第12話 ほんの少しの勇気

 ――朝が、訪れる。フェレシュテフはのろのろとした動きで起き上がり、身支度を整えていく。壁にかけてある鏡を見ながら長い髪を櫛で梳き、一つに纏めて緩く編む。ふとした拍子に鏡に映っている自身の首元が視界に入るなり、彼女は不自然に身を強張らせた。

 褐色の肌に薄っすらと残っているのは、顔を殴られた跡、首を締め上げられた跡。彼女の脳裏に男たちに乱暴された記憶が鮮明に蘇り、フェレシュテフは激しい動悸と震えに襲われる。手に持っていた櫛が音を立てて、床の上に落ちる。その些細な音に反応したフェレシュテフはその場に蹲り、がたがたと震えながら冷や汗を流す体を抱きしめた。


(大丈夫よ、落ち着くのよ、フェレシュテフ……。此処は家の中、安全なのよ……)


 家の中には、あの男たちはいない。いるのは、彼女に危害を加えることはないヴラディスラフとフセヴォロドだけだ。彼らは言ってくれていた、怖いものはもうないのだと。此処は安全な場所だ、落ち着いて良いのだとフェレシュテフは自分に言い聞かせ、波立つ心を落ち着かせる。

 平静を取り戻したフェレシュテフは無意識に首を擦りながら階下へと降り、既に起きていたフセヴォロドに挨拶をしてから家事に勤しみ始めた。


『気分が優れないのであれば、遠慮なく仰ってください。決して無理はしないで欲しいのです。必ず、私かセーヴァに助けを求めてください』


 高熱から快復したばかりのフェレシュテフは休んでいた分の働きを取り戻そうとして、少しばかりを無理をした。見兼ねたヴラディスラフがやんわりと諌言を呈したのだが、彼女は頑なに固持した。


『私は”お客様”ではありませんので、いつまでも休んでいる訳には参りません。それに……何かをしている方が気が紛れるのです。気遣ってくださいまして、有難う御座います、ヴラディスラフさん』


 フェレシュテフは強がりを言うと、ヴラディスラフやフセヴォロドは彼女に不必要に体を休めろとは言ってこなくなった。気が紛れる、という言葉が何を指しているのかを彼らは察したのかもしれない。彼らが強く言ってこなくなったのを良いことに、フェレシュテフは今日も明日も自分に嘘を吐いて、無理をする。そんな彼女をヴラディスラフたちは物を言いたそうに、けれども黙して、辛抱強く見守っている。




 ヴラディスラフたちが仕事へと出かけていってから、一通りの家事を済ませたフェレシュテフは自室におり、床の上に座り込んで寝台に突っ伏している。どことなく虚ろな目の下にはくっきりとした隈が出来ており、頬も僅かに痩けているので、やつれた印象を受ける。気を紛らわせようとしていたことの付けが、彼女の体の表面に出てきているようだ。

 ――どうして、上手くいかないのだろう。スジャータに騙されて破落戸たちに強姦された時は何とか乗り切ることが出来たというのに。どうして今回ばかりは、運が悪かったのだと諦めて、楽になることが出来ないのだろう。

 思い悩むフェレシュテフの寝つきは悪く、また、眠りも浅い。更には悪夢に魘されて、真夜中に悲鳴を上げて飛び起きる始末だ。その度に悲鳴を聞きつけたフセヴォロドがやって来て、優しく宥めてくれるので、フェレシュテフは申し訳ない気持ちでいっぱいになる。そんな日々がずっと続いていくのかと思うと、彼女の気は重くなる。


(……何か、しなくちゃ……)


 十分ほど目を閉じていたフェレシュテフは起き上がると再び階下へと降り、今度は台所へと向かった。彼女は其処で、貯蓄してある食材や香辛料の残りを調べている。すると、よく使っている幾つかの香辛料の残りが少なくなっていることに気がついた。まだ二、三日はもつだろうが、そろそろ買い出しに行った方が良さそうだ。


(大丈夫、大丈夫……)


 胸元の目玉の御守りチェシィ・ナザールをぎゅっと握り締めて、フェレシュテフは深呼吸をする。財布を手にした彼女は玄関に向かい、震えそうになる足をばしばしと強く叩いて叱咤し、市場へと出かけていった。






