第10話 心情、とろとろ

 暗闇の中、フェレシュテフの意識が浮上する。酷く重たい瞼を抉じ開けてみても、暗闇で何も見えない。自分は何処にいるのだろうか、それが全く分からない。すうっと息を吸い込んでみると、げほげほと咽こんでしまった。喉が痛い、いや、体中が痛い。それは何故なのだろうかと、フェレシュテフは考える。


(ああ……そうだわ。私、あの男に首を絞められて……)


 自分の身に何が起こっていたのかを思い出す。意識が途切れる寸前、フェレシュテフは死を悟ったが――気絶しただけらしい。自分は未だ生きているのだと自覚した途端に、それまで失っていた感覚が元に戻ってきた。うつ伏せに転がっていたフェレシュテフは体を起こし、その場に座り込む。立ち上がろうとしたのだが、男たちにいいように弄ばれたせいか、腰が抜けてしまっていて立てなかったのだ。


(此処は何処なのかしら?マツヤの町の中でないことは分かるのだけれど……)


 体中についてしまっている土を払いながら、周囲を見渡す。目に映るのは暗闇で、何も見えない。やけに暗い場所にいるからなのか、いつの間にか太陽が沈んで夜になっているからなのかは分からなかった。けれど鼻で感じる匂いや、耳に入ってくる小さな音などで、自分は屋外にいるのだということは理解出来た。


(私、全裸だわ。何もつけていない、何も、何も……)


 身に着けていたサリーは、彼の家と思われる場所に連れていかれた時に剥ぎ取られていた。ヴラディスラフが買い与えてくれた耳飾りや首飾り、腕輪に足輪が喪失している。スブーシュが盗んでいったのか、はたまた第三者がそうしたのかは分からない。フェレシュテフは、身包みを剥がされた状態で此処に捨て置かれたようだ。


(……お母さんの目玉のお守りチェシィ・ナザールまで盗られてしまったのね……)


 あれは亡き母親の唯一の形見だ。漸く手に戻ってきたばかりだというのに、また失ってしまった。それが悲しい。そして物のように扱われ、挙句に捨て置かれてしまったことも悲しい。悲しくてどうしようもなったフェレシュテフの目に自然と涙が溜まっていき、次第にぽろぽろと零れ落ちていく。

 どうして、こんな目に遭わなければならないのだろう。フェレシュテフは立てていた膝を抱き、啾啾と泣く。どれくらいそうしていたのか、止め処なく流れていた涙も枯れてしまい、フェレシュテフは落ち着かざるをえなくなってしまう。泣き止んだ彼女は、ふと顔を上げた時に自分の目が暗闇に慣れていることに気が付いた。

 のろのろと首を動かして窺い見てみる。自分がいるのは土が雨か何かで抉れて出来たような窪みで、目の前には無数の樹木や草が多い茂っている。ということは、此処は森の中だろうかと彼女は察する。


(マツヤの町の近くに森はあるけれど……)


 けれど方角が分からないので、町に戻ることが出来ない。闇雲に歩けば、森の中をさ迷い歩くことになるのは目に見えている。ならば朝になるまで此処で待っていれば良いか、と考えて、彼女は急に落ち込んだ。このまま、ヴラディスラフたちが待っている家に帰ることは出来ない。何事もなかったかのように装うことも、振舞うことも出来ない。この姿では、彼らはフェレシュテフの身に何が起こったのかを察してしまう。特にフセヴォロドはフェレシュテフの体にこびりついてしまった匂いで、詳細に察するだろう。


(帰れないわ。怖くて、帰れないわ……)


 フェレシュテフは強い不安を感じる。膝を抱いて、顔を伏せて微かに震えだす。


「おか……さん、たす、けて……」


 既にこの世にいない母親に助けを求めても意味はないのだと理解しているはずなのに、フェレシュテフは掠れた声で助けを求めた。当然、返事はない――はずだった。


「おい。何でこんな所で素っ裸でいるんだ、フェレシュ何とか」


 鼓膜を叩いてきたのは母親の優しい声ではなく、ぶっきらぼうな男の声だった。フェレシュテフはびくりと身を強張らせると頭を抱え、微かだった震えを大きくした。また酷い目に遭わされるのではないかという恐怖が激しく胸を襲う。


「ごめん、な、さい、ごめんな、さ、いっ。もう、何も、残って、ない、ですっ。酷い、ことを、しないで、殺さ、ない、で……っ」


 あの恐怖をもう一度味わいたくはない。掠れた声を搾り出して必死に命乞いをするフェレシュテフ。彼女の肌に触れてきたのは荒々しい手などではなく、ふわりとした何かだった。


