第8話 火から炎へ(壱)

※フェレシュテフが酷い目に遭います。

そういうことが好きではない方は回避してください。



 ふわふわと浮ついた様子を見せ、ヴラディスラフたちに心配の念を抱かせていたフェレシュテフだが、日が経つにつれて落ち着きを取り戻してきた。そのことにヴラディスラフたちがこっそりと安堵の息を吐いたことを、彼女は知らないでいる。

 フェレシュテフが縫ったクルタを身に着けたヴラディスラフたちを見送った後、彼女は洗濯をし屋上に張っている洗濯紐に洗ったばかりの服を干していく。暑いのは毎度のことだが、今日は風がほんのりと湿り気を帯びているだけのように感じられるので、洗濯が乾くのが少しだけ早そうだ。洗濯物を干し終えたフェレシュテフは、次に家の掃除を始める。共用で使う部屋はあまり散らかってはいないが、人の出入りが多い為か箒で床を掃いていくと砂埃や塵が結構集まる。


「ああ、そうだわ。ヴラディスラフさんのお部屋もお掃除しなくちゃ」


 フセヴォロドは家事が趣味であると豪語するだけあり、私室の掃除は彼がきっちりとやっている。ヴラディスラフはというと時折フェレシュテフに私室の掃除をして欲しいと頼んできてくれ、彼女が断りを入れても駄賃を寄越してくれる。

 母国では事業家をしていたというヴラディスラフの私室――仕事部屋も兼ねている――は、娼館”ソーマの雫”の店主ジャグディシュの仕事部屋のように金目の物で溢れているのだろうかとフェレシュテフは思っていたのだが、実際は違っている。彼の私室の中はというと寝台と仕事机、そして本棚が二架に衣装箪笥が置いてあるだけで、とても質素だ。富を有しているのだと誇示するような高価な調度品などは見当たらない。

 簡素な造りの寝台と仕事机の上には読みかけの本や異国の言葉の辞書などが散らばっており、屑籠の中には書き損じたらしい紙がくしゃくしゃに丸めて捨てられている。散らばっている本や辞書を本棚の空いている場所に戻していき――本は適当な場所に戻しておいてくれて構わないとヴラディスラフに指示を受けている――フェレシュテフは、使い古された筆記用具を指定の場所に戻してから机を乾拭きしたり、それほど散らかっていない部屋の中を丁寧に箒で掃いていく。


「あら?」


 机の下を掃こうとして椅子をどけたところ、二枚の用紙が落ちているのを見つける。拾い上げて見てみると、それにはフェレシュテフには読めない異国の文字が羅列していた。仕事先では通訳の他に翻訳も任されているとヴラディスラフは言っていたので、これは翻訳の作業に使ったものなのだろうか。ともすれば、これは彼の仕事に必要不可欠なものなのではないか。

 フェレシュテフは用紙を一旦机の上に置き、さっさっと机の下を箒で掃いて塵を塵取りに纏めると、屑籠と掃除道具を持って一度ヴラディスラフの私室を出て行く。塵捨てを終えて戻ってきた彼女は屑籠を所定の位置に戻すと、机の上に置いていた用紙を手にして、戸締りを確りとしてから家を出る。フェレシュテフは用紙をヴラディスラフに届けることにしたようだ。






**********






 ――ヴラディスラフたちの勤め先は何処なのか。

 彼らと共に暮らし始めて漸く彼らの存在に慣れてきた頃、フェレシュテフは会話の流れで何となく彼らに尋ねてみたことがある。彼らは快く、その質問に答えてくれた。

 彼らの勤め先はなんと、フェレシュテフが命の恩人であると慕っているチャンドラが勤めている”ヴィクラム商会”だった。そのことを知ったとき、彼女はあまりの偶然に驚いたものだ。だがヴラディスラフたちには、チャンドラという恩人がそこで働いているのだと話してはいない。そして先日チャンドラに再会した時も、ヴラディスラフたちのことは彼には話さなかった。元、がつくとはいえ娼婦と関わりを持っていると言外することを彼らは良しとしないのではないかと、彼女は思ったのだ。フェレシュテフは世間から娼婦が良い目で見られていないことを嫌というほど知っているからこそ、自分からは何も言えないのかもしれない。


(運が良ければ、チャンドラさんの姿を見かけることが出来るかしら?)


