第25話 晴れ、後、曇り

 朝の訪れを告げる長鳴鶏の張りのある声で、フェレシュテフは目を覚ます。近所で飼われているその鶏の御蔭で、フェレシュテフは寝坊をすることはない。

 慣れた手つきでサリーを体に巻きつけると、ヴラディスラフが贈ってくれた鏡台の前に腰を下ろして、波打つ金茶色の髪を梳っていく。普段であれば緩めの三編みをして済ませるのだが、この日は珍しく、顔の両脇の髪を編みこんでいき、後頭部の高い位置に結い上げ、髪紐で留める。そうすることで隠されていた項が露になり、彼女の首の細さが際立つ。小物入れにしまっていた装飾品を一つ一つ身につけていき、最後に鏡を見ながら、大切な耳飾りをつける。


『……似合ってる。綺麗だ』


 身支度を済ませたフェレシュテフは照れ屋の白い虎の亜人ドゥンの言葉を思い浮かべて、鏡の中の自分に微笑みかけた。




 職場である食堂”アパーム・ナパート”へとやって来たフェレシュテフは、開店準備を始めていた店主夫婦と挨拶を交わし、早速仕事に取りかかる。せっせと店内の掃き掃除をしていると、厨房で食材の下拵えをしていた女将のシャンティがひょっこりと顔を覗かせてきた。


「ねえ、フェレシュテフさん。耳飾りを変えたのかい?素敵だねえ、それ」


 フェレシュテフは箒で床を掃いていた手を止めて、中腰だった姿勢を正す。青いビーズのついた耳飾りに手を触れると、照れた様子で女将の方へと顔を向けた。


「お休みの日に、大切な人から頂いたんです。とても嬉しくて……早速つけているんです」

「そうなの、良かったねえ。似合ってるよ、それ。ねえ、あんた!」


 フェレシュテフの返答に満足気に頷いたシャンティが、背後で黙々と手を動かしていた店主のダヤラムに返事を求める。作業を続けながら器用に立ち上がったダヤラムはフェレシュテフに目を向けると、にっと笑った。


「うんうん、似合ってるよ。フェレシュテフさんは美人だから、何でも似合うよ」

「女房の目の前で若い娘さんに鼻の下伸ばしてるんじゃないよ、あんた!」


 にこにこと笑いながら夫婦喧嘩をしている二人を宥めつつ、フェレシュテフもつられて笑う。娼婦をしていたことを知った上で雇ってくれ、更には人間として扱ってくれる店主夫婦に彼女は非常に感謝している。人の良い彼らが経営しているこの食堂の雰囲気は明るく賑やかで、居心地が良い。その証拠に、常連客が沢山いるのだ。いつまでも此処で働いていけたら良いと、フェレシュテフは心の其処から願っていた。




 食堂”アパーム・ナパート”は昼時が一番忙しい。

 その時間帯になると周辺で働いている男たちがゾロゾロとやって来て、席にどっかりと腰を下ろすなり、次々に料理の注文をしてくる。注文の一言一句を聞き逃さないようにと神経を研ぎ澄ませ、ダヤラム夫妻が拵えた自慢の料理を客の許まで急いで持っていく。その作業に慣れるまでの間、フェレシュテフはあちこちから飛んでくる注文を聞き間違えたり、料理を運ぶ席を間違えたりしたものだ。気の荒い客たちに叱責されたりして落ち込みはしたが、先輩従業員のガウリや店主夫婦の厳しくも温かい指導によりフェレシュテフは成長を遂げる。今では常連客の顔と”いつもの”を覚え、フェレシュテフが忙しくしているのを狙って尻を触ってくる客の手を叩き落としたり、口説いてくる客をあしらったりすることが出来るまでになっていた。

 忙しい時間もあと少し、というところ。フェレシュテフは妙な視線を感じていた。怪訝に思って振り返ってみると、店の入り口付近の席についている若い男の客と視線がぶつかった。するとその客が手招きをしてきたので、何か不手際でもあったのかと少しばかり焦った。


「お客様、どうかなさいましたか?」

「ねえ、君、この辺りの出身じゃないんだろ?何処から来たの?」


 二十代から三十代くらいと思しき、顔の彫りが深い色男の問いにフェレシュテフは内心で「またか」と呆れる。定型句と言ってしまいたいような、この手の質問に答えるのは何度目だろうと。


