第13話 菓子で白い虎を釣る
「いってらっしゃいませ」と、にこやかにヴラディスラフとフセヴォロドを送り出してから暫く。朝食の後片付けをしている最中のフェレシュテフは手を動かしながらも、ぼんやりと考え事をしていた。
(……やっぱり、チャンドラさんとは何かしら縁があるのかしら……?)
一度きりの縁だと思っていたが、そうでもないのかもしれない。それに幾度か、彼には救いの手を差し伸べて貰っている。初めて出会った時、スブーシュとその他の男たちに乱暴をされて森の中に捨て置かれた時、つい先日の市場で遭遇した時と最低でも三度はチャンドラに世話になっている。過日、フェレシュテフがヴラディスラフたちと打ち解けられたのも、彼の御蔭と言っても過言ではない。
こんなにもチャンドラに世話になっているというのに、フェレシュテフは彼に受けた恩に報いることが出来ていない。「礼はいらない」と彼が一貫して主張するのも、原因の一つであるが。その言葉に従いはするものの、フェレシュテフの心はすっきりしない。やはり御礼をしたい、と、彼女は考える。然し、どんなことをしたらチャンドラが御礼を受けてくれるのか、それを喜んでくれるのかが全くもって分からないのでフェレシュテフは頭を悩ませる羽目になる。開き直って御礼の存在を忘れてしまうというのも手だというのに、フェレシュテフは生真面目ゆえにそれが出来ないでいた。
初めてチャンドラに出会った時に提示した御礼は大失敗に終わっている。チャンドラが抱える事情を知らなかったとはいえ、「亜人の娼婦を紹介 」するというのはとんでもない礼の仕方だったと今更ながらに彼女は反省している。あの時分、フェレシュテフ自身は落ち着いているつもりだったのだが、実際は混乱していたのであんなことを言ってしまったのだと彼女は思いたかった。
人間、亜人を問わず女性が好きではないというチャンドラに女性を紹介しようとする愚行を二度と犯すまい。フェレシュテフの脳裏に次に浮かんできたのは、金銭だった。
『世の中はなぁ、何でも金で解決出来るんだよ』
娼館の主が言っていたように、物事の解決に金銭を用いることは少なくない。そして、それを拒む者が少なくないこともフェレシュテフは知っている。
(お金なら喜んで貰えるかもしれないけれど……私が自由に出来るお金の額では……喜ばれないかもしれないわ)
何かあった時の為にと、フェレシュテフはこつこつと貯金をしている。貯金の額は少なくはないのだが、これまでにチャンドラに受けた恩には見合っていない気がしてならない。それに金銭で解決しようとすることは、一つ間違えれば大事になってしまう可能性もあるので、フェレシュテフはこの案を不採用とした。
(お金のこと以外で私に出来ること……何かあったかしら?そうだわ、お母さんの内職のお手伝いをしていたから、手芸は得意だわ!)
日頃の感謝の気持ちを籠めて、ヴラディスラフたちに手縫いのクルタを贈った時、彼らはそれをとても喜んでくれた。これならば良いかもしれないとフェレシュテフは気持ちと明るくするが、はた、と気がつく。好きでも何でもないだろうと思われるフェレシュテフから手縫いの服を贈られても、チャンドラは困るのではないだろうかと。そもそも、フェレシュテフは彼の好みも寸法も知らない。この案も没だ、と彼女はがっくりと肩を落とした。
「……先程から百面相をしているがどうかしたのか、フェルーシャ?」
目の前が急に暗くなったのでフェレシュテフは反射的に顔を上げる。いつのまにやらフェレシュテフの前に佇んでいたフセヴォロドはやおらしゃがみこむと、じいっと彼女を見つめてきた。今日は非番のフセヴォロドはヴラディスラフを職場まで送っていったのだが、フェレシュテフが物思いに耽っている間に帰ってきていたようだ。そんなにも長い間、考え事をしていたのかと恥ずかしくなったフェレシュテフは、ぎこちなくはにかむと「いいえ、何でもありませんわ」と答え、疎かにしてしまっていた洗い物を手早く終わらせた。
「家事は粗方済んでいる。市場へと向かうとしよう」
「はい、セーヴァさん」
フセヴォロドに伴われて、フェレシュテフは賑やかな市場へとやって来た。人間の男性に不用意に近寄られたり、大きな声をかけられたりすると未だにフェレシュテフはびくついてしまうが、事情を把握しているフセヴォロドがさりげなく庇ってくれているので、彼女はいつぞやのように気分を悪くしていない。
心優しいフセヴォロドに多大なる感謝をしながら、フェレシュテフは目的の品物を次々と買っていった。こうして買い物を済ませた二人は、元気の良い店主のいる魚屋で購入した鮮魚をどのような料理にしようかと話し合いながら家路に就く。
帰途の途中、道の脇に並んでいる屋台の中に菓子を扱っている屋台をフェレシュテフは見つけた。そして、沢山の
(そういえばお菓子が好き……みたいよね、チャンドラさんって)
あの時のチャンドラは大袋いっぱいのモーダカを抱えていた、とフェレシュテフは記憶している。菓子につられて、ヴラディスラフたちが持ちかける相談につき合わされていたと、彼自身がぼやいていた。ということはつまり――
(お菓子なら、チャンドラさんに喜んで貰える……?)
