第7話 苦く、そしてふんわりと甘い

 亜人の居住区でも新興住宅地にある家を出たフェレシュテフは、マツヤの町が港の次に誇る大規模な市場へとやって来た。貿易で栄えている港町の市場は港に隣接しているので活きの良い魚介が手に入るのは勿論のこと、日常品から珍品まで、安価な物から高価な物まで様々な品物を取り扱っている露店や屋台が集まっており、其処は人間も亜人も関係なく入り乱れて活気に満ちている。

 そんな市場はマツヤで暮らす人々の生活を支えている場所だ。

 人混みを縫うように歩き、ヴラディスラフの流麗な文字が並ぶ覚書――フセヴォロドはマツヤの文字を書けないのでヴラディスラフが代筆したようだ――を確認しながらフェレシュテフは買い物をしていく。採れたての野菜を扱っていると謳う八百屋の主人と値段の交渉をし、札に書かれている値段よりもかなり安くしてもらった上におまけもつけて貰えた彼女は上機嫌で次の店へと向かう。そして肉料理に使う羊の肉や、食後の甘味に使う果物なども購入したので、持参した風呂敷の中が買ったものでいっぱいになってしまった。予定よりも量が多くなってしまうことを想定して、大きな籠を持ってきていれば良かっただろうかと彼女は苦笑いを浮かべる。籠であれば頭の上に載せていけたのに、と思いながら彼女は重たい風呂敷包みを小脇に抱えて歩いていく。




 フェレシュテフが亜人の居住区側の出口から市場を出ようとした時だ。彼女は背後から「おい」と声をかけられる。その声の主が男性であることは直ぐに理解したが、聞き覚えがないように感じる。それでも反射的に振り返ると、そこには四角い顔をした、大柄な人間の男が立っていた。三十歳代に見受けられる褐色の肌の男はフェレシュテフと目が合うと、にやりと口角を上げる。


「久しぶりだな、フェレシュテフ。こんな所で何してんだ?」


 良い印象を持てそうにない粗野な笑みを浮かべる男の顔を見た瞬間、フェレシュテフは男が誰であるのかを思い出す。男の名はスブーシュといい、船乗りであると自称していた彼はフェレシュテフの馴染みの客と言える存在ではあった。


「お久しぶりです、スブーシュさん。買い物が終わったところですので、これから帰ろうとしていたところですわ。それで――」

「遠方の砂漠の国に行く船旅から漸く帰ってきたところでさ。二月ほど女遊びしてなかったから、すっかり溜まっちまって、あんたに慰めてもらおうと思って”ソーマの雫”に行ったらあんたがいねえしよ。どうかしたのかい?」


 フェレシュテフは挨拶だけを済ませてこの場を立ち去ろうとしたが、スブーシュはそんなことを気にも留めず、べらべらと話し出す。人の往来がある場所で下の話を堂々とするスブーシュに呆れた彼女は彼に気付かれないように小さくため息を吐いた。


「と或る御方に身請けをして頂いたので、娼婦から足を洗うことが出来たのです。今は其の御方の下でお世話になっております。私はもう娼婦として生活をしておりません」

「身請けされた?」


 現状を手短に説明をするとスブーシュは目を瞠り、顎に手を当てて何か考え事をし、直ぐに口を開く。


「まあ、そんなことはどうでもいい。金は払ってやるから、俺の相手をしてくれよ。俺はなぁ、あんたのことは気に入ってるんだよ。あんたが借金を返し終えたら、自分の女にしようと思ったくらいに。体の相性も抜群に良いだろう、俺たちは?」


 嘗め回すように、じっとりとした欲を孕んだ目で体を見られたフェレシュテフは背筋に寒気が走り、肌が粟立つのを感じた。彼は自分とフェレシュテフの体の相性が良いと嘯くが、それは彼の勘違いである。自身の分身の大きさを自慢するスブーシュは内に溜まった欲望を吐き出すことばかりに専念し、相手をしているフェレシュテフの体を気遣うことは一切しない。独り善がりの行為を強いられた彼女の体が悲鳴を上げたことは幾度もあり、正直に言って、フェレシュテフはスブーシュの相手をすることを出来れば避けたいと思っていたことがあったほどだ。


「申し訳ありませんが、その申し出はお受けすることが出来ませんわ。私の処遇を決める権利は、私を身請けしてくださった御方に御座いますので。お相手が欲しいのでしたら、色町でお探しになることをお勧め致します。それでは、ごきげんよう」


