第3話 因果応報

 白い虎(仮)の広い背中を見送ったフェレシュテフは暫しの間呆然としてその場に突っ立っていたが、やがて我を取り戻す。深呼吸をして逸る心臓の鼓動を落ち着けてから、娼館の裏口の扉をゆっくりと開ける。厚い木の扉は女性の手には重く感じられるが、今はより一層そのように感じられる気がした。

 裏口の脇には人の出入りを監視している受付が設置されており、其処にいた店の従業員の男はフェレシュテフの姿を認めるなり、彼女に此処に留まっているように言い、手元に置いている鈴を鳴らした。どうやら人を呼ぶらしい。


(……あら?そういえば……)


 スジャータに引き摺られて出て行った時のことを、ふと、思い出す。そうだ、この場所には常に人がいる。あの時は混乱していたので気にも留めなかったが、あの時、この場所には珍しく誰もいなかった。それは何故だろう、と、物思いに耽りかけたフェレシュテフの視界に大きな影が入り込む。目の前にはいつの間にか、筋骨隆々としたいかつい顔をした大男が立っていた。その男は店主が雇っている用心棒の一人でゴータムといい、ぎょろぎょろとした目でフェレシュテフを静かに見下ろしている。


「戻ってきたのか、フェレシュテフ」


 それだけを言うとゴータムはフェレシュテフの細腕をがっしりと掴んで踵を返し、大股で歩き始める。じんわりと痛む足を庇いながら、フェレシュテフは小走りで彼についていく。

 フェレシュテフが連れて行かれたのは、娼館の二階に位置している店主の仕事部屋だった。美しい彫刻が施されている黒檀の扉の向こうには、縄にかけられて床の上に転がされている三人の男――よく見てみると、この店の従業員だ――と、座り込んで泣きじゃくっているスジャータ、そして仁王立ちをして彼らを見下ろしている中年の男が待っていた。


「随分と酷ぇ格好をしてやがるなぁ、フェレシュテフ。然も何でい、その馬鹿でかい男物の胴着はよぉ?」

「……見ず知らずの男たちに襲われていたところを、虎の亜人ドゥンの方に助けて頂いて、その上胴着も貸して頂いたんです」


 丁寧に手入れしてある口髭と天辺禿げが印象的な中年の小柄な男――娼館”ソーマの雫”の店主ジャグディシュは、フェレシュテフを見るなり、人の悪い笑みを浮かべた。彼の問いかけにフェレシュテフが馬鹿正直に答えると、彼はより一層笑みを深くする。


「おう、スジャータ。答え合わせを始めるとするかい」


 悪魔のような凶悪な表情をしたジャグディシュを見たスジャータは声にならない悲鳴を上げて身を震わせ、床に転がされている男たちも赤く腫れあがった顔から色を失くす。フェレシュテフもまた、背筋が凍りついたのを感じたのだった。




 時は少しばかり遡る。

 仕事部屋にて日課であり趣味でもある帳簿つけをしていたジャグディシュは、娼館の中の空気がおかしいことに気が付き、忙しなく動かしていた手を一旦止めた。すると丁度良く、彼の自慢である黒檀の扉が叩かれる。入室を促すと、子飼いの用心棒であるゴータムが室内へと足を踏み入れる。


「旦那様、申し訳ありません」


 深々と頭を垂れるゴータムの口から出てきた言葉に、ジャグディシュは眩暈を覚える。ゴータム曰く、外出をしていると聞いていたスジャータが彼女らしくないみすぼらしい格好をして戻ってきたので事情を聞いてみると、フェレシュテフに騙されて外に連れ出され、その先で待ち伏せをしていた破落戸たちに強姦されたらしい。

 ――スジャータは兎も角、あの大人しいフェレシュテフがそんなことをするだろうか?そう思ったゴータムは、彼女たちが出ていった時間帯に裏口の番をしていた従業員に尋ねてみる。彼は「フェレシュテフがスジャータの手を引いて出て行った」と証言をしたのだが――詳しく話を聞こうとすればするほどに矛盾点が現れ、それを追究していくと彼女らが嘘を吐いていることが分かった。スジャータは自分は何も悪くはないと言い張り続けるが、彼女に口裏を合わせていた男たちはゴータムの脅しに負け、口を割る。こうして、フェレシュテフを辱める為だけに娼館の従業員たちと、彼らを通じて知り合った破落戸たちをスジャータが買収したことが明るみに出たのだった。それは今、店主ジャグディシュへと伝えられた。