「盗みも殺しも、女を手篭めにするのも俺の趣味じゃねえ」


 不機嫌そうな声音に覚えがある。フェレシュテフは恐る恐る顔を上げ、驚きを露にした。彼女の目の前にいたのが、鋭い青い目をした白い虎の亜人ドゥンだったからだ。どうしてチャンドラがこんな所にいるのだろうか、と、フェレシュテフは呆気にとられる。


「チャン……ドラ、さん?」

「……ああ、そうだよ」


 彼は呆れた様子で首の後ろを掻くと、その場にしゃがんで、彼女の顔を覗き込んできた。しゃがんでも随分と高いところに顔があるので、フェレシュテフは自然と彼を見上げることになる。

 自分が今、どんな姿をしているのかに気が付いた彼女は恥ずかしくなり、俯いてしまう。その時に初めて、自分の体にかけられたのが彼の上着であることを知った。チャンドラの上着を羽織るのは、二回目だ。フェレシュテフは袷を握り締め、微かに残っているチャンドラの体温を感じ取る。


「あんた、動けるのか?」


 そう問われたフェレシュテフは立ち上がろうとしたが、体がいうことを利かず前のめりになる。そのまま倒れこみそうになったところを、チャンドラの腕が抱きとめた。


「動けねえなら動けねえって言え」

「すみ、ま、せん……」


 フェレシュテフが俯きながら謝ると、頭上で小さい溜め息を吐かれたのが聞こえてきた。


「おい、家は何処だ。この前、身請けされたって言ってただろ。連れて行ってやるから、場所を教えろ」

「……帰れま、せん。帰る場所、なんて、ありま、せん……っ」


 フェレシュテフは体を支えていてくれるチャンドラの手を弱々しい力で払いのけると、羽織っていた上着を剥ぎ取って彼に突っ返す。


「私が戻らなく、ても、誰も、何も思いませんっ。だって、私は、卑しい娼婦です、ものっ。強姦、されようが、強盗に、遭おうが、命を、落とそうが、誰も、何も思い、ませんっ。娼婦なんて、そんなもの、です、から……っ」


 口を突いて出てきたのが八つ当たりの言葉だったので、フェレシュテフは戸惑った。けれどどうしてか止められず、言葉が勝手に溢れてきた。チャンドラは何も言わず、黙っているばかりだ。


「娼婦、の、末路、なんて、こんなもの、です。チャンドラ、さんが、気にかける、ことは、ありませんっ。放っておけば、良いんですっ。此処で、野垂れ死んだと、しても、誰も、不思議に、思いません、からっ。お気遣い、有難う、ございましたっ。ごきげんよう……っ! 」


 いつでも付けることの出来た”良い子ちゃん”の仮面は、顔に貼り付けられなかった。いつの間にか壊れてしまったようだ。自分をこんな目に遭わせたのはチャンドラではないというのに、行き場のない燻った思いを彼にぶつけてしまったことをフェレシュテフは後悔するが、なかったことには出来ない。

 一刻も早く何処かへ向かわなければ。彼女は唐突にそう思い、踏ん張りの利かない足で無理やり立ち上がろうとしたが、くらりと眩暈がして崩れ落ちる。然し彼女の体は地面の上に転がることはなく、再びチャンドラの腕に抱きとめられた。


(何をしているのかしら、私は。情けないわ、チャンドラさんに八つ当たりして、こんな醜態を晒して……っ)


 どうしようもなく泣きたくなってくるが、涙が出てこない。涙はとうに枯れているからだ。


「……熱があんだから大人しくしてろ、この莫迦」


 ぼそりと呟くと、チャンドラは上着をフェレシュテフに羽織らせ、彼女を横抱きにして立ち上がり歩き始めた。フェレシュテフを何処かへと連れて行くつもりのようだ。


「放っておいて、ください……っ。私なんて、私なんて……っ」


 熱があるとチャンドラに言われるまで気がつかなかったが、そういえば体がいやにだるい。少しばかり息が上がっているようだし、体の節々が痛み、何より体が熱い。発熱しているのだと理解したフェレシュテフは抵抗の意思を露にするが、それとは裏腹にチャンドラに身を預けて、ぐったりとしている。


