第6話 柔らかな日差しのよう
白い
仕事の時間まで未だ余裕があるのでと、フェレシュテフが自室で寛いでいると突然扉が開き、娼館の主ジャグディシュが上機嫌な様子で室内へと入って来た。そのことにフェレシュテフは一抹の不安を抱く。
ジャグディシュは店で囲っている娼婦に用事がある場合、自身の仕事部屋へと呼びつける。このように自ら娼婦の部屋へとやって来ることはまずない。これは嫌なことが起こる予兆なのかもしれないと不安を抱いたフェレシュテフは、遠慮がちに「何か御用ですか、旦那さん?」とジャグディシュに声をかける。
「フェレシュテフ、お前の身請けが決まった。さっさと荷物を纏めろ」
彼の口から飛び出た言葉にフェレシュテフが驚くと、ジャグディシュは白髪の混じっている太い眉を寄せる。
「心当たりがあるだろうに何を惚けてやがるんだ、フェレシュテフ?お前の身請けをしたのはネクラーソフっていう名前の外人様だ。昨日、おっ母さんの墓の前で会ったんだろ?」
ジャグディシュはそのように”ネクラーソフ”から伺っていると言う。確かにそのようなことが昨日あったので、フェレシュテフは「はい」と言って頷くが、その顔には困惑の色が浮かんでいる。
「あの……本当にネクラーソフ様が私の身請けをしてくださったのですか?」
「何だぁ?俺の言ったことを疑ってんのか、お前は?娼館”ソーマの雫”の店主であるジャグディシュに多額の金を支払い、娼婦フェレシュテフの新たな主になったのはなぁ、スネジノグラードってー北の強国の都市からやって来なすった”ネクラーソフ様”だよ。お前と同じ髪と目の色をした、優男って感じの中年の」
機嫌を損ねたジャグディシュの口から出てくる”ネクラーソフ様”の情報は、フェレシュテフの記憶にある”ネクラーソフ様”のものと合致する。
――あの人は本当に、私の身請けをするつもりだったの?
きっとその場限りの口先の約束だろう、とフェレシュテフが頭の隅で思っていたことを”ネクラーソフ様”――ヴラディスラフは叶えてしまった。その驚きを露わにしながら、フェレシュテフが「旦那さんの仰る通りです」と答えると、ジャグディシュは少し機嫌を直したようで、にやにやと人の悪い笑みを浮かべた。
「おう、納得したってんなら、さっさと荷物を纏めちまいな。ネクラーソフ様を待たせる訳にはいかねえんでな」
「畏まりました、旦那さん」
「仕事で使っていた装飾品とかは置いていけ、新入りの娼婦に使わせる。客に貢いで貰った物は持っていって良いぞ、餞別にくれてやらぁ」
金の亡者であるジャグディシュが気前の良いことを言うので、フェレシュテフは背に寒気を感じたような気がした。フェレシュテフの私物といえるような物は少なく、また客の男に貢いで貰った金品なども殆どなかったので、彼女の荷造りはあっという間に終えられた。
風呂敷包みを両手で抱えたフェレシュテフが扉の脇に佇んでいるジャグディシュの許へと歩み寄ると、彼は徐に懐から何かを取り出し、ずいっと彼女に差し出してきた。
「お前が背負ってた借金は無くなった。だから、これは返してやるよ」
ジャグディシュの手にあるのは硝子で出来た青い目玉と木のビーズがついた首飾りで、それはフェレシュテフが幼い頃に、母親のナーザーファリンが邪悪な視線から守ってくれるお守りだと言って彼女にくれた物だ。それを何よりも大切にしていたフェレシュテフは、借金を全て返し終えるまでは決して娼館から逃げ出したりはしないという決意の証としてジャグディシュに差し出した。売り払っても二束三文にすらならない代物をジャグディシュが担保として扱ってくれた理由は定かではないが、フェレシュテフは自分は信用するに値する人間だと判断して貰えたのだと思うことにしている。
「……有難うございます」
五年ぶりに触れた
「金に困ったり、娼婦の生活が忘れられねえってんならいつでも戻ってきな。また多額の借金を抱えさせてやっても良いし、それなりの条件で雇ってやっても良い。……こんな生活はもう御免だってえなら、二度と戻ってくるんじゃねえぞ」
「……はい。今までお世話になりました、旦那さん」
ジャグディシュは何よりも金を愛し、自らが抱えている娼婦を商売道具と言って憚らないので、多くの他者に好かれない人物だ。フェレシュテフは彼を尊敬することはないが、感謝の念だけは抱いている。