**********






 暦の上では、マツヤの町も秋に入っている。だが、町を照らしつける太陽の光の強さは、まだまだ衰えることを知らない。

 一人で家の外へと出るのは、正直に言って怖い。またあんな目に遭ってしまうのではないかと、いやな想像ばかりが頭の中を巡り、歩みだそうとする足をその場に留めてしまう。暫くの間はフェレシュテフの心情を察してくれたフセヴォロドが買い物に付き合ってくれていたが、仕事がある彼にいつまでも付き添いを頼み続けるのは申し訳ない。怖くても一歩を踏み出さなければならないのだと、これまでの日常へと戻っていく為にはいつまでも恐怖に縛られていてはいけないのだと、フェレシュテフは思っていた。

 勇気を振り絞り、久しぶりに屋外へと足を踏み出してみた彼女は、外へ出ること事態は大したことではなかったようだと知った。このまま調子良くいけたら良いと思いながら、亜人の居住区内を歩いている。そうしているうちは平然としていられたのだが――様々な人々で賑わう市場へとやって来た途端に、彼女の心は漠然とした不安で揺れた。人混みを縫って歩いているだけで、フェレシュテフは徐々に気分が悪くなっていくのを感じる。


(どうしよう、怖い……っ)


 肌の色は問わず、人間の男性が視界に入るだけでフェレシュテフの心がざわつく。珍しい品が入荷したよ、などと店員の男性が声をかけてくるだけで、彼女は身を強張らせてしまう。道行く男性と擦れ違うだけで彼女は怯え、背後に誰かの気配がするだけで冷や汗が出てきてしまう始末だ。

 さっと買い物を済ませて、さっと家に帰ったら良いのだ。自分にそう言い聞かせて奮起した彼女は、何とか目的を果たしていく。だが、香辛料を扱っている店の男性店員に不用意に近づかれただけで、お釣りを受け取るときに店員の手が触れそうになっただけで彼女は恐怖を感じてしまった。

 ――兎に角、早く家に帰ろう。そう思っても、膝が笑ってしまって早く歩けない。それでも何とかフェレシュテフは人気のない路地の日陰に逃げ込み、土壁に背をつけて蹲ると長い溜め息を吐いた。


(私、男の人が怖くて堪らなくなっているわ……)


 ヴラディスラフたちには、恐怖などは一切感じない。この市場にやって来て初めて、フェレシュテフはその事実を知る。亜人の男性は問題ないのだが、人間の男性は駄目になってしまっている。彼らは自分に危害を加えようと企んでいるのではないか、と考えてしまうほど疑心暗鬼になっているフェレシュテフは人間の男性を異様に警戒し、挙句に気分を悪くしている。

 こんな所に蹲っていてはいけない。人気のない暗い所は危ない。そう思っているのに、フェレシュテフは立ち上がれない。


「助けて、お母さん……ヴラディスラフさん、セーヴァさん……」


 気がつくと、フェレシュテフはか細い声で助けを求めていた。けれどその声は彼らに届くことはない。段々と、胃の辺りがむかむかとしてくる。自然と手で口元を押さえた彼女は、虚ろな目で地面を見つめていた。彼女が途方に暮れていると突然、頭上から声が降ってきた。


「おい。具合が悪いのか?フェレシュテ……フ?」


 終わりに疑問符がついているが、自分の名前が呼ばれた。フェレシュテフが恐る恐る顔を上げてみると、目の前に仁王立ちしている白い虎の亜人ドゥン――チャンドラがいて、彼女を見下ろしていた。

 何故、こんな所に彼がいるのだろう。見回りの仕事の最中に、偶然フェレシュテフを見つけたので声をかけてきたのだろうか。疑問が幾つかフェレシュテフの頭の中に浮かんできたが、それよりも彼女には気になることがある。


(若しかして……初めてまともに名前を呼んで貰えた……?)


 ”フェ何とか”でも、”フェレ何とか”でも、”フェレシュ何とか”でもなく、”フェレシュテフ”と。疑問符はついているが、チャンドラがフェレシュテフを”フェレシュテフ”と呼んだ。そのことに驚愕したフェレシュテフが硬直していると、チャンドラはしゃがみこみ、じとっとした目つきで彼女の顔を覗き込んできた。


「……おい、返事をしろ。聞こえてねえのか?」


 不機嫌そうな声が耳に入り、フェレシュテフは我に返る。


「い、いいえ、確りと聞こえてます……っ!あの、その、具合が悪い訳ではなくて……ええと、久しぶりに外出をしたので疲れてしまいまして、此処で休んでいたのです……」


 彼女は咄嗟に言い訳をしてみたが、声が少し上擦ってしまった。笑顔も無理やり作った為に、口元が引き攣ってしまっている。するとチャンドラは渋面をし、「家は何処だ。連れて行ってやる」と言ってきた。鋭い虎の目は、フェレシュテフが隠そうとしたことを見抜いたのかもしれない。