 営業用の微笑を貼り付けたフェレシュテフは会釈をし、彼女の言葉にむかっ腹を立てたらしいスブーシュをその場に置いて立ち去っていく。その際に「身請けされたからっていい気になってんじゃねえぞ、淫婦の分際で」とスブーシュに捨て台詞を吐かれたのが耳に入ってきたが、彼女は聞こえない振りをして足を動かす。髪と目の色が周囲の人間と違うというだけで幼い頃から余所者扱いを受けてきたのだから、あんな風な罵声を浴びせられるくらいなんてことないと自分に言い聞かせる。スブーシュの言葉に傷ついていない訳ではないが、その気持ちを表面に出したくないフェレシュテフは強がる。


(そうよね、マツヤに居続けているのだもの……思いがけないところで昔のお客さんに遭遇することだってあるはずだわ。毛色の変わった娼婦なんてそうそういないもの、特徴は覚えやすいでしょうから、間単には忘れ去ってはもらえないのかもしれないわ……)


 それにしても、よりにもよってあまり得手ではないスブーシュに出会してしまうとは思いもよらなかった。フェレシュテフは気分が沈みそうになるのを無理に抑えるが、どうしても足取りが重くなる。ぼんやりとしているうちに家に着いてしまったフェレシュテフは玄関の前で深呼吸をし、誰に向けてもいない笑顔を浮かべてから家の中へと入っていった。




 ――夕方。ヴラディスラフたちが仕事を終えて帰ってきたので、フェレシュテフは玄関まで赴いて彼らを迎える。その際に口元を引き攣らせることなく笑みを浮かべられたので、彼女は内心ほっとした。


「フェレシュテフ。セーヴァとヴァージャが留守のうちに誰か来たのか?」


 突拍子もなくフセヴォロドがそんなことを尋ねてきたので、フェレシュテフは面食らい、彼の意図が読めないので思わず小首を傾げてしまった。


「いいえ。何方も訪ねてはいらっしゃいませんでしたが……?」

「ふむ、そうか」


 フェレシュテフが答えると彼はそれ以上問い詰めることはせず、台所へと向かっていってしまったので彼女は慌てて後を追いかける。その後はその話題に触れられることはなく、普段通りにフセヴォロドと共に料理を作り、夕食を三人で頂く。ただ、自室へと行こうとした際に居間でヴラディスラフとフセヴォロドが声を潜めて会話しているのは見かけはしたが。

 そんなことがあった翌日から、ヴラディスラフが仕事に出かける前に必ず口にする言葉に変化が現れた。「戸締りを確りとするように」に、「出かける時は充分に気を付けて」が追加されたのだ。

 豊かな町と評されることが多いマツヤだが貧富の差がそれなりにある町であり、盗みなどの犯罪が日常的に起こっている。そのことはこの町で生まれ育ったフェレシュテフには百も承知のことなので、遠方のスネジノグラードから移住してきたばかりのヴラディスラフに改めて言われるまでもないことだ。だが相手は親切心で言ってくれているのだろうとフェレシュテフは思うので、その都度「はい、充分に気を付けますわ」と笑顔で返すのだった。






**********






 ヴラディスラフたちとの生活は最初こそは戸惑いを感じたものの、彼らの調子に慣れてきた今では楽しさを感じるほどだ。こんなにも良くしてもらっているのだから、何か御礼をしたい。

 ――助けてもらったら、御礼を言うのは当然。出来れば、其の人の役に立つようなことをしなさい。

 フェレシュテフの母親ナーザーファリンは、生前によく彼女にこう言って聞かせていた。その言葉が身に染み付いているフェレシュテフは、彼らが喜んでくれるようなことは何だろうと考える。身請けに使ってもらった金の返済は、ヴラディスラフが受け付けてくれない。家事を全て引き受けることは、フセヴォロドの楽しみを奪うことになる。自分に出来ることは何かと真剣に悩み続けた結果、フェレシュテフはこの辺りで暮らしている男性が身に着けている伝統的な衣装クルタを彼らに贈ることにしようと決めたのだった。

 そのことを彼らに話すと、彼らは喜んでくれた。気を良くしたフェレシュテフは早速ヴラディスラフとフセヴォロドに寸法を測らせてもらうと、彼女は家事の駄賃としてヴラディスラフから渡された金を貯めていたのでそれを使って布と糸を買い、二人分のクルタを作り始める。

 クルタが出来上がるのを楽しみにしていると言ってくれた二人の為に頑張ろう、と意気込んでいるフェレシュテフの針の進みは良い。だが裁縫にのめり込み過ぎて、ついつい夜更かしをしてしまっていたら「集中するのは良いけれど程々にしなさい」とヴラディスラフに柔らかく注意をされてしまった。

