第26話 曇り、後、小雨
隠し事が苦手な性分である、という自覚がチャンドラにはある。だからチャンドラは秘密を抱えると、不必要に口を滑らせないようにと心掛けて、途端に黙り込むという傾向にある。チャンドラの性分を心得ている者が彼の様子を窺えば、「何かを隠しているな」と容易に察知することが出来る。つまりはチャンドラが秘密を隠そうとすればするほどに、周囲には怪しまれてしまっているのだ。
残念ながら、チャンドラはその落とし穴に気付いている気配はない。
人間、亜人を問わず様々な人々で溢れかえっている港は、今日もがやがやと騒がしい。その中にある”ヴィクラム商会”の事務所もまた、昼時を迎え、休憩に入った従業員の男たちが続々と停泊している船上や倉庫から戻ってきているので騒がしくなっている。
「お疲れ様~」
力仕事に精を出していた従業員たちに労いの言葉をかけていた受付嬢――
「……ねえ、チャンドラ。ここのところ、何だかにやにやしてるけど、良いことでもあったの?」
いつでも何処でも仏頂面のはずのチャンドラの顔が緩んでいる。更には彼の体に”彼のものではない匂い”もついている。何事かがあったのだと勘付いていたカドゥルーが愉しげに目を細めて、他の従業員たちの中に紛れていたチャンドラを捕まえ、問いかけた。いつ尋ねようかと、機を狙っていたらしい。
「……別に」
チャンドラは慌てて顔を引き締め、そそくさとその場から去っていく。その反応は、明らかに何かがあったと証明しているようなものだ。「隠し事をしても無駄なのに」と言いたげな視線をカドゥルーは彼の背中に送り、小さく息を吐く。
「どう考えても、あれは女の匂いよねぇ」
「お、やっぱりカドゥルー姐さんも気づいてたか」
彼女の独り言を耳にしたらしい
「隠しても無駄だってのに、チャンドラの奴、隠そうとするんだよな。態と香木の匂いを多めにつけて誤魔化してるつもりみてえだけど、俺らの鼻はそんなもんじゃ誤魔化せねえっての。鼻の利かない人間じゃねえんだからさぁ」
隠そうとされればされるほど余計に気になってくるよな、と言って、その
「それにしても……あの匂い、何処かで嗅いだことがあるような気がするんだけど……?」
記憶力は良いと自負しているので、カドゥルーは匂いの元を思い出せないことが歯痒い。うんうんと唸りながら記憶の糸を辿っているうちに一つの可能性に気がつき、彼女ははっとする。
「……まさか、ね。あのチャンドラが、そんなことするはずないと思うんだけど……」
まさかの可能性に思い至ったカドゥルーは引き攣るような笑いを浮かべる。すると来客があったので、彼女は直ぐに気持ちを切り替えて、営業用の笑顔を貼り付けて仕事に戻っていった。
**********
チャンドラが自分以外の匂いを漂わせている。それも雄臭くない、良い匂いを。女嫌いのチャンドラにも遂に女が出来たのか、と、職場でからかわれるようになってから暫く。チャンドラは、頭を悩ませていた。からかわれても知らぬ存ぜぬと惚けてしまえば良いのだが、彼の職場には侮れない人物がいるのだ。
(何も言われねえけど、絶対にカドゥルーには勘付かれてるよな……)
毎日、沢山の従業員や来客の相手をする仕事をしている為か、カドゥルーは他者の匂いは勿論、顔と名前も素早く正確に覚えてしまうのだ。カドゥルーとフェレシュテフは面識があるので、恐らくカドゥルーはフェレシュテフのことを覚えてしまっているだろう。更には些細な変化にも気づく鋭い目も持ち合わせているので、彼女はきっとチャンドラとフェレシュテフの関係に気づいてしまっている。と、チャンドラは予想しているのだが特に追求されることはなく、普段通りの生活を送っている――不気味なほどに。