 それでも、少しでもチャンドラに関わることが出来たら良いと考えてしまうのは何故なのだろうか。フェレシュテフは市場に買い物に行く度に白い虎の亜人ドゥンの姿を捜していたのだが、なかなか彼と巡り合うことは出来なかった。だが、ヴラディスラフたちと彼は勤め先が同じなので、”ヴィクラム商会”に赴けばその姿を一瞥出来るかもしれないと彼女は考えていた。

 フェレシュテフは忘れ物をしてくれたかもしれないヴラディスラフに感謝し、淡い期待を胸に抱きながら勝手知ったる道を軽やかな足取りで進んでいく。やがて外壁に鰐の絵が描かれている看板が取り付けられている煉瓦造りの大きな建物――”ヴィクラム商会”の前に辿り着くと、彼女は深呼吸をして逸る心を落ち着かせてから、建物の内へと足を踏み入れていく。

 前回訪れた時のように、”ヴィクラム商会”の中はさまざまな亜人で溢れている。この中にチャンドラの姿はないかときょろきょろと首を動かしながら受付へと向かうと、其処には美味しいマサラチャイを御馳走してくれた蛇の亜人ナーガのカドゥルーが麗しげに佇んでいた。彼女はフェレシュテフと目が合うと艶かしい笑みを浮かべた。


「いらっしゃいませ。ようこそ、”ヴィクラム商会”へ。あら、貴女は確か……」


 たった一度しか顔を合わせていないのだが、カドゥルーはフェレシュテフのことを俄かに覚えていてくれたようだ。


「フェレシュテフです。いつぞやはお世話になりました。あの……ヴラディスラフ・ネクラーソフさんをお呼びして頂きたいのですが……」

「ヴラディスラフ・ネクラーソフ……」


 カドゥルーは小首を傾げ、明後日の方向に目をやりながら少しばかり考え込む。


「ああ、ヴァージャさんですね。少々お待ちくださいね、お呼びして参りますので」

「はい、宜しく御願い致します」


 カドゥルーは待合室で待つようにと勧めてくれたが、用事は直ぐに済むのでと言ってフェレシュテフは邪魔にならないようにしながら、受付の傍で待たせてもらう。カドゥルーの姿が奥の部屋――事務室と札に書かれている――に消えてから暫く。この場にいる従業員たちの中に白い虎の亜人ドゥンの姿がないことにフェレシュテフが意気消沈していると、カドゥルーがヴラディスラフを支えるように侍りながら受付へと戻ってきた。


「有難う、カドゥルーさん」

「いえいえ、どういたしまして」


 朝方ぶりに見たヴラディスラフは従業員と良好な関係を築いているようだ。彼らのやり取りを眺めていたフェレシュテフは、そう感じた。


「お待たせしました、フェレシュテフさん。どうかしたのかな?」

「掃除をしていましたら、ヴラディスラフさんのお部屋の机の下にこの紙が落ちているのを見つけたのです。若しかしたらお仕事に必要なものなのではないかと思いましたので、届けに参りました」


 手にしていた用紙を渡すと、ヴラディスラフは首から紐で提げていた眼鏡をかけて、用紙に書かれている内容を確認する。


「ああ、これは……。やはり部屋に落としてきてしまいましたか。道理で鞄の中を探しても見つからないはずです。どうも有難う、フェレシュテフさん。御蔭で助かりました」

「いいえ、どういたしまして。それでは私は家に戻りますね」

「ええ、帰り道には充分に気を付けて」


 ヴラディスラフは「気を付けて」と彼女に言うのがどうやら口癖になってしまっているのか。フェレシュテフは思わず苦笑を漏らしてしまった。ヴラディスラフの忘れ物を届けることが出来たフェレシュテフは受付に戻ったカドゥルーに会釈をしてから、踵を返す。


