第14話 萌し

 どうしてチャンドラのことが、こんなにも気になるのだろうか。命の恩人だから、という理由なのだろうとフェレシュテフは思っていたが、どうもそれだけではなかったようだということが判明した。

 ――フェレシュテフはチャンドラに懸想している。

 一体いつの間に恋心を抱いていたのだろうか。どれだけ考えてみても、答えが見つからない。気が付いた時にはもう、チャンドラに対してその気持ちを抱いていたようだとしか分からなかった。


(男性を好きになることって、こんなにも胸がどきどきしてしまうものなのね……)


 フェレシュテフは十五歳の頃から娼婦をしていたので、閨事には詳しい方なのではないかと自負している。けれども背負った借金の返済に必死だったので、年頃の娘らしい出来事を経験してこなかった。フェレシュテフを気に入ってくれる客の男はいたのだが、いずれも結婚する相手は清い体の娘が良いと豪語する者ばかりで、恋愛に発展することはなかった。客の男との逢瀬は仕事であると、フェレシュテフが割り切ろうと努力していたことも原因の一つと知って良いのかもしれない。――つまりフェレシュテフは恋愛沙汰に疎い。だからこそ、チャンドラに対して抱くその気持ちに気が付くのに時間がかかったのだが。

 二十歳になって初めて抱いた恋心の扱いに、フェレシュテフは困ってしまっているのだ。


(困るわ……。気が付くと、チャンドラさんのことばかり考えているのだもの)


 そのせいで、ぼんやりとしてしまうことが多くなってしまった。ふとしたことが切欠で、この前初めて見たチャンドラの笑顔を思い出して赤面してしまったり、あの見慣れた仏頂面も素敵だとか、お菓子を頬張る姿が可愛らしく見えて困るだとか、次はどんなお菓子を作って持っていこうだとか、そんなことばかりを考えてしまっているのだ。

 このようにして、募る思いを持て余しているフェレシュテフは台所に篭り、菓子作りに奮闘している。彼女が作っているのは、餡入りの揚げ菓子モーダカだ。チャンドラの手によって、両手が塞がっているフェレシュテフの口に押し込まれたモーダカ。その時の出来事を思い出したフェレシュテフは赤面し、無意識に体をくねらせている。事情を知らない者が見たら、ぎょっとする光景かもしれない。


(娼婦に貢ぐお客さんの気持ちが分かったような気がするわ。少しでも気を引いて、自分の方を見てもらいたいもの……。知らなかったわ、慎ましく生きているつもりだったけれど……私、思っているよりも欲張りだったみたいね……)


 少しでも、チャンドラの傍にいる口実を作りたい。そんな思いを抱くようになるとは思ってもいなかったフェレシュテフはヴラディスラフたちにチャンドラの休日の日付を聞き出し、その日に菓子を作っては彼の元へ届けに行く。

そんなことがフェレシュテフの習慣になりつつあった。






**********






 ――習慣になりつつあることがある。

 仕事が休みの日が訪れると、フェレシュテフがチャンドラの家を訪ねてくるのだ――必ず、その手に美味しい菓子を携えて。「こんにちは、チャンドラさん」と、柔らかな声で挨拶をするフェレシュテフを家の中へと招き入れたチャンドラは菓子を受け取るなり、お決まりの台詞を口にする。――「紅茶チャイ淹れてくれ」、と。

 自分で淹れても良いのだが、チャンドラは大雑把なので湯の中に茶葉を入れ過ぎてしまい、極端に渋い味わいの紅茶に仕上げてしまう。一方フェレシュテフが淹れる紅茶は風味が良く、また、味の濃さも適度で美味となる。彼女に紅茶を淹れて貰った方が良い。そう理解したチャンドラは、彼女に頼むことが当たり前になりつつあった。


「暫くお待ちくださいね」


 チャンドラにそう告げて、フェレシュテフは台所へと姿を消す。チャンドラは布膳を床に敷いて、その上に彼女が持ってきた皿を置き、胡坐をかいて待機する。二つほど、モーダカをつまみ食いをするのを忘れずに。


「今日は、子供たちは来ていないのですか?」

「親の手伝いしたりとか、下の兄弟の面倒でも見てるんだろ」


 フェレシュテフが投げかけてくる問いに答えつつ、台所の方から聞こえてくる音や匂いを感じとりながら待っていると、薬缶と硝子の茶器を載せたお盆を手にした彼女が此方へと戻ってきた。フェレシュテフはチャンドラの斜向かいに腰を下ろすと、丁寧に茶器に淹れたての紅茶を注ぎ、彼に手渡してくれた。