このままズルズルと隠し通せていけるのかもしれないと仄かに期待する反面、このままでいられることはないだろうと理性が告げてくる。この町の住人はおろか、世の人々に忌避されている関係になってしまったのだから、何れは立ち行かなくなってくるのは理解している。それが訪れるのは今直ぐか、未だ先なのかまでは見通せていないが。
(いつかは必ずバレちまう。人にバラされるよりは、自分からバラしちまった方が幾分か楽だな、俺は)
自分一人の問題なのであれば、チャンドラがこの町を去って、誰も彼のことを知らない町に行ってしまえば良いだけだ。けれども、そうはいかない。この町に居続けるにしても、安住の地を求めて何処かへと旅立っていくにしても、番となったフェレシュテフのことを考えると安易に行動は出来ないと躊躇が生まれる。
(俺の見栄とか、どうだって良い。情けなかろうが、何だって良いだろ。使えるものは何でも使え。番を守れないことの方が
理不尽な目に遭って落ち込んでも、真っ直ぐに前を向こうとしている健気なフェレシュテフ。人間と亜人は番えないのだと分かっていても、チャンドラに愛を乞うて来たフェレシュテフ。安物の耳飾りでも大切な宝物だと言ってくれた、可愛いフェレシュテフ。全てが愛おしくて堪らない番を大切にしてやりたい。その為だったら自分に出来ることは何でもしよう。
そう決心したチャンドラは、或る人物の許へと向かう。
港の側の浜辺へとやって来たチャンドラは、辺りを見渡す。水辺が大好きな
太陽の光を受けて熱くなっている砂地を避けるように、出来るだけ木陰になっている場所を選んで、その
「おう、どうしたぃ、虎の若造」
外見では分からないが、声は年相応にしゃがれている。長い年月を生きている
「おやっさんに話があって……捜してたんだ」
「そうかぃ。じゃあ、其処に座りな。話とやらを聞いてやるよ」
竹を細く切って編んだ敷物の上に転がっていたヴィクラムは起き上がり、胡坐をかく。その隣に腰を下ろしたチャンドラは、眼前の海に目をやった。晴れ渡った空の下の海は、陽光を受けて、キラキラと銀色に輝いて見えて美しい。
「話といやぁ、俺もお
「……まあ、そうっすね」
ヴィクラムと対峙していても特に何も言われていなかったので油断していたが、心のどこかではきっと気づかれているのだろうとは思っていたので、チャンドラはそれほど驚かない。だが反射的に顔が引き攣ってしまった。それを横目で見ていたヴィクラムが、くつくつと楽しそうに喉を震わせた。
「女嫌いのチャンドラに番が出来たってぇのも驚きだが、それがまた人間の女ときたもんだ。目玉が飛び出ちまわぁ」
「っ、何で知って……っ!?」
「俺だけじゃあねえよ。カドゥルーの奴も勘付いてる。あいつぁ勘が良い。そっちの方は、お前も気づいてんだろ?」
番った相手はヴラディスラフとフセヴォロドが面倒を見ていた女だろう、と見事に言い当てられてしまい、チャンドラは血の気が引いていくのを感じる。
「あの二人を見送りに行った時に会ったんだよ。お前の話題が出て……あの姉ちゃんが嬉しそうに笑うのを見て、ピンときたのさ。この姉ちゃんはチャンドラを好いてんだってな。言葉にしなくても……目がなぁ、語ってんだ。器量が良いのか悪いのかは
「……話ってのは、そのことで……。おやっさんが察した通り、俺は……人間の女と番ってる。別れる気は毛頭ない。その……おやっさんは、道を踏み外した俺を……どう思う?」
「俺ぁ気にしねえが、他の奴らのことぁ分からねえなぁ。俺みてえに思う奴もいるだろうし、お前のことを罵倒する奴もいるだろうよ」
「……おやっさんは気にしねえのか」
「おうよ」