「……それで?フェレシュテフは一体何処に連れて行かれちまったってんだ?」


 フェレシュテフが連れて行かれた場所は、スジャータに協力した男たちによって、亜人の居住区の方であることは判明したのだが、詳しい場所までは分からなかった。知っているはずのスジャータは泣くばかりで、髪を掴んで無理矢理顔を上げさせ、凄んで脅してみても頑として口を割ろうとはしない。これでは埒が明かない。兎に角亜人の居住区の方へと人をやろうとした矢先、都合よくフェレシュテフが戻ってきたのだった。




「……何てこった」


 自分の身に起こったことを正直に話せとフェレシュテフに命じたジャグディシュは、愕然とする羽目になった。フェレシュテフの連行された先は、マツヤの町の商売人が敬い、且つ畏怖する存在の鰐の亜人マカラヴィクラムの縄張りだったのだ。『娼婦は自身の商売道具である』と言って憚らない厚顔を持つジャグディシュだが、ヴィクラムは敵に回したくないと思う人物のようだ。古くからマツヤに住んでいる一族の出で、主に港の方で運送業を営んでいるヴィクラムは顔が広く、町の上役でさえも彼の言葉に簡単に耳を傾けると言われているほどの人物に睨まれてしまっては、娼館を畳むことになりかねないことをジャグディシュは知っていた。


「最悪なことを仕出かしてくれやがったなあ、スジャータ?然も何だぁ、フェレシュテフに痛い目見せてやてえとか馬鹿みてえな理由でかよ。そんなことで俺ぁ店ぇ畳まなくちゃならねえってのか?……ふざけるなよ!!!」


 室内にジャグディシュの怒号が響くと同時に、スジャータは握り拳で美しい顔を思い切り殴られて床の上に倒れこむ。何が起こったのか理解出来ていないのか、彼女は瞠目して呆けている。


「金を稼ぐからちっとばかし目ぇ瞑ってやったらいい気になりやがって!いつまでも金持ち気分が抜けねえ鼻持ちならねえって他の店を追い出された手前を拾ってやったってのに恩を仇で返しやがって!!俺を馬鹿にしてんのか!!?」


 商売道具である娼婦の体に傷を付けることを厭うジャグディシュが手を出しているのだから、彼は怒り心頭なのだろう。ジャグディシュの怒りを買う真似をしたスジャータがいけないのだと思いはしても、目の前で暴行を受けている彼女を見ているのが辛くなり、フェレシュテフはそっと目を閉じて顔を背けた。


「ご、め、なさ……っ。ゆる、し、てぇ……っ!」

「泣けば許されると思ってんのか!?それで済む訳ねえだろうがっ!!手前らも手前らだ。こんな馬鹿な女に唆されやがって!!!」


 怒りの矛先はスジャータから彼女に協力をした男たちに変わる。怒り狂ったジャグディシュが彼らに暴力を振るっていると仕事部屋の扉を叩く音が聞こえた。


「……入れっ」


 苛立ちを露わにジャグディシュが答えると、呼び込みを担当している男が慌てた様子でジャグディシュに耳打ちをしてきた。怒りのあまり赤く染まっていたジャグディシュの顔は一気に色を失い、彼はあたふたとし始める。


「お、おい、ゴータム!この馬鹿どもを地下に押し込めておけ!フェレシュテフ!手前のことは後だっ。さっさと汚ぇ格好をどうにかして、俺が呼ぶまで部屋で大人しくしてろ……っ!!」


 ぐったりとして動かなくなっているスジャータたちは用心棒たちに引き摺られるようにして、地下へと連れて行かれる。残されたフェレシュテフは逃げられないようにと監視を付けられてから、ジャグディシュの仕事部屋を追い出された。




 自室へと戻ってきたフェレシュテフは下働きの少女に湯を用意してもらった。部屋の中には監視役の男がいるがそのことには頓着せずに裸になり、汚れた体を拭いてから体内に吐き出された精液の始末をする。それを終えると残っている着古したサリーを身に付け、羽織っていた白い虎(仮)の胴着を丁寧に畳んで、衣装をしまっている櫃の上にそっと置いて、一先ず息を吐く。


(……夕飯、食べ損なってしまったわね)