「確り者のヴァージャさんでも忘れ物をしたりするんですねえ」

「若く見えないこともないと仰って頂けることもありますが、私は立派なおじさんですからね。ですから、時折うっかり忘れ物をしてしまうんですよ。少しだけ、優しくしてくださいね」

「はいはい。お仕事を頑張ってくださいね、ヴァージャおじさん」


 背後から聞こえてくるヴラディスラフとカドゥルーの軽口が楽しくてフェレシュテフはくすくすと笑ってしまう。”ヴィクラム商会”を後にしたフェレシュテフは船着場の方を眺めながらのんびりと亜人の居住区へと繋がる道に向かって歩いていく。貿易船の上や、その周囲で働いている亜人の男たちの中にかの人が紛れていないかと捜してみるが、その姿は全く見つけられない。


(今日はお休みの日なのかもしれないわね)


 そう思うことにしたフェレシュテフが視線を前方に戻すと、その先に鰐の亜人マカラの群れがいるのが目に入ってきた。その姿は殆ど二本足で立って歩く巨大な鰐、といっても過言ではない鰐の亜人マカラよりもさらに頭一つ分ほど飛び出ている黒い鱗の鰐に似た亜人の姿を見つけると、フェレシュテフは口元を僅かに綻ばせる。


(セーヴァさんだわ)


 フセヴォロドの外見は鰐の亜人マカラに似ているような気がするとフェレシュテフは思っている。だが彼は鰐の亜人マカラではない。マツヤにやって来てからはよく鰐の亜人マカラに間違えられるようになったとごちていたフセヴォロドは、竜人ジラントという亜人の種族なのだそうだ。沢山の鰐の亜人マカラに囲まれていると、一見毛色の変わった同族のように見える気もするが、よく見てみると体つきなどが鰐の亜人マカラとは違うのだなとフェレシュテフは改めて感じた。


「フェレシュテフ。どうして港にいる?」


 とても重たそうな大きな木箱を軽々と肩に担いでいるフセヴォロドはフェレシュテフの存在に気が付くと、それを担いだまま此方へと近づいて来た。


「えぇと……」

「ふむ。ヴァージャの忘れ物を届けに来てくれたのだな。有難う、フェレシュテフ」


 ヴラディスラフが忘れ物をした、ということを正直に話すことは彼の沽券に関わることだろうからと、言葉を濁そうとしたフェレシュテフ。するとフセヴォロドは、フェレシュテフが何も話していないのに事実を言い当ててしまった。驚きのあまり目を丸くしたフェレシュテフが「どうして分かったのですか?」と尋ねると、彼はゆらゆらと揺らしていた立派な蜥蜴のような尻尾の動きをぴたりと止める。


「う、うむ。勤め先に到着してから、鞄の中を確認していたヴァージャが忘れ物をしたのかもしれない、と、言ったのだ。フェレシュテフが此処にいるということは、フェレシュテフがヴァージャに忘れ物を届けに来たのではなかろうかと、セーヴァは、推測したのだ」


 フセヴォロドはきっぱりと言い切るような話し方をするが、この時は珍しくどこか歯切れの悪いと感じる話し方をした。冷静沈着な――とフェレシュテフは思っている――フセヴォロドでも動揺をすることがあるのかと、フェレシュテフが不思議そうな面持ちでじいっと見つめると、彼は顔を背けた。まるで彼女の視線から逃れるように。