「うるせえ、黙ってろ、フェレシュ何とか。大人しく拾われておけってんだ」

「……フェレシュテフ、です……」


 チャンドラは人間の名前を覚えるのが苦手なのか、それともわざとやっているのだろうか。それでも以前よりは名前を覚えられている。フェレシュテフのフェレシュ、までは言えている。


「何処に、行くの、ですか……?」


 チャンドラはフェレシュテフを拾ってどうするのだろう。あの男たちのように慰み者にするのだろうか。いや、それはないだろう。彼は以前、亜人だろうが人間だろうが女は好きではないとはっきりと言っていたのだから。

 そうではないのだとしたら、何なのだろう。若しかして、彼女を色町に売り飛ばすつもりなのだろうか。


(駄目よ、私、疵物だもの。商品価値が低いわ。娼館の店主が高く買うのは、年若い処女だもの。私を売り飛ばしたって、安い金にしかならないわ……)


 心身ともに傷ついているフェレシュテフの頭の中に浮かぶのは、悲観的なことばかりだ。そんな彼女の問いに応えることもなく、チャンドラは黙ったまま歩を進めていくばかりだ。

 そのうちに瞼が重くなっていき、フェレシュテフは彼に抱きかかえられたまま眠りに落ちていったのだった。






**********






 私は親に売られて娼婦になったのではないわ。自分から進んで娼婦になったのよ。だって娼婦になれば、手っ取り早くお金が稼げると人に聞いたから。

 病気で倒れたお母さんを助けたくて、そうしたのよ。お母さんは私が物心つく前に未亡人になって、女手一つで苦労しながら私を育ててくれたのだもの、少しでも楽にさせてあげたかったのよ。――というのも事実だけれど、本当は一人ぼっちになりたくなかったの。お母さんを失ってしまうと、私は天涯孤独になる。それがとても怖かったの。

 そうならない為に頑張ったわ。馴染みのお客さんを作ろうって頑張ったわ。これが仕事だからと自分に言い聞かせているうちに、男の人に抱かれることに慣れていってたわ。

 頑張って、頑張ったけれど、お母さんも頑張ってくれたけれど――結局お母さんは亡くなってしまって、私は天涯孤独になってしまって借金だけが残ったわ。だけど借金があって良かったって、心のどこかで思っていたわ。これがある限りは生きる目的があるし、娼館という居場所を失わないで済む。そのことを心の支えのようにしていた私は、その先のことはあまり考えないようにしていたわ――怖くて、たまらなかったから。


 娼婦になったことを後悔したことなんてなかったわ。そのおかげでお母さんをお医者様に診せてあげることが出来たもの。だけど、娼婦だからと蔑まされたり、性欲の捌け口にされて体を嬲られるのは悲しいわ、虚しいわ。足を洗ったから、なんてことは関係ない。そうであったということは一生ついて回るんだって理解していたはずなのに、私は今、とても辛い。自分で選んだ道を、後悔し始めている。


『生きてさえいれば、いつかは良いことがあるわ』って、お母さんはよく言っていたわね。ええ、良いことはあったわ。

 初めてお客さん以外の男の人に優しくして貰ったの。人間ではなくて、亜人の男の人だけれど。でも、嬉しかったわ。

 ヴラディスラフさんに身請けをして貰って、ヴラディスラフさんとセーヴァさんと共に生活をし始めて……本当に良いのかしらって戸惑うこともあったけれど、いつしか楽しくなっていたわ。良いことがあって、私は舞い上がっていたのかもしれないわね。だから、こんな目に遭ったのよね。まさか死ぬような目に遭うとまでは思いもしなかったのだけれど。


 ――あのまま死んでいたら、楽になれていたのかしら?お母さんと、顔も知らないお父さんのいる所に行って、二人に抱き締めてもらえたのかしら?

 死に損なってしまったことが悲しいなんて思うのは――どうなのかしらね、お母さん?貴女は私を叱る?それとも――






**********






 森の入り口に近いところに、とても大きな平屋が建っている。そこがチャンドラの家だ。

 森に囲まれた虎の亜人ドゥンの里で生まれ育ったチャンドラは人々で溢れているマツヤの町の喧騒に慣れられず、地主――雇い主のヴィクラムの了承を得て、この場所に自分で家を建てた。なので、所々建て付けが悪いのだが――チャンドラは全く気にしていない。

 成り行きで連れて帰ってきてしまったフェレシュテフの汚れた体を洗って綺麗にしてやると、チャンドラは虎の亜人ドゥンの里秘伝の傷薬を傷口に塗り、手当てをしてやった。自分の寝床に寝かせたフェレシュテフが息苦しそうにしているので、彼はそっと額に手をやる。先程よりも熱が上がっているようだ。寝床の傍に腰を下ろしていたチャンドラは立ち上がると家を出て、あるものを探す為に周囲をうろうろとし始めた。