一縷の希望を見つけたような気がしたフェレシュテフは菓子を売っている屋台を見つめながら、ごくりと唾を飲み込む。
「チャンドラさんは、どんなお菓子がお好きなのかしら……?やっぱり、モーダカかしら……?」
「うん?チャンドラは食べ物であれば何でも食べる。中でも、甘い菓子が特に好きだと言っていた」
「まあ、そうなのですか?」
どうして唐突にチャンドラの話題が出てきたのだろうかと不思議に思いつつも、フセヴォロドは自身が知っているチャンドラの情報を開示する。チャンドラの情報を耳にしたフェレシュテフは「甘いお菓子、甘いお菓子……私に作れるものはあったかしら……?」と、ぶつぶつと呟きながら歩いていってしまう。再び物思いに耽り始めたようだ。
「……?ああ、成程」
置いていかれてしまったフセヴォロドは、ふわふわとした様子で歩いているフェレシュテフの背中を暫し眺めているうちに何かを悟ったらしい。目を細めて、くつくつと喉を震わせるとフセヴォロドは彼女の跡を追った。フェレシュテフのあの様子では、うっかり道行く人々にぶつかってしまいそうだったので。
**********
――後日。
決意を胸にしたフェレシュテフは昼前から菓子作りに没頭している。チャンドラは大袋いっぱいのモーダカをぺろりと食べていたので、あれ以上は作った方が良いかもしれない。そう考えたフェレシュテフは、シロップに漬けて食べる
「出来るだけ沢山作ってみたのだけれど……喜んで頂けるかしら?」
数枚の大皿の上に山盛りになっている菓子を作ったのも見たのも、フェレシュテフはこれが初めてだ。粗熱をとってから、ヴェッラ・ドーサは大皿にのせて布巾をかけ、チャトゥニーやシロップの入っている碗や瓶、そしてジャレビは大きな籠に入れ、こちらにも布巾をかける。一つ一つの菓子は軽いものばかりだが、大量にあるとそれなりの重量になってしまう。チャンドラの家に辿り着くまでにフェレシュテフの腕の力が持つかどうか、少々不安が残る。
「さあ、行くわよ……っ!」
気合を入れたフェレシュテフは大皿と大きな籠を持ち上げて、よろよろとしながら家を出て行った。
フェレシュテフは予めヴラディスラフたちに、チャンドラの家の場所――フェレシュテフは記憶が曖昧なので場所を覚えていなかった――と、彼の非番の日を聞きだしている。出来るだけのことはしているので、後は彼が出かけていないことを祈るばかりだ。
マツヤの町を海とは反対方向に、亜人の居住区側から抜けて進んでいくと森がある。その森の入り口に近い所にチャンドラが住んでいる平屋があるのだと、フセヴォロドが教えてくれた。もう少しで目的の場所に着くだろうかというところで、楽しそうに笑う子供たちの声が聞こえてきた。
徐にフェレシュテフが声がする方へと顔を向けると、とても大きな平屋の前でチャンドラが幾人かの亜人の子供たちと遊んでいるところが目に入ってきた。仏頂面ばかりのチャンドラが楽しそうに子供たちの相手をしていることに驚いて、フェレシュテフはあんぐりと口を開けて呆けてしまう。そんな彼女の視線に気が付いたのか、はたまた彼女若しくは菓子の匂いを嗅ぎ取ったのか、チャンドラはフェレシュテフのいる方へと顔を向けてきた。
(あぁ、いつものお顔になってしまったわ……)
チャンドラが穏やかな笑みを消し、馴染みの仏頂面へと戻してしまったことをフェレシュテフは残念に思う。
「わー!美味しそうな匂い!」
「お菓子の匂いだ!」