「お口に合いますか?」

「ん?……ああ」


 フェレシュテフが淹れる紅茶は美味しい。以前にそう答えたはずなのだが、フェレシュテフは毎度のように同じことを尋ねてくる。面倒だ、と思いつつもチャンドラはきちんと返事を寄越す。そうすると決まって、彼女は頬を赤く染めてはにかむのだ。その理由が分からず、チャンドラは首を傾げた。

 熱々の紅茶を口に含むと、茶葉の風味と砂糖の甘みが口の中に広がる。放っておくと蟻が集るから、という理由でチャンドラは砂糖を常備していない。それなのに甘みがするということは、フェレシュテフが態々自宅から砂糖を持って来て、紅茶の中に入れているのだろうと容易に想像出来る。彼女はそのことについて何も言わないでいるので、チャンドラもそのことについては触れない。毎度毎度御苦労様、と、フェレシュテフの気遣いに感謝はしている――内心で。

 チャンドラは黙々と、彼女の手作りらしいモーダカを食べ、紅茶を飲む。ぽつぽつと会話はするのだが、長続きはしない。その都度、二人の間に沈黙が訪れる。けれども静かな時間が心地良く感じられるのだから不思議だと、菓子を摘む手を止めずにチャンドラは黙考する。


「――そうでした!チャンドラさんにお伝えすることがありました。またお食事をしにいらっしゃってくださいと、セーヴァさんが仰っていました。ヴァージャさんも、是非にと」

「……てーことは。セーヴァの奴、俺で実験をする気だな……」


 フェレシュテフの保護者のような同居人である竜人ジラントのフセヴォロドは、屈強な外見に反して、家事が大好きだと公言する変り種だ。そして或る時を境に、一人暮らしのチャンドラの食事を心配した彼は時折チャンドラを食事に誘ってくるようになったのだった。一度誘いに乗ってみると、主張するだけあってフセヴォロドの料理の腕は確かなことが判明した。それは良い。問題は、彼の行動だ。もう一人の保護者兼同居人であるヴラディスラフが何処かから仕入れてきた調理法を試しては、出来上がった料理を何故かチャンドラに食べさせようとしてくるのだ。フセヴォロド曰く、「チャンドラは胃腸が頑丈そうだ」とのことだ。

 チャンドラは体が頑丈なことが自慢だ。その所以は恐らく、虎の亜人ドゥンの里バンラージャ最強の女と謳われるチャンドラの母親が炭焼き職人だったことにあるのだろうと思われる。このままではまずい、生死に関わると幼くして悟ったチャンドラの双子の兄が料理を作り始めなければ、炭と化した何かが食卓に並ぶ日々が続いていたに違いない。想像するだけでチャンドラは背筋が寒くなる。実験台にされるとはいえ、これまでに二度三度ほどフセヴォロドに食べさせられた料理は全て美味だった。今回もまたそうに違いないと思うので、悪態をつきつつも誘いに乗るチャンドラだった。食費も浮くので都合が良い、という理由もある。

 チャンドラの返事を聞いたフェレシュテフは「分かりました、セーヴァさんにお伝えします」と言って、微笑んだ。


(……おかしいな。俺は亜人、人間を問わずに女が好きじゃなかったはずなんだが……)


 その筈なのだが、近頃のチャンドラはフェレシュテフのことを少しずつ受け入れ始めている。例えば、家にフェレシュテフを招き入れることに抵抗がなくなっていたり、全く興味の無い筈の彼女の身の上話を聞いてしまったり、話す気もない筈のチャンドラ自身の話をしてしまったり、と。職場にいる受付嬢の蛇の亜人ナーガの女性カドゥルーと他愛のない話をしたりはするが、家に招き入れたことはない。

 関わろうと思っていなかった筈の人間の女性を平然と家の中に入れ、彼女が淹れた紅茶や持参した菓子を楽しみ、取り留めのない会話をしてしまっているこの状況は、チャンドラにとって異常事態と言える。


(まさかとは思うんだが、双子の兄スーリヤにくっついてる”アレ”に感化されたんじゃあねえだろうな……?)