「両親の出身はマツヤではありませんけれど、私は生まれも育ちもこの町ですよ」


 決まり文句を述べたフェレシュテフは会釈をして、空いた席の片付けに戻る。その男の視線は、フェレシュテフに貼りついたままだ。やり辛さを堪えて仕事に専念していると、再び手招きをされた。相手が客である以上、よっぽどのことをされない限りは邪険に出来ないので、フェレシュテフが応じると、相手は会計を求めてきた。料理の代金の支払いを済ませた男は立ち上がり、フェレシュテフに顔を寄せ、「また来るよ」と告げて、食堂を後にしていった。

 何だか寒気を感じたフェレシュテフが訝るような表情で出入り口を眺めていると、手が空いたらしい先輩のガウリが耳打ちをしてくる。


「フェレシュテフさん。あの男には気をつけた方が良いわよ」

「え?」


 あの男とは、今出て行った色男のことかと尋ねると、ガウリは「そうだ」と頷いた。


「あの方、何か問題でも……?」

「大有り。良い噂なんて聞いたことがないわね」


 噂好きを自称するガウリによると、フェレシュテフに接近してきたあの男――モーハンは市場近くの家具屋の若旦那らしい。家具屋の経営が上手くいっている――経営の実権を握っているのは父親――ので羽振りが良く、また容姿も良いので女には苦労していない彼には妻子がいる。それにも関わらず色町に繰り出して遊び回っているのだとか、ガウリの口からは碌なことが出てこない。


(……若しかして、一度相手をしたことがあったのかしら?)


 一夜の相手をしたことがあるかと記憶の糸を手繰り寄せてみるが、その中にモーハンらしき男の顔が全く浮かんでこない。閨事の最中は殆ど相手の顔を見ない、ということもあるのだが。声にも全く聞き覚えがないので、フェレシュテフは首を傾げるばかりだ。


「あの男に目を付けられると厄介だから、気をつけなさいね。耳飾りを贈ってくれる人がいるなら、尚更ね」

「……はい」


 ガウリの忠告を有難く頂戴したフェレシュテフは手に持っていたお金を売り上げ入れの箱にしまい、再び仕事に戻っていった。






**********






 翌日も似たような時間にモーハンはやって来て、フェレシュテフの手が空いた頃合を見計らって、ちょっかいをかけてきた。ガウリの予想は的中していたらしいと、フェレシュテフは嘆息する。適当にあしらってもモーハンはめげることなく彼女に声をかけてくるし、事故を装って彼女に触れようとしてくる始末だ。思い切って「好き合っている人がいるので、ちょっかいをかけるのは止めて欲しい」と告げたのだが、効果がないのでフェレシュテフは困ってしまう。


(何だか、私の気を引こうとしているこの人の姿が、少し前の私と重なるような……)


 素っ気無いチャンドラの気を引こうとして、菓子作りに励んでいたことがあるフェレシュテフ。その行動がチャンドラの迷惑になっていたのかもしれなかったのかと想像するだけで、ぞっとする。


『何でこいつはこんなに菓子を持ってくるんだ?とか思いはしたが……嫌じゃなかったぞ。菓子を食うのは好きだし……フェレシュテフが作る菓子が美味かったし……』


 いつだったかの逢瀬の時に、目を逸らしながら呟かれた言葉が真実であるとフェレシュテフは切に願う。そして、落ち込みそうになった時に思い出す言葉を脳裏に浮かべて、沈みかけている気分を上げようとする。


『目を潤ませて見上げてくるフェレシュテフが仔犬みたいで可愛いとか、思ったんだよ。悪いか……っ』


 それは「どうして私のことを好きになってくださったのですか?」という質問に対するチャンドラの返答だ。多少乱暴な物言いだったが、そこには確かに愛情があることが感じられるので、幸せな気分になれる。


「何か良いことでもあったのかい、フェレシュテフさん?」


 思い出し笑いを浮かべているところを見たらしいモーハンはすかさずフェレシュテフに声をかけてくる。それに対して「そうですね」とだけ返事を寄越すと、彼は大袈裟に肩を竦めてから、会計を済ませて店を後にしていった。