フェレシュテフとチャンドラたちとの間にはかなりの距離があるのだが、流石は亜人の子供たちといったところか菓子の匂いを嗅ぎつけている。どうしようかとフェレシュテフが逡巡していると、チャンドラは子供たちにその場で待つようにと言いつけてから大股で彼女に近づいてきた。
「何か用か?」
フェレシュテフの前までやって来たチャンドラは仁王立ちで彼女を見下ろしてくる。フェレシュテフはにっこりと微笑むと、両手で持っている大皿を彼に差し出した。
「お菓子を作ったのですけれど、ついつい作りすぎてしまいましたの。ですから、チャンドラさんにお裾分けをしに参りました」
これまでチャンドラに受けた恩への御礼です、と正直に答えると受け取って貰えそうにない可能性があったので、フェレシュテフは疑われず、且つ菓子をすんなりと受け取ってもらえそうな言い分を考えておいていた。
「……作りすぎたって……どれだけ作ってんだよ、あんた」
彼女一人では明らかに食べきれないと分かる大量の菓子を見たチャンドラは呆気に取られつつ、確りと大皿と籠を受け取っている。
「ずるいー!チャンドラおじちゃんだけーっ!?」
「ぼくも食べたーい!」
「お菓子食べたいっ!」
いつの間にやら近くに寄って来ていた様々な亜人の子供たちがチャンドラの背後から、ひょっこりと顔を覗かせる。チャンドラと遊んでいたのは
目を輝かせて菓子の山を見つめる子供たちの姿が可愛らしくて、フェレシュテフはくすりと微笑んだ。
「あー、分かった分かった!皆で食べような。だからあっち行くぞ、あっち」
「「「はーい!」」」
「……あぁ、そうだ。菓子くれて有難うな、フェレシュテフ?」
「はい、フェレシュテフです」
未だ疑問符付きで名前を呼ばれるということは、チャンドラは確りとフェレシュテフの名前を把握していないらしい。子供たちを引き連れ、大皿と籠を軽々と持っていくチャンドラの背中を苦笑しながら眺めていると、少しひんやりとした小さな手がフェレシュテフの手に触れてきた。フェレシュテフの手を恐々と握ってきたのは、小さな
「おばちゃんも、いっしょに食べよ?皆といっしょにお菓子食べるとおいしいよ?」
人間でいうところの五、六歳くらいに見える
「ええ、その通りだわ。私たちもあちらへ行きましょう」
「うん」
フェレシュテフは小さな手をそっと握り返し、その手を引いて、チャンドラたちが待っている平屋へと向かっていく。
彼女たちが平屋の中へと入ると、先に中に入っていたチャンドラたちが片づけをしており、綺麗になった床の上に布膳を敷いているところだった。布膳の上にヴェッラ・ドーサが重ねられている大皿と、籠の中に入っていたチャトゥニーやシロップ、ジャレビを皿に移して置き、一同はそれを囲んで座る。子供たちは一斉に菓子に手を伸ばし、きゃっきゃと騒ぎながら食べ始めた。
「あの、私で宜しければ……
「……じゃあ、頼む。水瓶はあそこで、茶器は後ろの棚に置いてある。硝子で出来てるが、熱いのを淹れても割れないやつだ」
「はい、分かりました」
狭い台所で、慣れない動作でチャンドラが紅茶を淹れようとしているので、見兼ねたフェレシュテフが紅茶を淹れる役を買って出る。大きなポットで湯を沸かし、チャンドラが何処かから出してきた缶に入っている茶葉を使って、紅茶を淹れる。辺りを見渡して砂糖を探してみたが、見当たらない。台所から顔を覗かせて、子供たちと嬉しそうに菓子を頬張っているチャンドラに砂糖の在り処を訊いてみると、「ない」という簡潔な返事を寄越された。
(お菓子自体が甘いから……お砂糖が無くても大丈夫かしら?)
