第24話 密やかな蜜月

 夜の帳が下りて、屋外にあった人々の気配がなくなったのを見計らってから、フェレシュテフは家から抜け出す。誰かに気取られないようにと、足音を殺して。静寂に包まれた闇の中は、少しの物音でも響いてしまうのだ。

 人間の居住区の外れにやって来たフェレシュテフは一本の木の下に佇み、彼の人の訪れを待つ。其処は、彼の人と決めた待ち合わせ場所だ。


「――フェレシュテフ」


 紺青の天蓋に鏤められた無数の星を眺めていたフェレシュテフの耳に、待ち人の声が飛び込んでくる。音も気配もなく現れた愛しい人――チャンドラの姿を見つけて、フェレシュテフは極上の笑みを浮かべた。


「あなた」


 チャンドラのことを”チャンドラさん”と呼んでいたフェレシュテフは、自然と”あなた”と呼ぶようになっていた。チャンドラは唇の端を僅かに上げて、尻尾をゆらゆらと揺らしながら近づいてくる。フェレシュテフに”あなた”と呼ばれることを喜んでいるのかもしれない。

 目の前までやって来たチャンドラに向けて両腕を伸ばすと、彼は迷うことなくフェレシュテフを抱き上げる。そして顔を近づけて、触れるだけの口付けを唇に落とすと、恥ずかしそうに、けれどもいとおしそうにフェレシュテフを見つめてきた。


「……行くか」

「はい、あなた」


 人間に亜人にも理解されることのない関係となった二人は、こうして闇夜に紛れて逢瀬を重ねている。密やかな甘い一時を過ごす為、チャンドラはフェレシュテフを抱き上げたまま、足早に自分の縄張りを目指した。






**********






 星明りが窓から差し込む、薄暗い部屋の中。二人は互いを求めて、離れていた間の空虚感を埋めようとして、深く混じり合って、融け合おうとする。

 吐息さえも奪おうとする激しい口付けから解放されたフェレシュテフは、チャンドラに切ない声で名前を呼ばれて胸をときめかせる。心から求められているのだと感じられて、幸せで仕方がない。


「明日はお休みの日ですから……今夜は目一杯可愛がってくださいませね、あなた……」


 立ち上がり、雫を零している欲望を掌で包み込んで弄いながら、上目遣いのフェレシュテフに懇願されると、ぐっとくる。態となのかどうかは分からないが、閨事の時のフェレシュテフはあざとい。確実に、チャンドラの色欲を刺激してくる。


(可愛がられるのは俺の方だろ、絶対……)


 と、思いはするが、それが嫌ではないのが不思議だ。余裕がなくなってきているのに見栄を張って余裕のある振りをしたチャンドラが「ああ」と返事を寄越せば、フェレシュテフはとろけそうな笑みを浮かべてくる。欲情の色が更に濃くなっていくのを感じとって、チャンドラは無意識に喉を鳴らした。

 フェレシュテフの無防備な喉を甘噛みして「愛している」と伝えれば、鼻を噛まれて「可愛がって」と応えてくれる。チャンドラの拙い愛撫でも快感を覚えて、体を震わせて、切なげに喘ぐフェレシュテフがいとおしくて堪らない。彼女の中に埋め込んでいた指を引き抜いたチャンドラが彼女の体をうつ伏せにさせようとすると、「あなたの顔を見ていたい」とフェレシュテフが甘い声を出してきた。愛しい番に甘えられて、嫌だと断る雄はそうそういないだろう。チャンドラはそれに従うことにして、解放を待ちわびる欲望を蜜口に宛がい、ゆっくりと彼女の中に沈めていく。


(……かわいい)


 ぎゅっと目を瞑って、圧迫感と快感に耐えているフェレシュテフの顔を見つめながら、少しずつ腰を進めていく。フェレシュテフのささやかな願いを聞いて良かったと思っているチャンドラは、ふと、視線を感じる。フェレシュテフが潤んだ瞳でチャンドラを見つめて、蠱惑的な微笑を湛えていた。


「何、笑ってんだ、フェレシュテフ」

「あなた、気持ち良さそうな顔してる。嬉しい……」


 締まりのない顔をしているのかと恥ずかしくなったチャンドラは、それを誤魔化すように腰を動かす。幾度か体を重ねるうちに、チャンドラはフェレシュテフの感じるところを覚えた。狙いを定めて其処を刺激すると、フェレシュテフは甲高い嬌声を上げて、きゅうっとチャンドラの欲望を締め付けた。