五年前のあの日、突然娼館にやって来て「お金が必要なんです、私を娼婦にしてください」と縋りついてきたフェレシュテフを面倒臭そうにしながらも、住み込みの娼婦としてくれたのはジャグディシュだ。借金を追加する形になったとはいえ、病床のナーザーファリンを最期まで医師に診せてくれ、彼女の死後は葬儀や墓所の手配をしてくれたのもジャグディシュだ。
娼婦になってからの日々がざあっと脳裏に浮かんでは消え、フェレシュテフの胸に何ともいえない思いが湧き上がってくる。彼女は深々と、ジャグディシュに向かって頭を垂れた。
「ぐずぐずしてんじゃねえよ。ネクラーソフ様がお待ちだ」
踵を返したジャグディシュに伴われ、娼館の一階にある玄関へと向かったフェレシュテフは、上客が通される待合室の椅子に腰掛けているヴラディスラフの姿を見つける。昨日は共にいた、あの黒い鱗に覆われた巨躯の亜人の姿はない。ヴラディスラフだけで娼館へとやって来たのだろうか。ヴラディスラフは昨日と似たような服装をしていたが黒色を基調としている為か、ヴラディスラフの纏う雰囲気が少しだけ硬いものに変質したように見受けられる。
「お待たせ致しました、ネクラーソフ様。フェレシュテフを連れて参りました」
「ああ、御苦労」
手を擦り合わせながら目の前にやって来たジャグディシュに、ヴラディスラフは椅子に腰掛けたまま鷹揚に対応する。その様は上流階級に属する人間のようだとフェレシュテフは思い、昨日のヴラディスラフの面影が見つけられないことに僅かに戸惑う。
ヴラディスラフ、ジャグディシュと共に娼館の外へと出ようとした際、フェレシュテフは様々な視線を感じた。彼女が身請けをされたことに嫉妬する視線、彼女が羨ましいと羨望する視線、どうせ直ぐに娼館へと戻ってくるのだろうと予測をつけて小馬鹿にしている視線などがフェレシュテフの身に突き刺さってくる。
(私もあんな目をしていたのかしら……?)
フェレシュテフも嘗て、身請けされていく娼婦を羨ましく思ったことがある。その時の自分は、彼女たちと同じ目をしていたのかもしれないと思い返す。だから彼女はその視線を向けられることに反抗はせず、遮ろうともしない。ただ気分は良くないので、手の内にある
足の悪いヴラディスラフは徒歩ではなく、馬車に乗って娼館へとやって来たらしい。マツヤの町の人間だと分かる容貌をした御者に助けられながら、ヴラディスラフは先に馬車に乗り込む。彼が席に腰掛けるのを待ってから、対面の席に着いたフェレシュテフは話しかける。
「……ネクラーソフ様。身請けをして頂きまして、誠に有難うございます」
「此方こそ、私の我が儘に付き合って頂けたことに非常に感謝しています。フェレシュテフさん、有難うございます。ああ、御者の君。馬を走らせてくれたまえ」
「畏まりました」
ヴラディスラフに感謝の言葉を述べられたことにフェレシュテフが困惑しているうちに、彼は御者に命じて馬車を走らせる。生まれて初めて乗る馬車に感動し、車窓から覗く町の風景を楽しんでいたフェレシュテフははっと我に返り、彼に尋ねたいことがあったのだと思い出す。
「あの、ネクラーソフ様」
「そのネクラーソフ様という呼び方は無しにしましょう。ヴラディスラフと呼んで頂いて結構ですよ。ああ、ヴラディスラフが言い難いのでしたらヴァージャでも構いません」
フェレシュテフの母親であるナーザーファリンはヴラディスラフが言えなくて、彼をヴァージャと呼んでいたとヴラディスラフは懐かしそうに目を細めて語る。だが、フェレシュテフにはそうすることが出来ない理由がある。
「いいえ、それは出来ません。貴方様は本日より私の新しい主人となられました。貴方様が良いと仰られたとしても、主人の御名を気安く呼ぶことは私には許されません」
フェレシュテフは身請けされた娼婦で、ヴラディスラフは彼女の主人だ。歴とした身分の差があるのだとフェレシュテフが訴えると、ヴラディスラフは悲しげに眉根を寄せ、俯く。
「確かに私は貴女を金で買い取りました。だが、貴女を隷属させる為にそうしたのではありません。理由は貴女も御存知のはずでしょう?ですから、私と貴女の間に、身分の差というものはありません」
ヴラディスラフはフェレシュテフを身請けしたのは、ナーザーファリンの最期の願いを叶える為だ。それは理解しているのだが、自分は身請けされた者なのだから立場を弁えないといけないと考えるフェレシュテフにはどうしても抵抗がある。膝の上で拳をぎゅっと握り締め、黙りこくってしまったフェレシュテフを暫し眺めたヴラディスラフは小さく息を吐いた。