ということにしたフェレシュテフは、背後の棚に置いてある硝子の小さな硝子の茶器を取り出し、それらと薬缶を鈍い銀色のお盆の上に載せていく。「お手伝いする?」と言って、
可愛らしい
「ねえ、お名前は?わたしはマンドーダリーっていうの。チャンドラおじちゃんの知り合いなの?」
「私はフェレシュテフというの、宜しくね。えぇと……そうね、知り合い、よ?」
チャンドラとは顔見知りではあるが、知り合いというほどに親しいわけでもないような気がするけれども知り合いだと思いたいような。そんな気持ちがあるので、フェレシュテフは微妙な返答をしてしまった。右隣に座っているマンドーダリーがフェレシュテフの名前を訊いてきたことを切欠に、自己紹介が始まる。
マンドーダリーの次は、彼女と同い年の
「チャンドラさんはお休みの日には子供さんの面倒を見ていらっしゃるのですね、存じませんでした」
「何でか寄ってくるんだよ、こいつらが」
「違うよー、ぼくたちがチャンドラおじちゃんと遊んであげてるのー!」
「そうよー。チャンドラおじちゃんてば二十八歳になっても”ひとりみ”で寂しいだろうからー」
「……………………お前らなぁ、もう遊んでやらねえぞ」
子供たちに好き放題に言われて臍を曲げるチャンドラは、フェレシュテフよりも八歳年上のようだ。年齢の割に言動が幼いような、と思いかけて、フェレシュテフが慌てて別のことを考え始めると、右隣に座っている
「おばちゃん、お菓子おいしい」
「そう?喜んで貰えて嬉しいわ。沢山食べてね」
「おばちゃんなんて言っちゃだめよ、タクシャカ。まだ若いのよ、おねえちゃんって呼ばなくちゃ」
「はぁい」
おしゃまな感じのルーマーに窘められたタクシャカは、「ごめんね、おねえちゃん」と言ってから、手にしていたジャレビをぱくりと頬張った。口元を汚すタクシャカや、その他の子供たちの世話を焼いているうちに、あれだけ沢山あった菓子の山はその場にいる全員の腹の中に納まっていた。彼らが満足気に目を細めているのを見て、フェレシュテフも満足感を得る。
「……そろそろ夕方になるな。ほら、家に帰れ、ガキども。町まで送っていってやるから」
「「「はーい」」」
女の子たちに手伝って貰いながら、後片付けを済ませると、チャンドラが子供たちに帰宅を促した。子供たちはぱたぱたと駆け足でチャンドラの許へと集まっていく。
「行くぞ、フェレシュテフ」
「……っ、はいっ」
遂に疑問符をつけないでチャンドラに名前を呼んで貰えたことが嬉しくて、けれども驚いてしまって、フェレシュテフは僅かに返事をするのが遅れた。フェレシュテフも駆け足で彼らの許へと向かうと、チャンドラが手を伸ばしてきて、彼女が手に持っていた荷物を奪っていく。彼が荷物を持ってくれたことにフェレシュテフが驚いていると、タクシャカが手を繋いできた。どうやらタクシャカはフェレシュテフに懐いたようだ。
子供たちの歩みに合わせて、ゆっくりと町まで歩いていく。「天気が良いね」「でも雨も降って欲しいね、少しだけ涼しくなるから」などと取り留めのない話をしているうちにマツヤの町の亜人の居住区まで辿り着く。子供たちの家が近いところまで居住区の中を進んでいき、広い交差路のところで子供たちと別れることに。
「またね、チャンドラおじちゃん、フェレシュテフお姉ちゃん」
「おう、またな」
「寄り道をしないで気をつけてお家に帰ってね、皆」
各々あっちこっちと、自分の家がある方へと子供たちが散っていく。その姿をフェレシュテフとチャンドラは暫く眺め、そして次にフェレシュテフの家へと向かうことになった。チャンドラは彼女を家まで送ってくれるようだ。二人の歩幅はかなり違う。チャンドラが何気なく歩いていても、彼の歩みに合わせようとするフェレシュテフは自然と早足になる。忙しない様子でフェレシュテフが足を動かしていると、不意にチャンドラの歩みが遅くなった。子供たちと歩いていた時の早さではないだろうか。
(若しかして、気を遣って歩くのを遅くしてくれているのかしら……?)