 そして今日も今日とて、裁縫に夢中になっているフェレシュテフ。ヴラディスラフ用のクルタは既に出来上がり、今はフセヴォロド用のクルタにとりかかっている。やがて最後の一縫いが終わり、それは完成した。フセヴォロドの寸法に合わせて作ったのでとても大きなクルタを丁寧にたたみ、机の上にヴラディスラフのものと並べて置く。早く彼らに出来上がったクルタを渡したいが、彼らは未だ仕事に出ているのでそれは出来ない。

 彼らが帰ってくるまでにはまだ時間がある。それまでの間どうしようかと考えながら、背伸びをしたフェレシュテフは裁縫に夢中になるあまり昼食を抜いてしまったことを思い出した。けれども確りと食べたいほど腹が空いている訳でもなく、そして朝から集中して裁縫をしていたせいか体が疲れを訴えているので料理をする気が起きない。


「……何か食べるものを買ってこようかしら?」


 衣装棚に置いているサリーの中に隠すようにしまっている財布を取り出し、中を確認する。軽食を買う余裕があるようなので、彼女は出かけることにし、戸締りを確りとしてから市場へと向かう。




 すっかり行く機会が増えてしまった市場には軽食を扱う屋台が並んでおり、その近くを通りがかると美味しそうな香りが鼻腔を擽ってくる。心なしか、入れを出る前よりも腹が減ってきたようだとフェレシュテフは思う。偶々立ち止まった屋台では二、三種類のクレープに似た食べ物ドーサが売っており、その中でも特に香辛料で炒められたジャガイモをくるんだもマサラドーサが美味しそうに目に映ったので、フェレシュテフはそれを購入した。人混みを掻き分けながら、何処かにゆっくりと座れる場所がないかと探し回っていると、周囲の人々の視線が一点に集まっていることに気が付いた。


(何かあるのかしら?)


 珍しい品物が売られているのか、大道芸をしている者が其処にいるのか。好奇心が沸いたフェレシュテフは人々の視線の先へと目をやると、其処には猿の亜人ヴァナラが揚げ菓子を販売している屋台があり、その前に佇む巨大な背中が見えた。周囲の人々から頭二つ、三つ分飛び出ているのは白い虎の亜人ドゥンで、体格と格好を見るだけでその人が男性であると判別出来る。虎の亜人ドゥンは元々マツヤの町では殆ど見かけない亜人であり、更には白い虎の亜人ドゥンである彼は余計に目立ち、その場にいるだけで人々の目を集めてしまうようだ。肌の色こそ褐色であるものの、黒髪黒目ではないことで物珍しそうに見られることが少なくないフェレシュテフはその光景を見て、自分と同じようだと共感する。

 ぼんやりとその白い虎の亜人ドゥンを眺めていると、彼は目的の物を買い終えたらしく、くるりと方向転換をして歩き出した。見覚えのあるその横顔にフェレシュテフの心臓が強く跳ね上がり、彼女は無意識に足を動かしていた。彼は何処へと向かうのか。激しい人の往来の中をすいすいと進んでいく大きな背中を見失わないように追っていくと、彼は日除けの板が張り出している素焼き煉瓦の壁に背を預け、片手に持っている大きな袋の中のものを食べ始めた。

 近くを通りがかった人間がちらちらと横目で彼を見ているが、彼は特に気にした様子もなく虚空を見つめながら、ぱくぱくと何かを食べている。

 人間に良く似た褐色の肌の顔、濃い灰色の縞が入った白い体毛、そして黒いアイラインに縁取られた鋭い青い目をした虎の亜人ドゥンに駆け足で近づいたフェレシュテフは、緊張した面持ちで彼に声をかける。


「あ、あの、こんにちは、チャンドラさんっ」


 衝動に突き動かされて声をかけてみたものの、その直後にフェレシュテフははっと我に返る。フェレシュテフは彼のことを鮮明に覚えている。だが、たった二度顔を合わせた程度の人間を彼が覚えているのだろうか。