 全く靡く気配を見せないフェレシュテフに業を煮やしているのか、はたまた彼女を落とすことに燃え上がってしまっているのか。モーハンは暇を見つけては、食堂にやって来るのだ。その日は昼の忙しい時間を避けて、比較的余裕のある時間にやって来るなり、彼はフェレシュテフを席に呼びつけてきた。


「いらっしゃいませ。御注文はお決まりですか?」


 仕事用の笑顔を貼り付けて対応すると、彼は注文をすることなく、じっとフェレシュテフを見つめてきた。そのじっとりとした熱視線を受けたフェレシュテフは悪寒を感じてしまったが、何とか表情には出さないで済んだ。


「市場でね、素敵な首飾りを見つけたんだよ。君に似合うんじゃないかと思って買ってきたんだ。受け取ってくれるかな?」


 モーハンが手にしているのは緑色の石が鏤められた見事な銀細工の首飾りで、一目見ただけで非常に高価なものだと分かるほどの代物だ。


「……お気持ちは有難いのですけれど、そのような高価な物を頂く訳には参りませんわ」


 その首飾りは美しいと思う。けれど、手に入れたいとは思わない。フェレシュテフが物を贈って欲しいと願う相手はモーハンではなく、チャンドラだからだ。


「奥様がいらっしゃると伺っております。その首飾りは、是非とも奥様に」


 断固として受け取りを拒否すると、モーハンは首飾りを贈ることは諦めたようだが、何事もなかったかのように「何処かに出かけないか?」と誘ってくる。

 地域によっては一夫多妻の婚姻の形式が認められているが、マツヤの町の人間は基本的に一夫一婦の形式をとっている者が多い。経済的に余裕のある男性は公然と愛人を囲っていることもあるようだが。モーハンは地元の人間の女性とは毛色の違うフェレシュテフで火遊びをしたいようだが、彼女は決してそれを望まない。


(大きな声で言えなくても、私はチャンドラさんの妻ですもの。番ですもの……)


 誘いを断っても尚しつこくモーハンが食い下がってくるので、見かねたガウリが助け舟を出してくれ、何とかその場から逃げることが出来て、フェレシュテフはほっとした。


「有難う御座います、ガウリさん。助かりました」

「あいつ、貴女みたいな大人しい女が好みなのよ。……大分ご執心みたいだから、帰り道とか、気をつけなさいね」

「……はい。充分に気をつけます」


 フェレシュテフが食堂の片隅でガウリの話に耳を傾けている間も、モーハンはじっとりとした視線をフェレシュテフに向けていた。



 ――夕方。

 その日の仕事が終わり、店主夫婦とガウリに挨拶をしてから食堂を後にしたフェレシュテフは市場に立ち寄っていた。必要な物を買い揃えたので家路に就こうとした時、不意に声をかけられた。


「ねえ、其処の方」


 朝昼と違って人の往来が緩やかになっている市場の通りで、フェレシュテフが徐に振り返る。幼い子供を二人連れた女性が佇んでいる。生まれて一年も経っていないような赤ん坊を片手に抱いて、もう片方の手で二、三歳くらいの幼女の手を握りしめているその女性は鋭い目つきでフェレシュテフを見てきた。


「貴女、”アパーム・ナパート”で働いている方?フェレシュテフっていう名前の?」

「ええ、そうですけれど……」


 その女性とは初対面のはずだが、彼女は何故かフェレシュテフの名前を知っている。それはどうしてなのかと問おうとした瞬間、フェレシュテフは勢い良く近づいてきた女性に頬を引っ叩かれていた。頬を叩かれたフェレシュテフは勿論、突然母親から手を離された幼女も通りがかった人々も状況が飲み込めず、ただただ呆然とする。


「他人の旦那に色目を使ってんじゃないわよ、この阿婆擦れ!!」

「……えぇっ?」


 何のことを言われているのか理解していないフェレシュテフに余計腹を立てた女性は、何度も何度もフェレシュテフを打ってくる。子供が二人とも泣き喚いているのだが、彼女は其方を放って、フェレシュテフを痛めつけることに没頭する。


(何?どういうこと?)