「……それでは、”様”付けを無しにするだけで良いです」
「畏まりました、ネクラーソフさん」
「ヴラディスラフ、或いはヴァージャと」
「え?ネクラーソフさん……」
「ヴラディスラフ、或いはヴァージャと」
「ヴ、ヴラディ、ヴラディスラ、フ、さん?」
「ええ、大変結構です」
”様”付けを止めるだけで良いはずではなかったか、と困惑の色を浮かべるフェレシュテフに反して、ヴラディスラフはとても満足そうに微笑む。物腰が柔らかいようでいて押しが強いヴラディスラフに気圧されながらも、フェレシュテフは質問をしようとして、今一度口を開く。
「ネクラーソフさんに」
「ヴラディスラフ」
「……ヴラディスラフさんにお尋ねしたいことがあります。ヴラディスラフさんはスネジノグラードに戻られるのだと思いますが、私も其方へ向かうことになりますか?勝手を承知で申し上げますが、出来れば私は母のお墓があるマツヤの町を離れたくないのです……」
「あちらでしていた仕事は全て後継に譲りましたので、私は隠居の身です。これからの日々はマツヤで過ごそうと決めてやって来ましたので、スネジノグラードへ戻ることはしません。若しもそうなったとしても、貴女をあちらへ連れて行くことは決してしません」
ヴラディスラフの言葉を耳にしたフェレシュテフがあからさまに安堵した様子を見せるので、ヴラディスラフは苦笑しつつも話を続ける。
「私はスネジノグラードへは帰りませんが、セーヴァ……フセヴォロドは時折帰らせようと思っています。彼は足が悪い私を心配して共にマツヤへとやって来てくれましたが……何分雪国の生まれですから、暑い所が苦手なのです」
今頃は家でぐったりとしているのではないかと、ヴラディスラフは楽しそうに呟く。
「お住まいがあるのですか、もう?私はてっきり宿に滞在していらっしゃるのかと……」
「マツヤに永住するつもりでしたから、予め住居は手配しておいたのです。大きくて広い家ですよ、我々にはね」
その答えは直ぐに分かると彼が言うと、馬車が動きを止めた。どうやら目的の場所に到着したらしい。
「ネクラーソフ様、御自宅に到着致しました」
御者が扉を開き、二人を馬車から降ろす。地面の上に降り立ったフェルーシャが顔を上げると、視界に二階建ての木造住宅が飛び込んできた。然し、大きさが彼女の基準とは異なるので違和感を覚える。二階建ての住宅であるはずなのだが、彼女の感覚では三階建てのように感じる高さの住宅だ。
周囲に立ち並ぶ住居も同じような作りで、且つ同じような高さなので、フェレシュテフは自分が小さくなってしまったような妙な感覚に囚われる。彼女が呆気にとられていると玄関の扉が開き、巨躯であるフセヴォロドが身を屈めることもなく外へと出てきた。それを目にしたフェレシュテフは、違和感の正体に気が付いた。
「あの……ヴラディスラフさん。此処は亜人の居住区、ですか?」
ヴラディスラフと話し込んでいたフェレシュテフは車窓の景色に目をやっていなかったので、色町を出立した馬車が人間の居住区を通り過ぎ、亜人の居住区の内へとやって来ていたことに気付いていなかった。
「ええ、そうです。フセヴォロドが天上に頭をぶつけないことを考えると、彼に見合った天井の高さがある住居が此方にしかなかったもので」
フェレシュテフとヴラディスラフにとって大きくて広い家、の答えが漸く分かった彼女は、体の大きな亜人に丁度良い高さと広さのある一軒家をぼんやりと見上げる。
「ただいま、セーヴァ。フェレシュテフさんを連れて来たよ」
「おかえり、ヴァージャ。フェレシュテフ、セーヴァとヴァージャの家へよく来た。本日より此処がフェレシュテフの家だ。さあ、中へ入ると良い」
「お世話になります、フセヴォロド様」
自分を迎え入れてくれたフセヴォロドに対してフェレシュテフが挨拶をすると、彼はじいっと彼女を凝視してきた。その視線が何を意味するのかが分からず、早速フセヴォロドに不躾なことをしてしまったのかと思い込んだフェレシュテフは瞠目して硬直してしまう。穏やかな人物であるとヴラディスラフから紹介されてはいるが、鰐にも似た顔をしたフセヴォロドは表情がまるで分からないので、フェレシュテフはどうしても彼に圧力をかけられているように感じてしまう。