「……いいえ、お手数をかける訳には参りません。チャンドラさんはお仕事中なのでしょうから……」


 とフェレシュテフが遠慮をすると――大きな手に、頭をがしっと掴まれた。チャンドラはフェレシュテフの頭を鷲掴みにしている。


「……え?」


 どうして、頭を鷲掴みにされているのだろう。フェレシュテフは状況が把握出来ず、呆気にとられている。


「……こんな暗い所でいつまでも蹲ってると、また男に襲われるぞ」


 低い声で放たれた言葉を耳にした途端、フェレシュテフは反射的に体を強張らせ、一瞬で青ざめる。それを目にしたチャンドラは、やれやれとばかりに小さく溜め息を吐いた。


「暗い顔で平気な振りしたって、意味がねえよ。大人しく送られとけ、この莫迦」


 ぼそりと呟くと、チャンドラは彼女の頭を掴んでいた手を離し、かたかたと震えるフェレシュテフを片腕で抱き上げる。彼女がか細い声で「御免なさい」と言ったのがはっきりと聞こえていたが、チャンドラは知らん振りを決め込んで、すたすたと歩き始めた。







**********






 チャンドラは片腕でフェレシュテフを抱きかかえながら、亜人の居住区を黙々と歩いている。そんな彼に、フェレシュテフはおずおずと道案内をしている。「其処の角を左に曲がってください」などと声をかけると、「んー」とか「おう」といった気のない返事はあるが、それ以外には特に会話はない。沈黙が、二人の間を支配している。

 彼に言いたいことがあるのだが、何と言って話を切り出したら良いものかと、あれこれと考えていたフェレシュテフは思い切って口を開いてみることにした。


「あの……セーヴァさんから伺いました。その……森の中で倒れていた私をチャンドラさんが見つけて、看病してくださったと。その節は有難う御座いました。御礼を申し上げるのが遅くなってしまいまして、申し訳ありません」


 改まった様子でフェレシュテフが謝辞を述べるが、チャンドラは真っ直ぐ前を向いたままで無言を貫いている。礼を言われるようなことはしていない、と言っているようにも見える。


「それで、その、私……チャンドラさんにお会いしたことは覚えているのですけれど、その先の記憶が曖昧で……。人事不省の私は、チャンドラさんに失礼なことをしたりはしておりませんでしたでしょうか……?」


 どうか嫌な予感が外れてくれますように、と、願いながらフェレシュテフはチャンドラに尋ねてみる。すると彼は不意に足を止めて、明後日の方向を見つめながら暫し黙考した。何かを思い出したらしいチャンドラは顔を背けると、徐に口を開いた。


「……何だかよくは分からねえが……帰る場所がねえだとか、自分は娼婦だからどうなろうが誰も何とも思わねえだとか、放っておけだとか、色々と言ってたな」


 フェレシュテフが放置されていた場所の周辺は、チャンドラの行動範囲の中だ。そんな所で死なれていては、気分が悪い。気紛れで拾ってみただけだ、と、彼はとても面倒臭そうに答えた。

 嫌な予感は外れてはくれなかった。命の恩人に対して何て失礼なことをしてしまったのかと、フェレシュテフは激しく落ち込む。


「その節は……大変申し訳ないことを致しました……」

「……別に気にしてねえ」


 そう言う割にはチャンドラは比較的細かく、その時のことを覚えているようだが。顔面蒼白のフェレシュテフを青い目でちらりと見ると、チャンドラは止めていた足を動かし始める。


「……そういえば。前に市場で出会した時に、身請けされたとか言ってただが……あんたを身請けしたのはヴァージャさんだったんだな。あの人、あんたの亡くなったおっ母さんの古い知り合いなんだって?」


 チャンドラの口から思いもよらない言葉が出てきたので、ぐるぐると考え込んで落ち込んでいたフェレシュテフは一気に我に返る。どうしてそのことを知っているのかとチャンドラに尋ねてみると、彼はすんなりと答えてくれた。どうやらフセヴォロドが差し支えない程度のことを教えてくれたらしい。彼曰く、何も訊いていないのに。