 婀娜っぽい吐息を漏らすフェレシュテフの唇が美味しそうで、チャンドラは思わず舌なめずりをする。濡れて艶めく唇を貪りたくなるが、チャンドラとフェレシュテフは身長差がかなりあるので、深く繋がりながらの口付けは少々難しい。彼女に無理をさせてまで口付けたいとは思わないが、出来れば、したい。もどかしい気持ちを抱えながら、チャンドラは親指の腹で彼女の唇を撫で、その感触を楽しむ。


「――っ」


 チャンドラの手を捉えたフェレシュテフは半開きの唇から舌を出して、親指の肉球を舐める。とろんとした目で見上げて、チャンドラを挑発してくる。


「……やらしい顔すんな。止まんなくなるだろが……」

「あっ、ん……っ、うれし……。はあ……っ、もっと、して……?」


 そんな風に乞われては、断る気など起きはしない。番の色香に惑わされた雄は、蜘蛛の糸に絡め取られた虫になった気分を味わいながら、彼女に溺れる。




 二度精を放ったチャンドラは、限界を悟る。これ以上求め合ったら、頑丈が取り得の自分は兎も角、かよわいフェレシュテフを寝込ませてしまうだろうと。

 互いの体液に塗れてどろどろになったフェレシュテフの蜜口から萎えた欲望を引き抜くと、彼女が艶かしい吐息を漏らした。上がってしまった息を整えながら体を起こして、チャンドラはくったりとしているフェレシュテフを見下ろす。凄艶な色香を放つフェレシュテフの姿に、チャンドラはごくりと喉を鳴らした。深く息を吸って、吐いて、逸る鼓動を落ち着かせる。


「……具合でも悪いのか?」


 焦点の合っていない目で虚空を見つめているフェレシュテフが恍惚の表情を浮かべて、胸を大きく上下させながら、細い指で下腹部を撫でている。不思議に感じたチャンドラが問いかけると彼女は、ゆるゆると首を左右に振って否定した。


「お腹に、子供が宿ると、良いなって……神様に、お願いしているの……」


 子供を欲しがっているチャンドラの望みを叶えてあげられるからと答えられて、チャンドラは喜びつつも、困惑の色を浮かべた。此処は、人間と亜人の混血の子供を認めてくれる環境ではない。自分たちがどれほど愛情を注いで育てようとしても、周囲の目で、言葉で、生まれてくる子供は嫌な思いをするのだろうと容易に想像出来た。

だからチャンドラは言葉を詰まらせている。


「……子供が出来ても、産んであげられないって、分かってます。育てていけないもの、此処では。いけないことをしているって、分かっているんです。それでも幸せで、幸せで、不安で、怖い。堂々と出来なくても良いって思ってるのに、それが悲しいと思ってる自分が、嫌。我が儘を言って、御免なさい……」


 チャンドラを困らせたくないのに、困らせるようなことしか出来なくて、涙が出てきてしまう。泣いたら済むことではないと理解しているのに。

 泣いている姿をチャンドラに見られたくなくて、フェレシュテフは体を横向けて、硬い寝台にかけられている薄い敷き布団に顔を押しつける。チャンドラに思いを寄せているのだと訴えて、彼を面倒事に巻き込んでおいて、この様だ。あまりの情けなさに自分に腹を立てるが、それで事態が好転する訳でもない。


「……なあ、フェレシュテフ」


 彼女の隣に横たわり、チャンドラは背後からフェレシュテフを抱きしめる。抜け出しやすいように、腕に力は篭めないで。


「泣くほど辛いなら別れるか?……その方が良いだろうな」

「っ、い、いや、嫌です……っ」


 出来るはずもないことを口にすると、彼女はいやいやと首を振った。そのことに、チャンドラはほっとする。


「……俺だって嫌だっつーの。フェレシュテフだけの問題じゃねえんだから、一人で抱え込んで、悲劇の主人公面しようとするな、この馬鹿……」


 言葉選びが拙かったと気付き、チャンドラは内心で焦る。背を向けていたフェレシュテフは体の向きを変えて、チャンドラの胸に顔を押し付けて、鼻声で「はい」と答えた。

 フェレシュテフの不安を取り除けるような気の利いた言葉が言えたら良いのにと悔やんで、チャンドラは溜め息を吐く。


(……あいつも、こんな気持ちになったのか?)