そうかどうかは分からないが、彼がゆっくりゆっくりと歩いてくれることがフェレシュテフは嬉しい。
「あの、つかぬことをお尋ねしますけれど……。チャンドラさんは、子供がお好きなのですか?」
子供たちの相手をしている時の彼はとても穏やかな表情をしていた。それが印象的だったのでフェレシュテフは素直に尋ねてみたのだが、何故かチャンドラは眉間に皺を寄せた。
「……子供にしか興味のねえ変態かって訊いてんのか?」
「え!?いえ、ち、違います!子供の相手がお上手でしたし、とても慕われているようでしたから、チャンドラさんは子供好きなのかしらと思いまして!……あら?あの、え?え?」
それは誤解だと弁解をしようとしたのだが、口を動かしているうちに混乱してきてしまった。フェレシュテフがあたふたとしている様子を眺めていたチャンドラは、これは素直に訊いてきただけだな、と悟る。
「……悪かった。女が好きじゃねえから年端も行かねえ子供に走るのかって、偶にからかわれるから変に勘繰っちまった」
「いいえ、私の尋ね方も悪かったのでしょうから……」
誤解されても仕方がないとフェレシュテフが言うと、チャンドラは「あんたは悪くねえんだから怒って良いんだぞ」と言って苦笑を浮かべた。鋭い青い目が優しく細められて、唇の両端が僅かに上がっている。チャンドラのそんな表情を向けられたことは初めてで、フェレシュテフは胸を高鳴らせた。
「ガキどもの相手をするのは嫌いじゃねえよ。下に四人も妹と弟がいて面倒見てたから、ガキの扱いはそれなりに慣れてんだ。懐かれるのも悪い気はしねえしな」
番はいらないが自分の子供は欲しいかもしれない、と、チャンドラがぽつりと呟いたのが、何故だかフェレシュテフにははっきりと聞き取れた。
(……私で良いなら、チャンドラさんの子供、産んであげたい……)
この人はきっと、生まれた子供を目一杯愛してくれるだろう。そう感じたフェレシュテフは、そんなことを思った。けれど、それは叶わない。この世界には暗黙の了解がある。人間と亜人は交わることは出来ないのだと、この世界に暮らす者は誰もが知っている。その戒めがなければ良かったのに、と、フェレシュテフは残念がり、はたと気が付いた。――若しかして自分は、チャンドラを異性として見ているのだろうか、と。
「……何やってんだ、あんた?」
「ひゃぁっ!?い、いいえ、何でもありません、大丈夫ですっ!」
「……?変な女……」
赤くなったり青くなったりと忙しくしているフェレシュテフをチャンドラは白い目で見下ろす。それ以後は特に会話もなく、静かに歩いていく。どうしよう、どうしようとフェレシュテフが悶々としているうちに、二人は彼女の家の前までやって来ていた。
ああ、もう家に着いてしまった。もう少しチャンドラと一緒にいたかった。と思い、フェレシュテフはまた赤くなって、青くなる。
「……菓子、美味かった。じゃあな」
「はい、送ってくださいまして、有難う御座いました……」
ん、と短く答えてチャンドラが踵を返すと、フェレシュテフはその背に声をかけていた。
「あの!またお菓子を作りすぎましたら、お裾分けしに参りますね!」
「……よたよた歩く羽目になるほど持って来なくて良いからな。期待はしねえけど、楽しみにはしておく」
くるりと振り返ったチャンドラは薄っすらと笑いながら返事を寄越すと、再び体の向きを元に戻して歩いていく。期待はしていないが、楽しみにはしておく。その言葉が示した通りかどうかは分からないが、彼の太い虎の尻尾はゆらゆらと楽しそうに揺れている。
――お菓子で釣ると、こんなにも簡単に笑ってくれるのね。知らなかったわ。
顔を真っ赤にしたフェレシュテフはチャンドラが去っていった方向を見つめて、家の前で阿呆みたいに突っ立っていた。
「……一体どうしたというのだ、フェルーシャは?」
仕事から帰ってきたヴラディスラフとフセヴォロドは、薄暗くなり始めた空の下、玄関の前で突っ立っているフェレシュテフを見つけるなり、ぎょっとした。不安な面持ちのヴラディスラフが彼女の顔の前で手を動かしてみるが、反応がまるでない。隣で唸るフセヴォロドを不思議そうに見上げ、ヴラディスラフは彼に尋ねてみる。
「セーヴァ、分からないのかい?」
「ごちゃごちゃとしていて、セーヴァにはよく分からないのだ。フェルーシャがとても喜んでいる、ということだけは理解出来る」
「ああ、それでは首尾良くいったのではないかな、チャンドラくんへの御礼が」
「ふむ、成程。だが、いつまでもこんなところで立ち尽くしていてはいけない。フェルーシャを中へ入れよう」
呆けてしまっているフェレシュテフを軽々と抱き上げ、フセヴォロドはヴラディスラフと共に家の中へと入っていったのだった。
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