 折角の休日なのでと、森の中のお気に入りの場所でゆったりと過ごして戻ってきたチャンドラは、風上から漂ってくる嗅いだことのある匂いに反応する。何となく其方へと足を向けてみた結果、全裸のフェレシュテフを見つけてしまったので彼はとても驚いた。

 何が遭ったのかは、匂いはもちろん見ただけで理解した。だが、彼女に関わる気はない。知らぬ振りをして立ち去ろうとするも、視界に入れてしまった以上は放っておくのも何だか気が引けるような気が段々としてきて、つい声をかけてしまい――今に至る。

 ――何をしているのだろうか、俺は。

 チャンドラは頭を抱えたくなった。


(畜生、これじゃあ双子の兄スーリヤのことをとやかく言えねえじゃねえかよっ)


 チャンドラは以前、遠くで暮らしている双子の兄が人間の女を拾って面倒を見たことについて文句を言っていた。その兄がこの状況を見たとしても、チャンドラをからかうことはなく「ふうん」で済ますことは容易に想像出来るが――チャンドラにはその余裕が面白くない。

 うだうだと考え事をしながらも、夜でも物が良く見える虎の目で雑草に紛れて生えている薬草を見分けて、摘んでいく。ある程度の量が溜まってところで切り上げ、彼は家に戻ると狭い炊事場へ向かい、湯を沸かすことにしか使わない鍋で薬草を煎じる。出来上がったそれは、湯飲みなどではなく適当な器に淹れられた。チャンドラはそういうことをあまり気にしない。


「おか……さん、おかあ、さん。いか……ないで、一人に、しないで……っ」


 夢を見て魘されているのだろうか。炊事場から戻ってきたチャンドラの目に、片手を宙に彷徨わせて母親を呼んでいるフェレシュテフの姿が入ってきた。


「……おい。目を覚ませ、フェレシュ何とか」


 チャンドラは出来るだけ力を入れないようにと物凄く気を遣って、フェレシュテフの頬をぺちぺちと叩く。彼女はうっすらと目を開き、ぼんやりとチャンドラを見つめる。


「飲め。鎮痛効果もある熱さましだ。苦いが、よく効く」

「……は、い」


 チャンドラは汗ばんでいる体を起こして支え、煎じ汁を飲ませようとするが――夢うつつのフェレシュテフはそれを上手く飲むことが出来ず、口から零してしまう。


「……たく、仕方がねえな」


 チャンドラは煎じ汁をくいっと呷ると、薄く開いているフェレシュテフの唇に自分のそれを重ね、口移しで飲ませていく。


(……何だこれぁ。若しかして野郎の出したあれの味か?最悪だな……)


 彼女の喉がこくこくと動き、嚥下していることを確認しながら、チャンドラは器用に舌を使って薬草の煎じ汁を少しずつフェレシュテフに飲ませていく。それを繰り返して煎じ汁をフェレシュテフに全て飲ませると、彼は彼女を寝かしつけ、唇の端についている水滴を指で拭ってやる。


(人間の舌ってつるつるしてんだな)


 暫くすれば薬草の効果が現れ、彼女の熱は下がっていくだろう。鎮痛効果もあるので、体の痛みも多少は和らぐはずだ。


(あー、くそっ。どうすっかな……)


 そういえば夕飯を食べていないとチャンドラは思い出すが、弱っているフェレシュテフを放ってマツヤの町へとくりだし、外食をすることは出来ない。何だかんだで拾ってきてしまったからには、責任を持って面倒を見なければとチャンドラは考えているのだ。

 だが、一人暮らしで自炊をしていないチャンドラの家にはめぼしい食料はない。


(あーあ、何で拾っちまったんだろうな、こいつを……)


 一度きりの縁と思っていたのに、フェレシュテフとは不思議と縁があるような気がしてきたチャンドラは、それは気のせいだと首を振る。さて、どうしたものかと考えながら徐に屋外に出てみると何やら気配を感じた。目を鋭くしたチャンドラが其方へと目を向けると、マツヤの町の方向から此方へとやって来る影が見えた。


