第31話 砂に埋もれた破片(弐)

 ――私はナーザーファリンの母、そして貴女の祖母よ。

 と、唐突に打ち明けられても容易には信じられない。ザルリンドフトの娘とフェレシュテフの母親の名前、そして幾つかの偶然が一致しただけのことではないかとフェレシュテフは訴えるが、ザルリンドフトは聞く耳を持ってくれない。


「私の娘のナーザーファリンは亡くなったと言ったけれど……本当は違うのよ。スネジノグラードのヴァージャさんと駆け落ちをしていったの」


 世間体の為に「末娘は死んだ」と偽っていたのだと更に打ち明けてきたザルリンドフト。彼女は何かしらの確信を持っているようだが、フェレシュテフはそうではない。自分と彼女に本当に繋がりがあるのかと、疑念を抱き、不安そうな目で彼女を見つめる。


「……ナーザーファリンさんとヴァージャさんについて、お話して頂けますか?」

「ええ、勿論よ」


 一先ずザルリンドフトから話を聞きだして、自分が知っていることと照らし合わせてみよう。そう考えたフェレシュテフが尋ねてみると、ザルリンドフトは快諾してくれた。




「末娘のナーザーファリンはおっとりとしているけれども芯の強い、そして心の優しい娘だったわ。手先も器用で何をやらせてもあっという間に覚えてしまって……特に弦楽器シタールを弾くのが上手でね、家族が集まる食事時や何かの時によく弾いてくれたものだわ」


 そんな末娘を父母は勿論、上の兄姉も可愛がっていた。ナーザーファリンを絶対に良縁のところに嫁がせてやるんだと父親が息巻いていたほどだとザルリンドフトは言って、当時を思い出したのか困ったように笑う。


(……お母さんも手先が器用な人だったわ)


 母親との思い出がフェレシュテフの脳裏に浮かぶ。ナーザーファリンは針と糸を持たせれば見事な刺繍を縫い上げる腕前を持っていて、纏まったお金が入った時などは美味しい料理を作ってくれ、古びたシタールを弾いて楽しませてくれたものだ。ささやかだが幸せな一時の記憶が僅かばかりの寂しさへと変貌を遂げ、フェレシュテフの胸のちくりと刺さったような気がした。


「そろそろ結婚相手を見つけなくてはと主人が張り切っていた頃だから、ナーザーファリンが十五、六歳になった頃かしらね。長男のソルーシュが……ああ、家の前であったあの人ね。貴女の伯父になる息子が、異国からやって来た旅行者をお客様として連れて来たの」


 その旅行者というのが、スネジノグラード出身のヴァージャだ。本名は何だか難しくて発音出来なかったので、誰もが彼のことを”ヴァージャ”と呼んでいたそうだ。ヴァージャは偶々この町でソルーシュと出会い、意気投合した末にこの家へとやって来て、長らく滞在することとなったのだった。


(お母さんはヴラディスラフが言えなくて、あの人をヴァージャと呼んでいた……)


 黒い鱗の竜人ジラントを伴って、突然フェレシュテフの前に現れた雪国の生まれのヴラディスラフ。彼が未だ、自身をナーザーファリンの知人だと偽っていた頃に聞いた話を思い出して、ザルリンドフトの話と照合して、彼女の娘のナーザーファリンとの共通点を探していく。


「家族以外の男性に顔を見せてはいけないので、私は直接はヴァージャさんと言葉を交わしたりしたことはないの。昨年亡くなった夫やソルーシュから聞く分には、ヴァージャさんは誠実で心の良い人だったそうよ」


 異国人であるヴァージャは戒律に詳しい方ではなかったが、注意を受ければ素直に聞き入れ、それ以降は戒律に気をつけて行動する人物だったらしい。故にソルーシュもザルリンドフトの夫ヌーリも彼のことを気に入っていた。


「お客様を迎えて賑やかな日々を過ごしていた或る日、ナーザーファリンに結婚の話が持ち上がったの。相手はこの砂漠をもっと進んだ先にある街のお金持ちの男性だったわ」


 戒律では男性は四人まで妻を持つことが許されている。豪商だと言うその男性には既に二人の妻が存在し、幾人もの子供を儲けているそうで、ナーザーファリンを三人目の妻として迎えたいということだった。ナーザーファリンのことは象嵌細工職人であるヌーリやソルーシュが品物を納めている卸問屋の主人を介して知ったらしい。