「……ごほん。フェレシュテフはもう帰るのか?」

「え?ええ、はい」

「そうか。気を付けて帰るのだぞ。寄り道は決してしてはいけない。危ないことに巻き込まれる」

「はい、分かりました。お仕事頑張ってくださいね、セーヴァさん」

「うむ」


 不自然な咳払いをして話題を変えたフセヴォロドと別れ、フェレシュテフは再び歩き出す。暫く道なりに進んでいくと港を抜け、彼女は家がある亜人の居住区の内へと入っていった。






**********






 フェレシュテフたちが暮らしている家の周辺は共働きの亜人の家庭が多いようで、昼間は閑散として他人の気配があまりない。亜人の子供たちといえば、マツヤの周りに溢れている自然を遊び場としているようで、家先や開けた路地で遊んでいる子供たちの姿もあまり見かけない。

 人間の居住区よりも静かな印象を受ける亜人の居住区を歩くフェレシュテフの足取りはどことなく寂しげだ。行きは軽やかだったというのに。この道を真っ直ぐ進んだ先にある交差路を右に曲がり、もう少しだけ歩けば家に着くというところで彼女は徐に足を止めて小さく息を吐いた。


「確証があったわけではないけれど……会うことが出来なくて残念だわ……」

「誰に会えなくて残念だって?」


 フェレシュテフがぽつりと呟くと、誰かが声をかけてきた。驚いた彼女が反射的に声がした方へと顔を向けると、高く積み上げた木箱の物陰からいやらしい笑みを浮かべたスブーシュが出てくるところだった。好ましく思っていない男に再び出会ってしまう己の運の悪さを嘆いたフェレシュテフの脳裏に疑問が浮かんだ。自称船乗りのスブーシュがこの時間帯に亜人の居住区こんなところにいるのだろうかと。


「……何か御用ですか、スブーシュさん?」


 何だか嫌な予感がするフェレシュテフは営業用の微笑を浮かべることを忘れ、近寄ってくるスブーシュに硬い声で問いかける。彼女の前で足を止めたスブーシュはおどけたように肩を竦めてみせた。


「おいおい、そんなに邪険にするなよ、フェレシュテフ。俺とお前の仲じゃねえか」


 邪険にもしたくなるような捨て台詞を吐いたのは何処の誰だっただろうか。胡乱気な目をしたフェレシュテフの肩をスブーシュが馴れ馴れしく抱こうとしてきたので、彼女はすっと退いて距離を作る。彼女のその反応が気に入らなかったのだろう。スブーシュは露骨に眉根を寄せ、しまりのない顔を仏頂面へと変化させた。


「ちっ、気の利かねえ女だな。この前お前、言ってただろ、身請けされたって。それが信じられねえから、後をつけてみたんだよ。そうしたら亜人の居住区に住んでやがるから驚いたぜ、然も余所者の人間と亜人の男と暮らしてるしな」

「っ、後をつけたんですか……?」

「おうよ」


 フェレシュテフが動揺を見せるとスブーシュはあっという間に機嫌を直し、悪びれることもなく尾行したことを認める。彼に尾行されていたことに全く気が付かなかったフェレシュテフは臍を噛み、ふっと或ることを思い出す。スブーシュと再会した日の夕方、フセヴォロドが唐突に『誰か尋ねてきたのか』と訊いてきたことを。その時は不思議に思っただけだったが、今ならばそのことが理解出来る。人間のフェレシュテフやヴラディスラフには嗅ぎ取れない匂いを感じ取ることが出来るフセヴォロドは家の周囲に残っていた部外者――スブーシュの匂いに気が付いたのかも知れないと。ヴラディスラフの注意がけが変わったのも、それくらいの時分だ。フセヴォロドから不審者の匂いについて聞いたのかもしれない。ヴラディスラフはフェレシュテフに余計な心配をかけないように、けれど注意を怠らないようにとしてくれたのだろうか。

何も知らずにのうのうとしていた自分が恥ずかしくなって、フェレシュテフは顔を顰め、形の良い唇を噛んだ。


「大して高級じゃねえとはいえ、娼婦を身請けして囲えるってことはよ……あの余所者の中年親父ってのはどうも金を持ってるみてえだなあ?それに娼婦に一人で留守を任せるってことは、お前、よっぽどあの余所者に信用されてるんだろ?」