 啾々と泣くフェレシュテフの背を撫でながら、チャンドラは思案する。ただの顔見知りだった頃の二人に戻れないのであれば、どうしていけば良いのかと。

 だが、そう簡単には答えは見つからない。






**********





 森に棲んでいる鳥たちが囀り、チャンドラは朝の訪れを知る。薄っすらと目を開けてぼんやりと天井を眺めていると、寄り添って眠っていたフェレシュテフが身じろぎをして、悩ましげな吐息を漏らした。


「んぅ……」


 彼女はのろのろと起き上がり、脱ぎ捨ててあった服を拾い集めて、身に着けていく。ふう、と一息吐いてやおら立ち上がると、気だるげな歩みで台所へと向かっていった。朝食を作りに行ったのだ。疲れているのであればゆっくりと眠っていて構わないのだとチャンドラが言っても、フェレシュテフは「妻の、番の勤めですから」と言ってきかないので、呆れたチャンドラは彼女の好きにさせることに決めた。決して、一所懸命に妻たろうとしているフェレシュテフが可愛くて逆らえなかったのではないと、彼は自分に言い聞かせている。

 頭が冴えてきてから身を起こして、チャンドラも服を身に着ける。台所から聞こえてくるフェレシュテフの鼻歌や物音、美味しそうな匂いに口元を綻ばせている彼は、棚の上に置いていた小さな布袋を手に取ると、そっと懐に忍ばせる。そして定位置に座り込み、フェレシュテフが戻ってくるのを待った。




「フェレシュテフ、ちょっとこっちに来い」

「はい、あなた」


 昨夜泣いていたのが嘘のように明るく振舞うフェレシュテフとの食事は、表面上は和やかだった。その後、朝食の後片付けを済ませたのを見計らってから、チャンドラは手招きをして、彼女を呼び寄せた。

 チャンドラの隣にちょこんと腰を下ろしたフェレシュテフに手を出すようにと促す。彼女は言われた通りに、両手を差し出す。きょとんとしているフェレシュテフの両の掌に懐から出した物を置くと、チャンドラは照れ臭そうに呟いた。


「……やる」

「……?」


 渡された布袋の中の物を取り出して、フェレシュテフは瞠目した。布袋に入っていたのは、青色のビーズがついた金属製の耳飾りだった。


「……気に入らねえか?」


 仕事の休憩中に市場をブラブラとしていた時、ふっと装飾品を扱っている屋台が目に入ってきた。「好いた女に贈り物でもしてみないかい?」と猫の亜人チョルデーヴァの店主に声をかけられたチャンドラは珍しくその気になった。フェレシュテフはいつも青い目玉のお守りを首にかけているので、青いビーズのついた耳飾りならば、首飾りと合わせてもおかしくはないだろうと安易に考えて、それを購入したのだが――彼女の好みと合わなかったのかもしれない。

 フェレシュテフは予想もしていなかった物が出てきたことに呆然としているだけなのだが、チャンドラは彼女の反応を不服に思っているのではと感じとったようだ。


「違います、嬉しくて、言葉にならなくて……っ。有難う御座います、大切にします……っ!」


 宝物を手に入れた子供のように耳飾りをぎゅっと握りしめて、頬を染めたフェレシュテフが涙を浮かべる。


「泣くほどのことじゃねえだろ。ったく、昨夜から泣き虫だな、フェレシュテフは……」


 指で涙を拭って、目元に口付けて、チャンドラは嬉し涙を流すフェレシュテフを宥める。


「女に贈り物なんてしたことねえから迷ったけど、やって良かった」


 うっかり本音を零して恥ずかしくなり、チャンドラは慌てて目を逸らした。

 フェレシュテフはサリーの裾で涙を拭うと、元々つけていた耳飾りを外し、いそいそと青いビーズのついた耳飾りをつける。そして彼女は耳飾りが良く見えるように金茶色の長い髪を手櫛で整えて、はにかんだ。


「似合いますか?」

「……ああ」


 またしてもチャンドラがうっかりと本音を零せば、フェレシュテフはうっとりと微笑む。彼の頬を両手で捉えて唇を重ねると、「有難う御座います、あなた」ともう一度感謝の言葉を告げて、チャンドラの太い首に腕を回してきた。彼女の喜ぶ顔を見たチャンドラは気分が良くなり、満足気に尻尾を揺らす。


(あー……可愛い……)


 その耳飾りは宝石がついているものではないから、チャンドラでも容易に手が出せたのだ。安物といっても良い代物だというのに、フェレシュテフは物凄く喜んでくれている。それは素直に嬉しいのだが、チャンドラは何となく申し訳ないような気持ちにもなる。


(次は、ちゃんと宝石がついた飾りを買ってやろう……。小さい石がついてるやつしか買えねえけど)


 フェレシュテフの落ち込んでいた気分が上向いたようだと感じ取れて、チャンドラはほっと胸を撫で下ろした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る