「娘に結婚の話が持ち上がるということはとても喜ばしいこと。相手の男性の家が裕福であるというのであれば、尚更ね。少しでも楽な生活が出来る家に嫁がせてやりたいという親心よ」


 然しだ、その縁談には素直に喜べない事情があった。その豪商の男性にはまことしやかな噂があったのだ。彼は商売の才能はあるのだが、女性の扱いが宜しくないという。何でも過去に一人の妻を亡くしており、その妻は彼の暴力によって死んだのではないかと言われているほどらしい。


「離れた町でもそんな噂が流れているほどだから、夫は悩んでいたわ。それでも一応はと言って、ナーザーファリンに話をしたの」


 二周りも年が離れている男性との縁談が持ち上がっていることを父親から知らされたナーザーファリンは、顔を蒼白させて、恐る恐る打ち明けてきたそうだ。――思いを寄せている男性がいると。そんなことは寝耳に水だったヌーリは驚愕し、その男性とは誰のことなのだと彼女を問い詰める。初めのうちは全く口を割ろうとしなかったナーザーファリンだったが、その強情さに呆れたヌーリが「言ってみるだけ言ってみなさい。望ましい相手であるのならば、結婚の話をつけにいく」と説得をしてみると、そこで漸く彼女は口を開いた。


「ナーザーファリンが思いを寄せている男性というのは、我が家にいらっしゃったお客様であるヴァージャさんだったの」


 ナーザーファリンもヴァージャも戒律を守っていたので、二人に接点はなかったはずだった。その二人が一体いつの間に交流を持っていたのか、父母は全く見当がつかず、おろおろとするばかりだ。幸いだったのは、二人が未だ清い関係であったことだとザルリンドフトは心情を吐露する。


「正直に言って悪い噂のある男性よりも、ヴァージャさんの方が娘を嫁がせる相手としては好ましいと夫は言ったの。夫はナーザーファリンに約束した通り、ヴァージャさんにナーザーファリンとの結婚話を持ちかけたのだけれど……あの人はその話を一度断ったそうよ」

「……亡くなったご主人は、ナーザーファリンさんとヴァージャさんの結婚に反対をしていなかったのですか?」


 フェレシュテフが母親と父親の両者から聞いている話では、二人はナーザーファリンの父親に結婚を反対されて、それで駆け落ちをしたのだということ。ザルリンドフトの語る内容との食い違いにフェレシュテフは首を傾げ、思わず疑問を口に出していた。


「文化が全く違う異国の人に嫁ぐことは難しいのだろうとは思っていたようだけれど、夫は特には反対はしていなかったわ」


 ヌーリの申し出に対し、ヴァージャはこう答えたそうだ。


『こうして自由に旅をしている身ではありますが、結婚相手は自由に決められないのです。故国に戻ったらきっと親に決められた相手と結婚するのだろうと思っています』


 ナーザーファリンのことは好ましく思っているが彼女と結婚は出来ないと、はっきりと断られた。ナーザーファリンには申し訳ないがヌーリも、それを聞いたザルリンドフトも安堵したらしい。父親から事の顛末を聞かされたナーザーファリンはヴァージャへの思いを断ち切れず、胸に秘めたままでいることにしたようだった。母親であるザルリンドフトの目にはそう映った。


「豪商の方との縁談も断ったわ。我が家と貴方様の御宅とでは格が違い過ぎて釣り合わない。ナーザーファリンは末の娘と言うことで甘やかして育ててしまったという嫌いがある。そんな世間知らずの娘を嫁がせて、貴方様に恥をかかせてしまってはいけないからと言って」


 豪商の男性の一族と姻戚関係を結べば、此方の一族も有難い恩恵を受けられるのだと誘惑に駆られそうになりもしたが、ヌーリは娘を生贄にしようとは考えなかった。そのことで恩恵を求めた親族に責められることもあったが、ヌーリは頑として譲らなかった。


(ヴァージャさんはお母さんとの結婚話を断った……それなのに、二人は駆け落ちをしたの?)