 チャンドラの脛に下段蹴りローキックをかましてきた強者のことを思い出したチャンドラは、あからさまにげんなりした。チャンドラの様子を観察していたフェレシュテフは、こてんと首を傾げた。

 菓子が盛られていた皿と、紅茶の入っていた茶器の中が空になってしまえば、ゆったりとした時間はほどなく終わりを迎える。フェレシュテフがてきぱきと後片付けをする姿を眺めているチャンドラは、ふと、或ることに気が付いた。


(そういえば……おどおどしなくなったな、こいつ。俺の前にいると、俯いてることが多かったのに……)


 澄んだ緑色の目が自分を見上げてくる回数が増えたような気がしたチャンドラに、フェレシュテフは後片付けが終わったことを告げてきたので、チャンドラはフェレシュテフを連れ立って家を出て行った。




 フェレシュテフをマツヤの町まで送り届けると、彼女に「じゃあな」と告げて、チャンドラはくるりと踵を返す。ある程度まで歩を進めたチャンドラが何となく振り返ってみると、フェレシュテフは未だ家の中に入っておらず、どことなく熱っぽい目でチャンドラを見つめていた。彼女は彼が振り返ったことに気が付くと、ふんわりと微笑んで、小さく手を振った。


(……変な女)


 思えば、偶然にも暴漢に襲われていたフェレシュテフを助けたことが、彼女との縁の始まりだったのかもしれない。チャンドラを命の恩人だと言って憚らないフェレシュテフは、初めて会った時から”変な女”だった。助けて貰った礼に亜人の娼婦を紹介するという大きなお世話をしようとしたり、貸した上着を律儀に返しに来た彼女のことをチャンドラは何となく記憶してはいた。だが、ここまで関わりを持つようになるとは、その時分にはちっとも想像だにしていなかったものだ。仕事以外で関わりそうにない人間の名前は覚えないと決めていたのに、いつの間にかチャンドラはフェレシュテフの名前を、匂いや声を確り覚えてしまった。誰かに助けて貰ったら、その相手に礼をしないといけないと主張する割には、自分が誰かに礼を言われるようなことをしても見返りを求めない変わった人間の女。それが、チャンドラが抱いているフェレシュテフの印象だ。

 次の休みの日には、彼女はどんな菓子を持ってくるのだろう。いや、毎週のように菓子を持ってきていたので、そろそろ予算が尽きた頃合かもしれない。菓子の材料費はフェレシュテフが自腹を切っているらしいことを、チャンドラは何故だかフセヴォロドから聞いている。

 そんなことを考えながら家路に就いているチャンドラの口元は、楽しげに綻んでいた。






**********






 ――数日後の昼過ぎ。

 フェレシュテフが自室の寝台に腰掛けて刺繍をしていると、開け放した窓の外から、ガラガラという大きな音が聞こえてきた。


(あの音は……馬車の音よね?)


 街道と港とを繋ぐ大通りや、市場などの繁華街などではよく見かけるが、民家が立ち並ぶ区域では馬車はまず見かけない。珍しいこともあるものだとフェレシュテフが思っていると、御者が馬を止める声を上げ、馬の蹄が地面を蹴る音と車輪が回る音が止まった。どうやら自宅の近くで馬車が止まったらしい。少し間を置いてから、自宅の玄関の扉を叩く音が聞こえてきたので、フェレシュテフは手に持っていた手芸道具を寝台の上に置き、駆け足で玄関へと向かった。

 玄関の扉を開けると、髭を生やした体格の良い男性が一人立っていた。明らかに土地の人間ではないと分かる白い肌をしている男性は露出の少ない、厚めの生地で出来た服を着ており、額に汗をかいている。彼の服は、嘗てヴラディスラフが娼館にフェレシュテフを迎えにやってきた時に来ていた服によく似ている。ヴラディスラフたちと同郷の人間なのだろうか。「何方様で御座いましょうか?」とフェレシュテフが愛想良く尋ねると、異国の男性は咳払いをしてから、口を開いた。


「ネクラーソフ伯爵家に仕えているシャフラーイという者だ。現在、伯爵閣下は御在宅か?」


 流暢にマツヤの言葉を操っている異国の男性――シャフラーイの物言いは、威圧的だ。神経質さを仄かに匂わせる顔つきをした彼の口から出てきた耳慣れない呼称――”伯爵”というのは、外国の貴人に与えられる称号の一つである。と、娼館の主に教えられたことがあるので知ってはいるのだが、該当する人物に覚えがないのでフェレシュテフは首を傾げる。”ネクラーソフ”というのはヴラディスラフの姓のはずだ。ともすれば、”ネクラーソフ伯爵”というのはヴラディスラフのことなのだろうか。