「何を仰りたいのですか?」

「なあ、昔の誼で余所者親父から金を都合してもらってくれねえか?お前のいうことなら聞くだろ、身請けするくらい駄だしな。博打につい熱が入っちまってさ、有り金全部すっちまったんだよ。それに前の職場で喧嘩沙汰起こしちまって、今、無職でさ。金が手に入らねえんだ。大金をくれって言ってるんじゃねえぜ?当分の生活費を無償で貸してくれって頼んでんだ。な?」


 それは金を貸して欲しいと言っているのではなくて、金を寄越せと言っているも同然だ。下手に出ているようで下手に出ていないスブーシュの金の無心に呆れ、彼女は深い溜め息を吐く。

 ――商売でもない限りは金銭が絡むことに下手に関わるな、個人間での金の貸し借りは碌なことにならない。

 金にうるさい娼館の主ジャグディシュがよく言っていた言葉がフェレシュテフの頭に浮かんできた。


「お断わり致します。そのようはことは出来ません」


 スブーシュだけに都合の良い話には付き合えないし、ヴラディスラフやフセヴォロドに迷惑をかけるような真似は決してしたくない。フェレシュテフはそれだけを言ってその場から立ち去ろうと踵を返す。だがスブーシュの手が素早く伸びてきて、彼女の細腕を掴んだ。狙った獲物を逃がさないようにと、力強く腕を掴まれたフェレシュテフの顔が苦痛に歪む。


「金が用意出来ないってんなら、金目の物を持ってきてくれるだけで良いって!売り払うことは出来るからよ。金持ちなら金目の物が一つくらい失くなったところで気付きゃしねえって!」

「そんなことは出来ませんっ。お断りします、放してください……っ」


 渾身の力で腕を振り回したり、体を捻らせたりしてスブーシュの手から逃れようともがくフェレシュテフだが、船乗りを自称するスブーシュの力は強く、彼の手の力は少しも緩むことはない。

 どうやって逃げたら良いのか、フェレシュテフはもがきながら必死に考える。あれこれと考えているうちに、彼女は一つの方法を思い出す。それはジャグディシュに教わった、迷惑な客の撃退法の一つだ。フェレシュテフは覚悟を決め、スブーシュの足を思い切り踏みつけた。


「いっ!?」


 意表を突かれたスブーシュが驚いて手の力を緩めた隙にフェレシュテフは掴まれた腕を振り解き、素早くしゃがみこんで地面の砂を握るとスブーシュにぶつけた。目潰しをくらったスブーシュは両手で目を押さえて悶絶している。その間にフェレシュテフは一目散に走って逃げる。


(こんなに必死に走るのは、子供の時以来じゃないかしら……!?)


 全力で走ることに慣れていないので足の裏や向こう脛などが痛むし、息も直ぐに上がる。それでも我武者羅に走って家まで戻ってきたのは良いが――鍵が開けられない。早く、早く家の中に逃げ込まなければ。そう思えば思うほど焦りが増し、手が震えてしまって鍵穴に鍵が入らない。ちらちらと後ろを窺っていると、目に入った砂を取り払い終えたらしいスブーシュが憤怒の形相で此方に駆けてくるのが見えた。家の中に逃げ込む前にスブーシュに捕まってしまっては、金目の物を強奪されてしまう羽目になる。一刻も早く鍵を開けたいのだが、この震える手ではそれは間に合いそうもない。

 逡巡したフェレシュテフは鍵を開けることを諦め、逃げることを選ぶ。兎に角スブーシュから逃れなくては。フェレシュテフの頭の中はそのことでいっぱいだ。逃げるのであれば、未だ頭の中に地図が出来上がっていない亜人の居住区よりも土地勘がある人間の居住区や色町の方が良いのではないかと考えながら走っていたのが拙かったのだろうか。