「フェレシュテフさん。私と同様に、彼のことは様付けしないで呼んであげてください。出来れば、セーヴァと。そうすると、彼は喜びます。セーヴァ、女性を無言でじっと見てはいけないよ。君はただでさえ迫力のある顔をしているのだから」
「む、すまない。フセヴォロド様などと呼ばれることに慣れていないものだから、驚いてしまうのだ。フェレシュテフ、怖がらせてしまったか?」
「いいえ、私も驚いてしまっただけですわ。あの、今後とも宜しくお願い申し上げます、セーヴァさん」
「うむ。宜しく、フェレシュテフ」
鉤爪のついた大きな手が差し出されたので、フェレシュテフはその手をそっと握る。フセヴォロドの手は硬さがあるもののほどほどの柔らかさもあり、触れた瞬間はひんやりとしていたが僅かの後に温かさが伝わってきた。とても不思議な感覚だと、フェレシュテフは思った。
「さあ、茶の時間にしよう。セーヴァはマサラチャイを淹れる練習をしたのだ。フェレシュテフが喜んでくれると、セーヴァは嬉しい」
マツヤにやって来てから毎日ヴラディスラフを実験台にしていたのだというフセヴォロドに背中を押され、フェレシュテフは新しい家に迎え入れられる。住居自体は体の大きな亜人仕様だが、家具は亜人仕様の物と人間仕様の物と両方が置いてある。高さの違う二つの机が並んだ席に着き、フェレシュテフはフセヴォロドが淹れてくれた酷く甘いマサラチャイを飲みながら、これからの生活について、ヴラディスラフたちと話し始めた。
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ヴラディスラフに身請けをされたフェレシュテフが、彼とフセヴォロドを含めた三人での生活を始めてから一月が過ぎていた。娼婦であったフェレシュテフは昼近くに起きる生活に慣れてしまっていたので、ヴラディスラフたちに合わせた朝目覚める生活に慣れようと苦戦していたが、この頃になって漸くその生活に慣れてきたように思われる。今では朝日を感じると、フェレシュテフの意識が自然と浮上するようになってきた。
フェレシュテフがヴラディスラフから与えられたのは海を臨む、二階の部屋だ。人間の感覚では広々として、とても天井が高い部屋の中。眠気が抜けきっていないフェレシュテフは緩慢な動きで寝台から降り、昨日の夜のうちに用意しておいた水桶を使って顔を洗い、夜着から普段着に着替える。水玉や花柄をあしらった鮮やかな橙色のサリーはヴラディスラフが買い与えてくれたものだ。借金の返済を優先していたフェレシュテフは、極力私物に金を使わないようにしていたので使い古したサリーしか持っていなかった。そのことをヴラディスラフは気の毒に思ったのかもしれない。この他にもヴラディスラフは、必要だろうから、と言ってあれこれと買い与えてくれるものだからフェレシュテフは、こんなにも良くしてもらって良いのだろうか、と困惑するばかりだった。
着替えたフェレシュテフは半開きにしていた窓を全開にして、朝の空気や、今は未だ大人しい太陽の光を部屋の内に取り込む。波が穏やかな海を一瞥してから雲一つない晴れ上がった空を見上げ、フェレシュテフは眩しそうに目を細めて苦笑した。
「今日もまた暑くなりそうね」
マツヤの夏は未だ盛りのようだ。全身を黒い鱗に覆われている巨躯の同居人は暑さに中てられてぐったりとし、涼しい日陰を求めてウロウロするかもしれない。そして家主はその様子を楽しそうに眺めていそうだ。そんなことを想像してしまうくらいには、フェレシュテフと彼らは打ち解けてきたのかもしれない。
この家は体の大きな亜人に合わせて建てられている住宅なので、フェレシュテフには階段の段差と段板の幅がどうしても大きい。そのままでは不便だろうからと、フセヴォロドが階段の左半分を一つ一つの段差の間に踏み台をつける形で改造してくれたので不便さは少し改善されたのだが、不慣れな高さの段差と段板の幅ににフェレシュテフの体は未だ慣れてはくれないようだ。
足元に気をつけながら階段を降りたフェレシュテフが台所へ向かおうと廊下を歩いていると、洗面所から出てきたフセヴォロドと鉢合わせした。二人は朝の挨拶を交わすと、今朝の食事の献立について話し始める。