 ここからどうやって、現在へと繋がっていくのだろう。フェレシュテフは漠然とした不安を抱えながら、ザルリンドフトの話に耳を傾ける。

 一方、縁談を断られた豪商は破談に納得がいかなかったようで、何度も仲介人を寄越し、何とか縁談を実らせようとしてきた。更には取引相手の卸問屋の主人も豪商に頼まれたのだろうか、ヌーリに縁談の話を持ちかけてくる始末だ。それでもヌーリは話を断り続けた。


「何度も断っても相手の方はナーザーファリンを諦めようとはしてくれなくて……」


 当時のことが脳裏に過ぎったのか、ザルリンドフトの表情が翳り、口調にもどこか力が無くなってきた。


「象嵌細工職人のヌーリは相手が相手だけに結納金の額を吊り上げようとして、娘を嫁がせるのを渋っているのだと根も葉もない噂を流されてしまってねぇ……」


 ナーザーファリンが手に入らないと分かって余計に燃え上がってしまったのかどうかは分からないが、豪商は手段を選ばなくなってきた。とんでもない噂をばら撒き、ヌーリたち一家の信用を奪うことにしたようだとしか思えなかったとザルリンドフトが苦々しく語る。

 腹が立つことに、その効果は絶大だった。品物を納めていた卸問屋も自らの信用に関わるからと取引を渋るようになり、生活費が稼げなくなってしまい、生活は徐々にそして確実に困窮していった。

 そうなるのを狙ったかのように、遂に豪商の男がこの家に自ら乗り込んで来た。「生活に困っているのであれば助けよう。それが富める者の勤めだ」などと嘯いた豪商は条件を出してきたのだ。ナーザーファリンを差し出すようにと。


「尚も夫が折れないでいると、夫の頑なな態度に激怒して……その方は夫を殴りつけたの」


 騒ぎを聞きつけたソルーシュとヴァージャが間に割って入ってその場を収めようとしたが、騒ぎは大きくなるばかり。意固地になってしまっている豪商は周りの人間の諫言を聞かずに女性の領域へと踏み込んでいく。部屋の片隅で震えていたナーザーファリンを連れ去ろうとして、豪商はそれをヴァージャに阻止された。ナーザーファリンを守ろうとするヴァージャを怒り狂っている豪商が痛めつけているうちに、町の自警団員たちが駆けつける。そこで漸く騒ぎが収束していくかに思われたが――その豪商はとんでもないことを言ってのけたのだ。騒ぎの原因はヴァージャであると。

 相手は他の町の人間であるとはいえ、権力者。一方のヴァージャはこの地域の有力者の後ろ盾もない異国人で、この町においては非常に分が悪い。彼の反論は碌に聞いて貰えず、ヴァージャは不当に自警団の詰め所へと連行されてしまう。そして拷問とまでは言わないものの、結構な仕打ちを受けてしまったようだ。ヴァージャを迎えにいったソルーシュからそう聞かされた時は肝が冷えたと言って、ザルリンドフトは神妙な面持ちで嘆息した。


「……そんなことがあって、二人はお互いの気持ちにはっきりと気がついたのかもしれないわね。明くる朝、二人は忽然と姿を消していた。町中を探しても見つからなくて……駆け落ちをしていったのだと気づくのにはそれほどかからなかったわ」


 親が決めた相手と結婚することが常識とされている世界では、駆け落ちをすることなど言語道断だ。「何とかして見つけ出してナーザーファリンを連れ戻して来い」とヌーリに命じられたソルーシュが旅立ち――暫くして、或る物を持ち帰ってきたのだ。

 それは血に塗れた男女の服と、黒と金茶の髪の束だった。


「あの二人は結婚をしていないというのに、体の交渉を持ってしまった。それは罪だ。罪を犯した妹を連れ戻したとしても別の男性の下へと嫁がせることは出来ない。不道徳な娘を育て上げてしまったと糾弾されることは間違いない、それは家族の名誉にも関わることだからと……この手で断罪してきたのだと、ソルーシュは淡々と告げてきたの。あの時のソルーシュの凍てついた表情は今でも忘れられないわ……」