「あんた、あんなこと言ってたけどな……、セーヴァはあんたの帰りが遅いって心配して、匂い辿って、俺の家まで捜しに来た。ヴァージャさんも、あんたが寝込んでる間、仕事をつい疎かにしちまうくらいあんたのことを案じてた。あんたがどう思ってんのかは知らねえが……あの二人はあんたのことを大事にしてんだよ。ちっとは信用してやれ」

「……はい」

「共に暮らすようになってから大分経つが、未だ打ち解けきれてねえみてえだって煩ぇんだよ、あの二人。何でか赤の他人の俺にこぼしてきやがる……」


 悩み相談は受け付けてねえっつーの、と、チャンドラはごちるので、フェレシュテフは反射的に謝った。


「す、すみません……」

「……まあ、相談料として菓子を貰ったけどな」


 チャンドラはヴラディスラフかフセヴォロドにお菓子で買収されたらしい。お菓子につられるチャンドラを想像してしまったフェレシュテフは、笑いそうになってしまうのを何とか堪えた。だが体が微かに震えてしまったので、若しかしたら笑ったことがチャンドラにばれてしまったかもしれない。

 そうやって話しているうちに、二人はフェレシュテフたちが暮らしている家の前までやって来ていた。建物を目にしたチャンドラは自分の宿である平屋と比較したのか、「豪華な家だな」とぼそりと呟くと、抱き上げていたフェレシュテフをそっと地面の上に降ろしてくれた。


「……送って頂きまして、有難う御座います」

「……ああ」


 フェレシュテフが頭を下げると、チャンドラの愛想のない短い返事があった。今度は流されずに済んだようだと、フェレシュテフは安堵する。のろのろと顔を上げると、未だチャンドラが目の前にいた。今まで彼がとってきた行動から考えると、用が済んだら早々に立ち去っているはずなのだが。どうかしたのだろうか、と、フェレシュテフは不思議そうな顔をして彼を見上げる。仏頂面をしているチャンドラは、じっとフェレシュテフを見下ろしている。


「……怪我はもう治ったのか?」

「え?あ、はい、もうすっかり……」

「……ふぅん、あっそ」


 そんなことを尋ねられるとは露にも思っていなかったフェレシュテフは驚きつつも、正直に答える。チャンドラは気のない返事を寄越すと、チャンドラは不意にフェレシュテフの口元に目をやると――何かを思い出したらしい。突然顔を赤くして、勢い良く体の向きを変えた。


「チャンドラさん?」

「……兎に角、あの二人をどうにかしろ、あんたが!……じゃあなっ」

「え?は、はい、承知致しました……っ!」


 尻尾を不自然な動きで揺らしながら、チャンドラはずんずんと歩いていってしまう。


「……どうなさったのかしら?」


 彼の姿が見えなくなるまで見送っていたフェレシュテフは、チャンドラのとった行動の理由が分からないので、こてんと首を傾げた。






**********






「あの……ヴラディスラフさん、セーヴァさん。お話したいことがあるのですが、宜しいでしょうか?」


 ヴラディスラフたちが帰宅してから、夕食の時間を経て、フェレシュテフは一息ついている彼らに話を切り出した。彼女は何故そうしたのかというと、チャンドラに言われたからだ――心配のあまりチャンドラに相談を持ちかけてくるヴラディスラフたちを自分でどうにかしろと。どうにかしろ、と言われても具体的には何をしたら良いのか、フェレシュテフにはさっぱり分からなかった。彼らが帰宅するまでの間に、彼女はあれこれと考え、結論を導き出した。

 彼らに伝えたいことを、フェレシュテフはちぐはぐに話していく。ヴラディスラフに身請けして貰ったことを未だに引け目に感じていること。ヴラディスラフたちに家族だと言って貰える価値が果たして自分にあるのか、娼婦だった自分がこんなにも良い目を見ても良いのだろうかと不安に思っていること。今回のことでなかなか立ち直れないでいる自分が情けなくて悔しくてどうしようもなくなって、彼らが差し伸べてくれた手を払ってしまうこと。決してヴラディスラフたちを信用していない訳ではないこと。

 フェレシュテフは、洗い浚い思いを吐き出す。ヴラディスラフもフセヴォロドも、彼女の心情の吐露に静かに耳を傾けてくれていた。


「それでその……図々しいとは承知の上で、お二人にお願いしたいことがあるのです。私が立ち直れるまで……どうか手を貸してはくださらないでしょうか……?」


 迷惑をかけたくないからと一人で頑張るのには限界があるのだと、フェレシュテフは思い知った。泥のようにぬかるんでいる状況から抜け出すには、誰かの手を借りることも必要なのだと思い直した。