 手にしていた食べ物を袋の中に戻すと、チャンドラは青い目を先に動かしてから、フェレシュテフを見下ろしてきた。その仏頂面からは、彼の心情は測れない。


「ああ、フェなんとか……」

「フェレシュテフです。私のことを覚えていてくださったのですか?」


 名前はフェだけしか覚えられていなかったようだが、彼はフェレシュテフの匂いを覚えていてくれたのだろうか。そう考えたフェレシュテフの緑色の目がきらきらと輝く。


「顔を覚えていたわけじゃねえ。マツヤの人間とは髪と目の色が違うから記憶に残ってただけだ」

「そう、ですか……」


 亜人であるチャンドラがフェレシュテフのことを顔で覚えているとは思わなかったが、匂いで覚えていた訳でもないことに少しだけがっかりする。だが、自分の髪と目の色が彼の記憶に残っていたことが嬉しくもある。

 ふと視線を落とすと、丁度チャンドラの腕が目に入る。彼が手にしている大袋の口が大きく開いているので覗いてみると中にはモーダカという、宝珠型に形成されている揚げ菓子がこれでもかというほど沢山入っていたのでフェレシュテフはぎょっとしてしまった。大の男でも食べきるのには苦戦しそうな量をチャンドラは一人で食べるつもりなのだろうか。


「あの……モーダカがお好きなのですか?」

「……好きだといけねえのかよ」


 大袋を凝視しているフェレシュテフがそう呟くと、頭上から不機嫌そうな声が降ってきた。チャンドラの機嫌を損ねてしまったとフェレシュテフは蒼白し、勢い良く面を上げ、ぶんぶんと首を左右に振る。


「いいえ、いいえっ。そんなことはありませんっ。私もモーダカが好きです、美味しいですよね、モーダカっ。私も偶の贅沢にと買って食べていましたっ」


 体を売って稼いだ金は出来る限り借金の返済に回していたので、彼女の手元に残るのは必要最低限の僅かな金だけだった。その金で母親の墓前に手向ける花を買うと本当に微々たる額しか残らず、フェレシュテフは年に数回だけ屋台で売っているお菓子を買い、自分へのご褒美にしていたのだった。

 怪訝そうに目を細めていたチャンドラは袋の中のモーダカを一つ取ると、フェレシュテフに差し出してきた。何が起こっているのか把握出来ていないフェレシュテフは瞠目して、身を強張らせる。


「好きなんだろ、モーダカ。一つやる」

「あ、有難うございますっ。えぇと、そうだわ!私、先程マサラドーサを買ったんです。宜しければ、半分召し上がりますか……?」


 そういえば手にマサラドーサを持っていたのだと思い出したフェレシュテフが尋ねてみると、チャンドラが「食う」と答えたので彼女は驚いた。彼女はてっきり「いらん」と一蹴されるだろうと思っていたのだ。

 マサラドーサの中に入っている香辛料で炒められたジャガイモを零さないよう、慎重に半分に千切ったつもりだったのだが右手側の方が量が多めになってしまった。彼女は迷わず、大きい方をチャンドラに差し出す。


(あら?どうやって受け取ったら良いのかしら?)


 両手が塞がっている二人が同時に食べ物を差し出しあっているので、二人は受け取ることが出来ない。どうしたものかと悩んでいると、「大きく口を開けろ」とチャンドラに言われたのでフェレシュテフが素直に大きく口を開けると――


「あもっ」


 口の中にモーダカを半分近くまで突っ込まれた。チャンドラが「落とさねえように噛んでおけ」と言うので、またしてもフェレシュテフは素直に噛み切らない強さでモーダカを噛む。それを確認するとチャンドラの大きな手が離れ、ついでにフェレシュテフが差し出していたマサラドーサを受け取っていった。

 口で受け取る羽目になったモーダカは出来上がって間もないのか、咥内を火傷してしまいそうなほどに熱い。そして大きい。チャンドラの手にある時は小さく見えたのに、と思いながらフェレシュテフはモーダカを少しずつ咀嚼していく。モーダカは皮がサクサクしていて、中に入っている白い餡子は甘く、刻んだココナッツが混じっているようだ。久々に食べるそれが美味しくて、フェレシュテフは頬を緩める。


「今日はお仕事がお休みの日なのですか?」

「休憩中なだけだ。これ食ったら仕事に戻る」


 フェレシュテフがモーダカを食べ終え、マサラドーサに口をつけようとした頃にはチャンドラはマサラドーサをあっという間に食べ終えていて、一定の速度でぱくぱくと袋の中のモーダカを胃の中に収めていっている。そんなにもモーダカが好きなのだろうか、とフェレシュテフはチャンドラをまじまじと見つめてしまう。濃い灰色の縞が入った白い毛は柔らかそうで、黒いアイラインに縁取られている目は青色をしているが、睫毛は白く然も長い。遥か頭上にある顔はフェレシュテフの感覚でだが、端整な方ではないだろうかと思われる。