フェレシュテフとフセヴォロドは共に家事をしている。それにはこんな経緯があった。これからのことについてヴラディスラフたちと話し合いをした際、「身請けしてもらった上に生活の面倒を見てもらうのだから家事でも何でもさせてください」と懇願したフェレシュテフに対して、フセヴォロドがこう言ったのだ――「家事はセーヴァの趣味だ、それは奪わないで欲しい」と。あまり自分の意見を主張しないフェレシュテフが「男性に家事をさせるだなんてとんでもない。家事は女性の仕事です」と反論すると、フセヴォロドも「セーヴァは仕事をするのではない。趣味に打ち込むだけだ」と主張し、どちらも譲らない。互いに退かず押し問答をしていると、静かに見守っていたヴラディスラフが口を開いた。
「此方では家事は女性の仕事であるという認識がとても強いので、フェレシュテフさんの主張は理解出来ます。セーヴァは男性ですが、家事が大好きだと言うことを私は多分に理解しています。両者の意見に折り合いをつけるべく、私は提案をしたいと思います。二人で仲良く家事をしたら良いのではないでしょうか?如何かな?」
(うーん、未だ少し見慣れないわね)
体の大きなフセヴォロドに見合った大きさと高さの机は不便なので、彼が作ってくれた台に乗って胡瓜を薄く切っているフェレシュテフは横目で彼を窺う。硬そうな大きな手には小さい人間用の包丁や鍋を使い、ちまちまとして作業を器用にこなしている姿が奇妙だが、何となく可愛らしく見えるような気もしてくる。だが、家事が趣味だと断言しただけあって、フセヴォロドの料理の腕は素晴らしく、マサラチャイがどうにも酷く甘いのだけが欠点なくらいだ。
「おはよう、セーヴァ、フェレシュテフさん」
「おはよう、ヴァージャ」
「おはようございます、ヴラディスラフさん」
出来上がった料理を食卓の上に並べているところでヴラディスラフがやって来た。上座の席に着いた彼は食卓の上を見渡すと、おや、と声を上げた。
「今朝もマスト・ヒヤールがありますね。昨日も一昨日もあったかな」
「セーヴァはこれが好きなのだ。これを食べると、少しだけ暑さに耐えられるような気がするのだ」
薄切りにした胡瓜にヨーグルトを和えた、ミントの風味と塩味の効いたマスト・ヒヤールはフェレシュテフの母親の故郷の料理で、フェレシュテフが炊事を手伝える年齢になった時にナーザーファリンに教えてもらったのだ。これには暑気中りを防ぐ効果があるとも教わっていたので、日中の暑さに参っているフセヴォロドに振舞ってみたところ、彼はその味をすっかり気に入ったらしい。景気づけに毎朝食べたいと彼に乞われたので、フェレシュテフはこれを作るのが日課になっている。朝食はこの他に香辛料の効いた豆のスープ、極薄のクラッカーのようなパーパド、それにつけるチャツネが並ぶ。主にヴラディスラフとフセヴォロドが会話をし、フェレシュテフが相槌を打つ和やかな朝食の時間は早々に過ぎていく。
フェレシュテフとフセヴォロドが後片付けを済ませると、ヴラディスラフが出かける支度をしているのが目に入ってきた。
事業家を引退したと言っていたヴラディスラフだが、いつの間にか仕事を決めてきていた。母国語の他に幾つかの地域の言葉を操れるヴラディスラフは、貿易会社で通訳と翻訳の仕事をしているのだそうだ。フセヴォロドもヴラディスラフと同じ会社で、荷物運びの仕事をしている。ヴラディスラフの付き添いで行った際に、その体格に見合った仕事があると社員に誘われたらしい。
「セーヴァとヴァージャは共に仕事へ向かう。食材の買出しは、フェレシュテフに任せる」
「はい、畏まりました」
「夕方には帰ってきます。戸締りには充分に気をつけてくださいね。それでは、行って参ります」
「お気をつけて行ってらっしゃいませ、ヴラディスラフさん、セーヴァさん」
ゆったりとした足取りで職場へと向かう二人を背中を見送ってから、フェレシュテフは洗濯をして、屋上に張り巡らした洗濯紐に洗ったばかりの衣類を干していく。
ヴラディスラフに身請けをして貰ってからの日々は穏やかに過ぎていっている。奴隷のように扱われないことに、夜伽を命じられないことに安堵を覚えるが、心のどこかでそれを不安に思っている自分がいることにフェレシュテフは苦笑する。
(お母さんがヴラディスラフさんに引き合わせてくれたのよね、きっと。そのことに感謝しなくちゃ。ヴラディスラフさんに不安を抱いては失礼よね)
洗濯物を干し終えるとフェレシュテフは一階に戻り、フセヴォロドが用意してくれた覚書の紙と財布、そして荷物を入れる風呂敷を手にして買い物へと出かけていった。
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