可能性の一つとして予想していた返事だったが、実際に肯定されると、それはそれで驚いてしまう。唖然としているチャンドラが面白いのか、ヴィクラムは喉を震わせることを止めない。
「惚れちまったもんは仕方がねえだろ。俺だって、番に夢中で何も見えてなかった時期があんだ。お前の気持ちは分かるぜ。……だがな、お前の選んだ道は世の中では認められてねえ険しい道だ。だからお前は俺に打ち明けに来たんだろ。様子を窺うついでに、出来れば味方になっちゃあくれねえかと期待してな」
「ははっ、お見通しか。敵わねえな」
「はん、まだまだ老いぼれちゃあいねえよ、このヴィクラム様はよぉ。……昔世話になったヴィカラーラの倅だ、お前を匿ってやりてえのは山々だがなぁ。生憎と俺の商売相手の中には小煩い連中が少なからずいる。俺のしている商売ってのは信用が絶対なんだよ。道を間違えた奴を置いてはおけねえんだ。悪いな」
自信に満ち溢れているヴィクラムの背が申し訳ないとばかりに、ほんの少しだけ丸まっているように見える。チャンドラはほっとしたように、薄い笑みを浮かべた。
「おやっさんの言う通りだ。俺の勝手で、おやっさんの商売に迷惑をかける訳にはいかねえし、従業員を路頭に迷わす訳にもいかねえ。俺の考えが甘いことは分かってるし、そうそう上手いこといくとも思ってなかったから……はっきり言って貰えてすっきりした」
「俺の下から去っても、この町でやっていくのはちっと難しいだろう。亜人と人間が共存している町とはいえ、両者の間にゃあ、それなりに溝があるからな。だからよ、お前、他に頼る当てはあんのか?お前の故郷のバンラージャも難しいだろ。あすこはマツヤの町よりもずっと閉鎖的な所なんだろう?人間の番を連れて帰ろうものなら、下手すると殺されかねんだろう」
「バンラージャには戻らねえ。どんな所か、俺が一番分かってるしな。他に頼れそうな奴がいるから、そいつの所に行ってみようかと考えてる」
遥か遠くの草原地帯には暢気な気の良い
「旅の準備にちっとばかし手間取るかもしれねえから、もう暫くだけ……あの家、貸してくれねえかな?」
「おう、構わねえよ。……お前のことは気に入ってたぜ、からかい甲斐のある若造だってな。玩具がいなくなるのは寂しいぜ……」
「……やっぱりからかって遊んでたんだな」
思い当たる節がありすぎて、呆れずにはいられない。チャンドラは態と咳払いをして、気持ちを整える。
「今まで世話になりました、ヴィクラムのおやっさん。お袋の無茶な口利きでも俺を雇ってくれたおやっさんには、感謝してもしきれねえ。おやっさんの下で働けて、本当に良かった」
「うちの連中には上手いこと言っておいてやる。出来るだけ、番と一緒にいるところを見つからないように出ていけよ。見送りはしてやれねえけど、元気でな」
「ああ、おやっさんも」
此方を見ようとしないヴィクラムに会釈をして、チャンドラはその場から去っていく。砂を踏みしめる彼の足音が聞こえなくなるのを待ってから――ヴィクラムは潤んでいる目を閉じ、鼻を啜った。
荷造りをし始めようと帰路に就いたチャンドラは、ふと、歩みを止める。今更ながらに、重要なことに気がついたのだ。
「あいつ、ついてくる……よな?」
フェレシュテフはマツヤの町で生まれ育った。此処には母親の墓もあるし、良い思い出もそうではない思い出も沢山詰まっていることだろう。この町を離れる覚悟を直ぐに決めろと言って、彼女が「はい」と答えるのか。どのようにして彼女を説得しようかと、チャンドラは考え始めた。
今日は逢瀬の日。彼女を迎えに行くまでの間に、チャンドラは答えを出していなければと心に決める。
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