 寝台の上で膝を抱え、徐に窓の外へと目を向けたフェレシュテフは唐突にそんなことを考えた。自分は今空きっ腹であると体が訴えてくるが、スジャータの罠に嵌った衝撃が思っているよりも強いのか感覚が麻痺しているようで、食べる気が起きない。問題は特になさそうなので、そのままにしておくことに決めた。

 ――これから自分はどうなってしまうのだろう?漠然とした不安がフェレシュテフの胸を蝕み、ほとほとに疲れているというのに眠気が全くやってこない。煌びやかな星を鏤めた夜空はやがて白んでいき、漸く眠りが訪れた頃には太陽が地上に顔を出す時刻になっていた。






**********






 あれから、半月が過ぎた。

 娼館”ソーマの雫”は今夜も盛況しているが、店内の空気は僅かにぴりぴりとしている。スジャータたちの末路の噂を耳にした娼婦や従業員が、彼女たちの二の轍を踏むまいと自身の行動一つ一つに注意を払い、店主ジャグディシュの顔色を常に窺ったりしているからだろうか。

 ジャグディシュの顔に泥を塗ってしまったスジャータはというと、娼館から姿を消した。店主に近しい従業員らの噂によると、彼女は別の町の娼館へと特別価格で売り飛ばされたらしい。彼女が抜けた穴や、彼女が仕出かしたことで発生した損失は、彼女が有していた金品を売り払うことである程度は補填出来たらしいが、しなくても良いことをする羽目になったジャグディシュの機嫌は悪いままだ。

 スジャータと手を組んだ男たちも、マツヤの町から姿を消した。出所が不明な噂によれば、彼らは顔の判別が出来なくなるほど手酷く痛めつけられてから、マツヤの町から離れたところにある鬱蒼とした森の中へと捨て置かれたらしい。それが本当であるならば、彼らは今頃森に棲む獰猛な獣の牙にかかり、物言わぬ肉塊へと姿を変えているかもしれない。彼らにまつわる噂を耳にしたフェレシュテフは素直に、ざまあみろ、と思った。娼婦仲間に”良い子ちゃんのフェレシュテフ”と揶揄されることが多い彼女だが、あんな目に合わされても尚”良い子ちゃん”でいられるほど人は良くないと思っている。スジャータたちからは一言も詫びを入れられていないのだから、そう思っても良いはずだと思うことにした。そうしていないと、何だかやっていられないのだ。

 ――それから。亜人の縄張りを荒らしていたというあの破落戸たちもまた、町から姿を消したらしい。縄張りの主である鰐の亜人マカラのヴィクラムが彼らの生殺与奪の権を握っていたようなので、彼らの処遇について詳しく知るものはいない。何かあったのかといえば、破落戸たちからスジャータのことを聞き出したらしいヴィクラムが”ソーマの雫”に使者を送ってきた。丁度、あの夜のことだ。ジャグディシュとヴィクラムの間で秘密裏に取引が行われたようで、スジャータが起こした一件は色町の中にも外にも流れ出さずに済み、”ソーマの雫”は未だマツヤの色町でこれまでと特に変わることなく営業を続けていられるようだ。――副産物として、機嫌の頗る悪いジャグディシュが出来上がってはいるが。

 スジャータの浅はかな企みにまんまと嵌ってしまったフェレシュテフはというと、己に降りかかった不幸に酔うわけでもなく、店主にも気遣ってもらうこともなく、これまでと同じような日々を送っている。破落戸に強姦されたからといって、心に出来た傷が癒えるまで休ませてくれるような店主ではない。長年の付き合いで店主はそういう人物であるということは嫌でも理解しているので、フェレシュテフには文句を言う気が起きなかった。

 変わったことといえば、平日・休日関係なく外出することを禁じられたことだろうか。店主曰く、また面倒ごとに巻き込まれるのは御免なのだそうだ。もう一つは、フェレシュテフの主観でしかないが、一夜の相手をする客の質が変わったように思えることか。今までは老若問わず様々な性質の客の相手をしてきたのだが、近頃は比較的気性の穏やかな客の相手ばかりをしているような気がするのだ。正直なところ、あんなことがあってからは女を性欲の捌け口としか思っていない男の相手をするのは暫くは勘弁して欲しいと思っていたので、フェレシュテフは有難く今の状況を受け入れることにした。

 ただ、外出を禁止されてしまったことだけは残念に思っている。白い虎(仮)に借りたままの胴着を返しにいけないからだ。

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