「……ヴラディスラフ・ラディミーロヴィチ・ネクラーソフ伯爵閣下は御在宅か、と伺っている」


 察しの悪い女だ、と言いたげな視線を寄越されたフェレシュテフは恐縮し、「失礼致しました」とシャフラーイに謝罪する。


「ヴァージャ……ヴラディスラフさんは未だお仕事に行っていらっしゃいます。夕方にはお帰りになると思うのですが……」


 フェレシュテフの返答を耳にするなり、シャフラーイは眉間に皺を寄せ、僅かに声を荒げた。


「”ヴラディスラフさん”ではなく、”ネクラーソフ伯爵閣下”とお呼びするように。貴様のような”イノロードツィ”が伯爵閣下の御名前を気安くお呼びするなど、無礼にも程があろう」

「……っ、失礼、致しました……」


 ”イノロードツィ”という言葉の意味は分からないが、ヴラディスラフとフェレシュテフを同等に扱うな、と言われているのだと直感で理解したフェレシュテフは、シャフラーイの様子に気圧され、反射的に謝罪の言葉を口に出す。


「……伯爵閣下は夕刻には御帰宅されるのだな?」

「……はい」

「それでは、この近くに馬車を止めて待機しているので、伯爵閣下が御帰宅されたら知らせに来るように」


 フェレシュテフの都合などお構いなしに、シャフラーイは一方的に用事を言いつけた。随分と勝手な人物だと呆気に取られたフェレシュテフは直ぐに我に返り、この場から早々に立ち去ろうとする彼を引き止める。


「あの、宜しければ、中でお待ちください」


 ヴラディスラフの客人であるのならば、そうして貰った方が良いのではないかと考えたのでフェレシュテフはそう申し出たのだが――シャフラーイが彼女に寄越してきたのは、侮蔑の視線と嘲笑だった。


「イノロードツィにしてはよく出来た対応ではあるが、断る。”あの御方”をこのような薄汚い場所へとお連れする訳にはいかぬ」


 あまりの物言いに、フェレシュテフは言葉を失った。呆然としているフェレシュテフを一瞥するなりシャフラーイは、ふん、と鼻を鳴らしてから立ち去っていった。


「……」


 家の中に入ったフェレシュテフは玄関の扉を閉めると、其処に背を凭れ、深い溜め息を吐いた。そして顔を上げ、じっくりと家の中を見つめた。フェレシュテフが嘗て母親と共に暮らしていた小さな家は、生活が貧しかったこともあって手入れが行き届かず、どんなに掃除をしても清潔になったとは言い難いものだった。それに比べてヴラディスラフが手に入れたこの家は古びてはいるものの手入れが充分にされており、掃除をすれば当然のように綺麗になる。フェレシュテフの目に映るこの家は、綺麗で清潔な家だ。だが、シャフラーイの目には薄汚くしか映らないのだろう。住んでいる地域が違い、また身分も違うのだろうから、主観の差異は仕方がないのだと理解は出来る。


「……あの男の人、気が付いていないのかしら?その薄汚い家で、”伯爵閣下”が生活をしていることに……」


 自分のことだけならばまだ我慢出来るが、ヴラディスラフのことまでも侮辱されたような気がして、フェレシュテフは何だか腹が立ってくる。けれども、そのこと以上に気になることがあるので彼女は直ぐに思考を切り替えた。

 ヴラディスラフはシャフラーイが言うところの、”伯爵閣下”と同一人物なのだろうか。ヴラディスラフが故郷であるスネジノグラードで事業主をしていたと言っていたので、彼がお金持ちなのだろうということは感じている。だが、貴人であるということは本人の口から聞いたことはない。ヴラディスラフの友人であるフセヴォロドも、そのようなことは言ったことはない。


(ヴァージャさんが伯爵であるというのが本当であるのだとしたら、どうしてヴァージャさんは隠していたのかしら……?)


 いや、決して隠していたのではない。フェレシュテフにそのことを告げるのを忘れただけだ。そう願いたいフェレシュテフの胸に、漠然とした不安が押し寄せる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る