「フェレシュテフ、面を上げろ」


 深々と頭を下げるフェレシュテフに、フセヴォロドが抑揚を欠いた声をかける。都合の良いことを言っていると呆れられてしまったのかもしれないと、しょんぼりしたフェレシュテフが顔を上げると、彼は人差し指で彼女の額を、ちょん、と突いた。力は全く入れられていなかったが、鋭い鉤爪が肌に刺さったような感覚がしたフェレシュテフは呆然としながら額に手をやる。


「フェレシュテフが困っているのであれば、セーヴァもヴァージャも迷わずに手を差し伸べる。身請けされたからといって、そんなに下手に出る必要はない。セーヴァたちはフェレシュテフを家族だと思っていると言っただろう。そうだろう、ヴァージャ?」

「ああ、その通りだよ、セーヴァ。そういうことですから、遠慮することなど何もないのですよ、フェレシュテフさん。頼って頂けて、我々はほっとしているくらいです」

「……はい」


 フェレシュテフは彼らに拒絶されることを恐れていた。けれども、彼らは彼女を拒絶しなかった。そのことが嬉しくて、フェレシュテフのすっかり弱っている涙腺は涙を分泌した。泣いてばかりで目が融けてしまいそうだと、彼女は頭の隅で考える。

そんな彼女の肩をヴラディスラフたちは優しく抱いて、宥めてくれた。その手は温かくて、心地が良い。


「……あの、もう一つ、お願いがあるのですが……」


 一頻り泣いて落ち着いたフェレシュテフは、もう一つの話を切り出す。家族であるのならば、自分のことを愛称である”フェルーシャ”と呼んでは貰えないだろうかと。いつまでも”フェレシュテフ”ではよそよそしいのではないかと。


「母が亡くなってからは、何方も私をフェルーシャとは呼んではくださらないので……出来ましたら、お二人にそう呼んで頂けたらと、思いまして……」


 フェレシュテフの亡くなった父親の故郷では、親しい人同士は愛称で呼び合う習慣があるのだと、何時だったかナーザーファリンが話していた。打ち解ける為の材料として、これは打ってつけではないだろうかとフェレシュテフは考えたらしい。

 そんな提案を告げた彼女は、ふと思い出す。つい最近、誰かにフェルーシャと呼ばれたような、と。だが、それが誰だったのかまでは思い出せない。熱に魘されていた時の夢の中だったのかもしれない。


「うむ。家族であるのならば、愛称で呼ぶ方が良いな。セーヴァは承知したぞ、フェルーシャ」

「……そうですね。それでは、これからは……フェルーシャさん……と呼ばせて頂きますね」


 腕を組んでいるフセヴォロドは大きく首を縦に振り、ヴラディスラフもどこか寂し気な笑みを浮かべて「私のことはヴラディスラフではなく、ヴァージャと呼んでくださいね」と言って了承してくれた。


「……ヴァージャ、さん」

「はい、何でしょう、フェルーシャさん?」

「あ、すみません、練習で呼んでみただけです……」

「ふふふ、そうですか」


 フェレシュテフとヴラディスラフのそんなやりとりを、フセヴォロドは目を細めて、尻尾をゆらゆらと楽しげに揺らしながら眺めている。




 ヴラディスラフたちに不安な気持ちを全て打ち明けたことで、フェレシュテフの重たくなってしまっていた心は随分と軽くなっていた。


(チャンドラさんは何気なく仰ったのかもしれないけれど……ても、あの言葉があって、私は一歩を踏み出すことが出来たのだと思うわ……)


 ぶっきらぼうで口が悪いが、根はどうやら御人好しなのかもしれない白い虎の亜人ドゥンのことを思い浮かべるフェレシュテフの口元は綻んでいる。そのまま寝台の上に寝転がると――幾ばくもしないうちに、フェレシュテフは寝息を立て始めていた。

 その日の夜は不思議なことに、悪夢に魘されることはなく、彼女は久方振りに深い眠りにつくことが出来た。それからの日々も、悪夢を見る回数も、ふとした拍子に乱暴された時の記憶が蘇ってきたりすることも徐々に少なくなってきた。

 それは何故なのか。恐らくは彼女の心に、何らかの変化が現れてきた結果なのかもしれない。

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