「きゃあっ!?」


 走ることよりも考えることを優先していたフェレシュテフは足を縺れさせ、思い切り転んでしまう。


「つぅ……っ」


 顔を地面に打ち付けないようにと無意識についた手を負傷したらしい。掌と下膊かはくに出来た擦り傷がじくじくと痛みを訴えてくる。然しそんなことには構っている暇はない、スブーシュに追いつかれてしまう。フェレシュテフが急いで起き上がろうとしたその時だ。


「よくもやってくれたな、フェレシュテフ!」


 怒気を孕んだ声がした直後、腹に凄まじい衝撃が走る。フェレシュテフは一瞬何が起こったのか分からなかったが、視界の端に足が映ったことで自分が蹴られたのだということを知る。腹部を襲う激しい痛みに悶絶しているフェレシュテフの髪を乱暴に掴み、強引に顔を上げさせたのはスブーシュだった。彼はあっという間にフェレシュテフに追いついてしまった。


「足を踏んだ上に砂で目潰しをするなんて上等じゃねえか。ボコボコにしてやりてえところだが……そうだな、金目の物を盗んでくるなら許してやるよ」

「そ……な、こ、と、で……きな、い……っ」

「おい。お前、余所者親父が肩身の狭い思いをする羽目になっても良いのか?あの親父の勤め先に、こいつは娼婦を身請けした女好きのろくでなしだって言い触らしてやったって良いんだぜ?勤め先は確か……”ヴィクラム商会”だったよなぁ?」

「……でき、ま……せ、んっ」


 ヴラディスラフに勤め先を失わせることはしたくはないが、だからといってスブーシュの言う通りに金目の物を盗むなんてこともしたくはない。フェレシュテフは痛みを堪え、尚もスブーシュを拒絶する。自分の言うことを聞こうとしない彼女に苛立ちを募らせたスブーシュは彼女の髪を掴む力をより一層強め、睨みを利かせる。


「真面目も行き過ぎると強情で面倒だな。身請けして貰ったからって、何でそんなにあの余所者親父に恩義を感じてるんだよ。娼婦を身請けする男なんてな、女好きのろくでなしって決まってんだ。なあ、そうだろ?お前、夜な夜な中年の相手させられてるんだろ?」

「ちが、うっ」


 初めて出会った日にフェレシュテフを身請けしたいと申し出たヴラディスラフを疑う気持ちはあった。亡き母の願いを叶えるためだと口では言っているが、本音は違うのではないかと。けれどそれはフェレシュテフの思い過ごしで、ヴラディスラフは損得関係なく約束を守ってくれ、フセヴォロド共々フェレシュテフが戸惑うほどに良くしてくれる。フェレシュテフを卑しい娼婦と蔑むことはせず、一人の人間として扱ってくれるヴラディスラフは決してろくでなしではない。声を張り上げて言いたいが、声が思うように絞り出せない。ならば目で訴えるしかない。フェレシュテフはぎっとスブーシュを睨みつけ、抗議の意を表す。

 フェレシュテフが全く折れる気配を見せないことに呆れたスブーシュが深々と溜め息を吐く。漸く金の無心を諦めてくれたかとフェレシュテフは期待したが、それは甘かった。


「仕方がねえ。こうなったら、お前の体で金を稼ぐしかねえな」

「うぁ……っ!?」


 少し痛みが引いたと思った腹にもう一度衝撃が与えられる。フェレシュテフの腹を殴ったスブーシュは痛みにのた打ち回っているフェレシュテフを乱暴に肩に担ぐと歩き出す。


「は、なし、てぇ……っ!」


 殴られた腹にスブーシュの肩の骨が当たって余計に痛い。弱々しい拳でスブーシュの背中をぽかぽかと殴るが、彼には痛くも痒くもない。フェレシュテフの抵抗を意に介さず、スブーシュは人目を避けられる道を選びながら、彼女を何処かへと連れて行った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る