 腕を翳して相手の攻撃を防いで耐えていると、やがて攻撃が止まった。フェレシュテフは恐る恐る顔を上げて、様子を窺う。暴れて喚く女性を男性が背後から羽交い絞めにしているのが見えた。その男は――フェレシュテフを困らせている、あのモーハンだった。


「何をしているんだ、バラッティ!?」

「他人の旦那に色目を使ってる阿婆擦れに制裁を与えてんのよ!あんたもあんたよ!こんな女に鼻の下伸ばして!いつになったら女遊びを止めるのよ!?もう止めるって、何度言ったと思ってるの!?」


 言い争っている二人を見て、フェレシュテフは理解した。この女性はモーハンの妻で、夫に言い寄っていると思われるフェレシュテフの前に現れたのだと。


「だから、それは違うって言っているだろ!?余所者の女が珍しいから、少しからかっただけだって!」

「嘘吐くんじゃないわよ!あんたが市場で高い首飾りを買って、その女に渡しているところを見たって言う人がいるのよ!誤魔化しなんてきかないんだから!!」

「ああもう!兎に角帰るぞ、バラッティ!見世物になってるだろ!……悪かったね、フェレシュテフさん。お詫びはいずれ、必ず。……ほら行くぞ、バラッティ。ついておいで、ルピンデル」


 バラッティと呼ばれている妻は未だ何か物を言いたそうにしているが、とりあえずは夫の言うことに従うらしい。へらへらと笑っている夫に連れられて、彼女はのろのろとした歩みでその場を後にしていく。その後ろを、幼女が駆け足で追っていくのをフェレシュテフは呆然と眺めていた。


(……嫌な気分だわ)


 騒ぎを起こされた上に置き去りにされたフェレシュテフは、人々の好奇の視線に晒される。大人しそうな顔をして妻子ある男にちょっかいを出したのか。そんな女は妻に殴られたとしても仕方がない、当然だ。視線には、そんな思いが篭められているように感じられた。

 ひりひりと痛む頬には手をやらず、フェレシュテフは真っ直ぐ前を見て、今度こそ家路に就く。そして、静かに夜の訪れを待った。






**********






 逢瀬の夜。情事を終えたフェレシュテフとチャンドラは裸のまま、寄り添って微睡んでいる。未だ少し荒い息をしているフェレシュテフがうっとりとした表情でチャンドラの鼓動を聞いていると、彼は徐に口を開いた。


「……元気ねえな、フェレシュテフ。どうかしたか?」


 夕方に起こった出来事をチャンドラに知られないようにとフェレシュテフは振舞っていたつもりだったが、彼は何となく勘付いているようだ。気にかけて貰えることが嬉しくて、彼女はほんのりと笑みを湛えた。


「誤解があって、少し、諍いに。……でも、大丈夫です」

「どうしようもなくなる前に、俺に言えよ。?頼れよ?……フェレシュテフは、直ぐに一人で抱え込もうとするだろ」

「はい、あなた」


 ふかふかの体毛が密に生えている太い腕にしがみついて、フェレシュテフは頬を擦り寄せて、甘える仕草をする。チャンドラは反対の腕を伸ばして、フェレシュテフの長く美しい髪を撫でてきた。多少力が強い気がするが、髪を撫でられるのは心地が良くて、彼女は甘い吐息を漏らす。


「……あなた」

「うん?」

「勇気が出るお呪い、して?」

「……おう」


 猫撫で声でお願いをしてくる番の愛らしさに心を動かされて、チャンドラはゆっくりと体も動かす。仰向けに寝かせたフェレシュテフの上に覆い被さり、彼女の滑らかな頬を両手で包み込んで、互いに額をくっつけて、目を閉じて念じる。

暫くの間そうして、チャンドラは顔を離した。


「……勇気、出たか?」

「……はい。有難う御座います、あなた」


 ほっと小さく息を吐いて、チャンドラは愛しい番の柔らかな唇に自らのそれを重ねる。もっとして欲しくて、フェレシュテフは彼の首に腕を回し、何度も口付けを乞うた。首や耳の後ろを撫でたり、足を使って彼の欲望も刺激する。


「……こらっ、煽るなっ」

「ふふっ」


 欲望の埋み火がもう一度炎を燃え上がらせようとしてしまいそうで、チャンドラは戦いてフェレシュテフを諌める。けれども彼女は「平気」と呟いて、艶かしく微笑んだ。チャンドラがフェレシュテフに陥落するのは、目に見えている。何だかんだ言っても、チャンドラは面白いくらいにフェレシュテフに弱いのだ。

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