 ついつい彼の容姿を観察していると、青い目が不意に動いてフェレシュテフを捉えた。


「そういうあんたは、何でこんな所に?」

「一月ほど前にと或る方に身請けをして頂いて、娼婦から足を洗うことが出来まして。今日はその……与えて頂いた自由な時間で、その……買い食いを……」

「ふーん、あんた身請けされたのか。そりゃあ良かったな。……もう一個やる」

「い、頂きます」


 買い食いについては特に触れなかったチャンドラにまたモーダカを恵んで貰ったフェレシュテフ。若しかして身請け祝いだろうかと都合良く考える。


「そういえば。あんた、何で俺に声をかけてきた?知り合いって言うほどの間柄でもねえのに」

「命の恩人様を見かけたら何だか嬉しくなってしまいまして、つい。……御迷惑でしたか?」

「……声かけんなとは言わねえけど。俺は別に人助けしたとは思ってねえ。ヴィクラムのおやっさんの縄張りを見回りしてたら偶然あの場に居合わせただけで……命の恩人とか言われることしてねーよ、俺は」

「そう、ですか……」


 あの時チャンドラが現れなかったら、フェレシュテフは自らを犯している破落戸ごろつきたちの手によって最悪命を落としていたかもしれない。だから彼女はチャンドラのことを命の恩人だと思っている。それに彼はぶっきらぼうながらもフェレシュテフに優しくしてくれた――本人はそう思っていないかもしれないが。借りた上着を返しに行った時も小さな声で「有難うな」と言ってくれたことが嬉しかった。彼と同じくらいの身長がありそうな亜人を見かけると自然とチャンドラのことを思い出したりすることもあった。

 フェレシュテフ自身もよく分かっていないのだが、彼女にとってチャンドラは強く記憶に残っている、何故だか気になる亜人だった。そのことをどう言い表したら良いのかも、彼女は分からないでいる。

 フェレシュテフが沈みこむと、頭上でチャンドラが溜め息を吐いた。そしてまた、ずいっと彼女の眼前にモーダカを差し出す。驚きつつも、フェレシュテフは反射的にそれを受け取った。


「じゃあな」

「あの……っ」


 フェレシュテフが受け取ったモーダカは、最後の一個だったらしい。空になった大袋を握り潰しながら、チャンドラが去っていこうとするのでフェレシュテフは思わず呼び止めてしまった。チャンドラは足を止めると見返り、フェレシュテフを凝視してくる。何だよ、と目が言っているようにフェレシュテフには見えた。


「また、チャンドラさんをお見かけしたらご挨拶をしても良いですか?あの、モーダカの御礼もしたいですし……」


 気が付けばチャンドラからモーダカを三つも貰ってしまっていた。その礼をしなくてはとフェレシュテフは思い立つが――


「……好きにしろ。モーダカの礼はいらん」


 と一蹴され、変な女だなと言いたげな視線を寄越された。それだけを言うとチャンドラは向き直り、さっさと歩いていってしまう。彼が去っていったのは港の方だ。休憩を終わらせて、仕事へと戻っていったのだろう。


「……はい、好きにします」


 チャンドラに渡されたモーダカを大事そうに両手で包んでいるフェレシュテフは、欣々然とした表情を浮かべて彼の背中を見つめる。それから思い出したように食べたモーダカは何だか甘酸っぱいような味がしたのが不思議だった。




 ――夕方。

 仕事を終えて帰宅したヴラディスラフとフセヴォロドは、出来上がったクルタをフェレシュテフから受け取り喜ぶが――直ぐに困惑の色を見せた。フェレシュテフの様子がおかしいのだ。ほんのりと頬を紅潮させて、ふわふわとして落ち着きがなく、顔が緩んでいるようにも見える。そして注意力が散漫しているのか、彼女は煮込み料理を危うく焦がしそうになった。鼻が利くフセヴォロドが傍にいたので、難を逃れることが出来たが。

 試しにヴラディスラフが「何かあったのですか?随分と御機嫌なようですが」と尋ねてみると、フェレシュテフは「とても良いことがありました」と答えはするがそれ以上は具体的に語らない。

 共に暮らして一月以上は経過しているが、これまでのフェレシュテフはヴラディスラフたちに迷惑をかけないようにと気を張っているようだった。ところが今は――こんな状態だ。

 ふわふわとしているフェレシュテフを見たことがないヴラディスラフとフセヴォロドは顔を見合わせて、首を傾げるばかりだ。

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