 証拠となる二人の死体は持ち運べそうにもなかったので、服を剥ぎ取り、髪を一房ずつ切り取ってから近くの川に死体を投げ捨ててきたのだと言うソルーシュから血塗れの服と髪の束を受け取ると、ヌーリは彼を伴って或る場所へと向かって行った。

 ヌーリとソルーシュが向かったのはナーザーファリンに酷く執着していた、あの豪商の許。ヌーリはソルーシュに渡された物を豪商に見せつけて、事情を説明した。――末娘とあの異国人の男が駆け落ちをして、体の交渉を持ってしまった。彼らを追いかけていった長男はそれを知り、罪を犯した二人をその手にかけてきた。この血塗れの服と髪の束がその証拠だ、と。

 縁談を断ったりと、数々の無礼をかけたことをお詫びする。貴方の気の済むようにしてくれて構わない。一家の主としての責任を全うする所存だと言ったヌーリを、蒼い顔をした豪商は許した。名誉の為に殺人を犯すことは、この地域では稀にある。然し、実際に実の妹を長兄が殺してしまったと聞いて、流石の暴君も恐れ戦いたのかもしれない。駆け落ちのことも、ソルーシュが妹を殺したことも周囲に吹聴したりはしなかったそうだ。

 そんな話を聞いたフェレシュテフも思わず身を震わせてしまった。


「そうして何年も経たないうちにその豪商の方は亡くなって……ナーザーファリンがいなくなって二十年近く経った昨年のことだったわ、夫が臨終の間際に突然打ち明けてきたの」


 ソルーシュがナーザーファリンとヴァージャを殺したというのは、嘘だった。二人を見つけ出したソルーシュはナーザーファリンを連れ戻そうとはせず、「決してあの町に戻ってくるな」と言い含めて、二人を逃がしたのだという。それを聞いたヌーリはソルーシュと二人で話し合って、嘘を吐いたのだそうだ。怒り狂った豪商に殺される覚悟で。


「それだけを告げて、夫は静かに息を引き取っていった。ソルーシュに尋ねてみたけれど、あの子は詳しくは話してくれなかったの。でも、『本当は二人を殺していない』と……それだけは答えてくれた。私はナーザーファリンが生きているということが分かって……複雑な気持ちになったわ。安心したような気もするし、これで本当に良かったのだろうかと不安にもなったし……知らない場所で幸せに生きていてくれたら良いと願いもした……」


 そして時はまた過ぎ去っていって、唐突に出会いを呼び込んでくる。決して会うことはないだろうと思っていたナーザーファリンの娘がこの町を訪れてきた。それを奇跡と呼ぶ以外に何があるのだろう。

 ザルリンドフトの話はここで一旦終わり、部屋の中に暫しの沈黙が訪れる。その沈黙が何だか重苦しく感じられたフェレシュテフは話題を振ろうとするが、話の種が思いつかないでいる。視線をあちこちに動かして考え事をしていると、そのうちにザルリンドフトの方から話を振ってきた。


「……ナーザーファリンは……貴女のお母様は、もう亡くなられているのだったわね?ナーザーファリンは好いていたヴァージャさんと一緒になれて、貴女という娘を儲けて、幸せだったのでしょうね……」


 目を潤ませて微笑んでいるザルリンドフトへの返答に困り、フェレシュテフは俯く。

 フェレシュテフはナーザーファリンの娘として生まれて幸せだと、胸を張って言える。けれども、ナーザーファリンはどうだったのだろう。知らされていなかった、知りたいとも思っていなかった真実を知ってしまった今では、「母はきっと幸せだっただろう」とザルリンドフトに気安く言っても良いのだろうかと考えてしまい、言葉を発するのを躊躇してしまう。

 複雑な感情が胸の内で渦を巻いているフェレシュテフはほんの僅かな時間だが、彼女には長く感じられる時間で考えて――フェレシュテフは仕事用の微笑を顔に貼りつける。


「……ええ、母は幸せだったと思います」


 そうであって欲しいと願っているだろうザルリンドフトに対して、フェレシュテフは彼女が望んでいるのだろうと思われる返事を寄越していた。

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