェレシュテフは嬉しくなる。


「大奥様には申し上げられなかったことがあります。実は母と父は、私が物心つく前に離れ離れになっていて……それから私はほんの数ヶ月前まで、父が病死しているものだと思っておりました」

「……どういうことだね?」


 それまでは穏やかであったソルーシュの表情が見る見るうちに強張っていく。その様を目にしたフェレシュテフはその先を語ることを躊躇してしまいそうになる。ソルーシュならば取り乱すこともなく話を聞いてくれるだろうと踏んで、話を切り出したのだが、彼は明らかに動揺している。けれども、もう言葉にして紡いでしまっているのだ。引き下がったとしても疑念を持ってしまっているソルーシュに問い詰められることは目に見えている。彼女は深く息を吸って、吐いて、騒ぎ出す心を落ち着けて、出来るだけ淡々と事実を語りだす。感情に任せるといけないような気がしたのだ。

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