「此処はチャンドラの家か?」


 チャンドラの目の前までやって来たのは、黒い鱗の鰐の亜人マカラ――ではなく、自称竜人ジラントという亜人のフセヴォロドだ。一月あまり前に人間のヴラディスラフと共に”ヴィクラム商会”に入社してきた彼を、チャンドラは確りと把握している。自称を愛称で言い、相手には愛称で呼んで欲しいと言う変わった亜人だと。


「ああ、そうだ。……セーヴァはどうしてこんな所にいるんだ?」


 仕事上での付き合い程度なので、チャンドラはフセヴォロドに自分が何処に住んでいるか、などの情報を明かしていない。彼が散歩がてらに此処を見つけたのだとしても、夜に森の中を散策する物好きはそうそういない――森で育ったチャンドラを除いて。


「匂いを追ってきたら、此処へ辿り着いたのだ。中にフェレシュテフはいるか?美しい金茶色の髪と、緑色の目をした人間の女性だ」


 フセヴォロドの口からその名前が出てくるとは思わなかったチャンドラは驚いた。


「……セーヴァは、フェレシュ……テフ?の知り合いなのか?」

「知り合いではない。セーヴァもヴァージャも大切に思っている、家族の一員だ」


 そういえば、フセヴォロドはヴラディスラフともう一人の人間の三人で暮らしているのだと、”ヴィクラム商会”の受付嬢――蛇の亜人ナーガのカドゥルーが言っていた。そのもう一人の人間というのがフェレシュテフだったらしいと、チャンドラは初めて知る。

 家の中に招き入れられたフセヴォロドはチャンドラの寝床で眠っているフェレシュテフの傍に腰を下ろすと、鉤爪のついた大きな手で彼女の額にそっと触れる。フセヴォロドの鼻が利くのであれば、フェレシュテフの身に何が遭ったのかは直ぐに察するだろうが、一応説明をした方が良いだろうかとチャンドラが口を開こうとした時、先にフセヴォロドが口を開いた。


「とても理不尽な目に遭ってしまったのだな、フェレシュテフは。痛かっただろうに、悲しかっただろうに。だが不安に思うことはない。セーヴァもヴァージャも、フェレシュテフを侮蔑の目で見ることはない。安心して、体を休めるのだ……」


 表情は全く変わらないが、フセヴォロドは優しい目で彼女を見つめて彼女の頬を撫でる。その様は、子供を見守る親のようだ。チャンドラは入り口の近くの壁に背を凭れて、黙って見ていた。


「チャンドラ。フェレシュテフを助けてくれたことを感謝する」

「……礼を言われるようなことはしてねえよ。ただの気まぐれだ」

「ふむ。チャンドラは素直ではないのだな。だが、セーヴァには理解出来るぞ。チャンドラは心優しいのだと」


 恥ずかしい台詞をさらりというな、この亜人。チャンドラはつい、フセヴォロドを白い目で見てしまった。

 フセヴォロドは立ち上がり、チャンドラに近づく。人間よりも遥かに背の高い二人が並ぶ。フセヴォロドの方が、チャンドラよりも更に背が高いようだ。


「チャンドラは腹が減っているのだろう」

「あ?何で分かる……」

「うむ、野生の勘というものだ。セーヴァは一度町に戻り、ヴァージャに現状を伝えてこようと思う。そして食べ物を買ってこよう。その代わりに、今しばらくフェレシュテフを見ていてくれないだろうか」


 フセヴォロドが提示してきた交換条件に特に不満はないので、チャンドラはあっさりとそれを引き受ける。


「色々とすることがある。少しばかり……いや、思うより時間がかかってしまうだろうが、怒らないで欲しい」

「腹減ったくらいで怒らねえよ」

「そうなのか?チャンドラは腹が減ると機嫌が悪くなると、カドゥルーが言っていた」

「……余計なこと言いやがって、カドゥルーのやつ……っ」


 そうしてフセヴォロドは町へと戻っていき、家の中に再び静寂が訪れる。

 チャンドラは目だけを動かして、フェレシュテフを見る。薬草の成分が効いてきて熱が下がり、体の痛みが和らいできたのか。フェレシュテフの表情は苦しげではなくなっていた。

 そのことにチャンドラは安堵した。


「……何が帰れないだよ。心配して捜しに来てくれる奴らがいるじゃねえか」


 悪態を吐くような言葉だが、チャンドラの声音は少しだけ優しい。表情も心なしか、優しいように見受けられる。

 そんなチャンドラが呟いた言葉を、眠るフェレシュテフは聞くことは出来ない。若しも聞いていたら、彼女はどんな反応を見せるのだろうか。

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